ぼちぼち スウェーデン

スウェーデンで見たこと、聞いたこと、考えたことを、同時代に生きるみなさまとシェアーを!

ノルウェーのテロ事件

2011-08-28 | メディア情報

  

 アンデシュ・ベーリング・ブレィヴィ(Anders Behring Breivik)32歳、金髪で青い目という、ごくふつうにみられるノルウェー人である。その一見ふつうの男性は、722日金曜日の午後、オスロの中心地にある政府庁舎に強力な爆弾を仕掛け、建物やその周りを大きく破壊した。爆発で建物の中にある首相の執務室に続く壁に穴が開くほど、狙いは正確であった。ブレイヴィクは首相の殺害をはじめ、政府の中枢組織の機能破壊を図ったのである。首相は無事であったが、死傷者は多くでた。

 

つぎにブレイヴィクは、オスロから40キロの距離にある小島、ウトィヤUtöya)に車を向けた。この島では、ちょうどノルウェー労働党青年部主催の恒例のサマー・キャンプが開かれていて、外国からの参加者も含めて、多数の青年男女が集まってきていた。そこへ警官に扮したブレイヴィクが現れ、逃げまどう若者たちを、つぎつぎと射殺していった。

 

一連のテロ行為の被害は大きく、オスロ市内とウトィヤの両方で、死者は最終的に69人となった。しかし、それ以外にも重傷で入院中の人たちがいる。ブロンドで青い目のノルウェー人が同胞を大量殺戮したのだ。何が彼をそのような不可解な行為に駆り立てたのか。

 

 なぜノルウェー人がノルウェー人を

 

思いがけない出来事に、早まったメディアの一部は、アルカイダなどのイスラム系のテロだと報道したが、犯人(正式には容疑者)が判明したときの人々のショックは大きかった。

 

 一介のノルウェー人が綿密に大がかりなテロ計画をたて、それを冷酷に実行したのである。本人自身の言もあるし、現時点ではブレイヴィの単独行動であるとされているが、これから時間をかけて背後関係を洗い出すと発表されている。それにしても驚くべきは、ブレイヴィクは襲撃の準備に9年もの月日をかけていることだ。手間ひまをかけて化学肥料から爆弾を作り上げたのも準備の一環だ。

 

スウェーデンの社民党党首ユーホルトがラジオで語っていたが、ブレイヴィクは射撃中、ほほに薄笑いを浮かべていたという。なにが彼を狂気の行為に駆り立てたのかと、誰もが思うだろう。それは、ノルウェーを単一人種国家であることを守るためでる。多くの国粋主義者にみられるように、ブレイヴィクは、他のヨーロッパ諸国同様に、ノルウェーに大勢の外国人が移住してきて、多文化社会になるのを快く思っていない。

 

彼ら移住民は子どもを沢山産み、いずれ西洋社会を乗っ取ると考えている。白人社会であるノルウェーをそのような危機に陥れたのは、戦後、長く政権の座にあるノルウェー労働党の政策だと彼は判断した。「国難」に休止符をうつために、首相を務める労働党党首を殺害し、次世代の政治の担い手となる労働党青年部員の根こそぎ排除を目指したわけだ。

 

ブレイヴィクはテロを行う理由や、準備の過程を1500頁にわたるマニフェストとしてビデオ公表している。その簡単な紹介はノルウェー放送の動画でみられる(http://www.nrk.no/nyheter/norge/1.7724894)。

 

マニフェストには、勲章などがいっぱい付いている衣装を身につけた写真もあり、自分を白人社会ノルウェーを危機から救う英雄に仕立てあげる演出をしている。また、筋肉増強剤であるアナボリックステロイドを使用して自信をつけていた。

 

 地に堕ちた「最後の楽園」

 

隣国スウェーデンでのショックも計りしれない。じつはノルウェーは北欧での「最後の楽園」であったからだ。自国ではパルメ首相を1986年に暗殺されて以来、深いトラウマを抱えて生きる国になっている。デンマークは、外国人、とくにムスリム系アラブ人排斥が目に余るほどになり、さまざまな事件を誘発している(拙著「ムハンマド風刺画と北欧諸国」を参照されたい。 http://www.rochokyo.gr.jp/articles/ab0602.pdf)

 

フィンランドでも「真のフィンランド人」という外国人排斥の政党が、今年春の国会選挙で3番目に大きい支持率を得たのが大きな汚点となった。戦後の北欧では、ノルウェーだけが大きな傷をもたない無垢な福祉国家という楽園であったのだ。「ブルータス、お前もか」ではないが、その国も、ついにトラウマを抱えることになってしまった。

 

 指導者としての首相の在り方

 

イェンス・ストルテンベリィJens Stoltenberg)首相(52)は、前代未聞の出来事にすばやく反応し、事件発生直後からひんぱんにメディアに登場した。なかでも有名になったのは「邪悪はひとりの人間を殺すことはできるが、全国民を支配することはできない」というフレーズだ。また、「ノルウェーは民主主義国家であり、開かれた多文化社会である。これからも今まで以上に開かれた社会であり続ける」と事件直後に宣言している。アメリカで211事件が起こったあと、当時の大統領ブッシュが、外国人、とくにイスラム系の人たちにさまざまな規制政策をとったのと正反対であるのは印象深い。

 

自分も若い頃はウトィヤのサマー・キャンプに参加しており、思い出深い場所であるうえ、自分の親戚も含め、意を同じくする有能な若者を多く失った悲しみは耐え難いものであるという個人的な感情を、涙をこらえて表現した。しかし同時に、怒りと憎悪に自分を失うことなく、一国の指導者として毅然とした態度で、国民全員が一体となって危機を乗り越えるという指針を明確に示した。

 

 信頼度上昇の首相と労働党

 

多くの国民はストルテンベリィ首相の態度に共感した。事件直後の世論調査によると80パーセントのノルウェー人は、彼の対処は適切であったと評価している。不適切としたのはわずか1パーセントだ。

 

事件から一ヶ月が経過したが、誠実で真摯な態度であたるストルテンベリィ首相への信頼度は日をおって強くなっており、「国家の父」として不動の地位を獲得している。労働党の支持や入党希望者は増え続け、次期も政権を担当するのは当然と見られている。

 

同胞の殺戮を行うことにより、人々を目覚めさせ、ノルウェーを外国人の「侵害」から守るというブレイヴィクの意図は、逆の結果を生んでしまった。人々は在住外国人も含めて、お互いに思慮深い態度で接しあっているという。外国人排除を標榜する右翼系政党は人気を失い、これまで使っていた過激な言葉を慎むようになった。国が大きな危機に瀕した場合、国民は指導者を中心に結束すると言われているが、その通りになった。

 

その影響はスウェーデンにも波及し、極右で外国人排斥のスウェーデン民主党(SD)の人気はガタ落ちだ。高いときは7パーセントを上回っていた支持率は、いまや3パーセントに満たない。いま、仮に総選挙が行われると国会に代表を送れない数値である。しかし、人は長くは記憶しない傾向にあるので、これからどうなるかは分からないが・・。

 

                            (初出:連合『労働調査2011年8月号掲載

                 「ノルウェーの連続テロ事件」を訂正・加筆)

  


パトカーに捕まる

2011-08-27 | 人々のくらし

 

道路は少しカーブが多いが、交通量はゼロに近い郊外の昼下がり。自動車の修理工場に予約を入れてあったので、少し急いで車を走らせていた。なんだかいやな予感がしたので、バックミラーを見てみると、なんとパトカーがぴったりくっついているではないか。

「しまった!」 自分が悪いことをしたという自覚はない。しかし、パトカーを見ると、とたんに後ろめたい思いをするのはドライバーの常だと思う。頭にひらめいたのは、スピードの出しすぎかも、ということ。それで急いでブレーキを踏んで減速した。さらに30メートルくらい走ったところで、パトカーから強烈な青い光が前方に向かって発信されているではないか。あたりを見回しても走っているのは我がボロ車だけ。覚悟を決めて道路際に停車した。

 

「あ~ぁ、遅れているのにもっと遅れる」

調書をとられるのに15分、それに加えて罰金。おまけに修理工場の時間に遅れるので、修理してもらう時間も余分に長くなる・・・という三重苦を覚悟した。おまわりさんがやってきてドアをノック、定番の「免許書を見せなさい」から始まった。「あなたは70キロで走っていましたね。ここは50キロですよ」 ぎょぎょ!急いでいたので、わたしには制限速度を考える余裕がなかったらしい。「えっ、70キロではないのですか」わたしは7273キロで走っていたのである。それから、こっけいなことに色々と弁解を始めるわたし。

なかでも傑作なのは、「それに運の悪いことに、パトカーが近づいているのに全然気が付きませんでした」なんて言ったことだ。まったく自分でも信じられないことを言うアホさ加減。おまわりさんも、かなりびっくりしたのではないかと思う。「これはどうも、まともではないな」と思ったかもしれない。

わたしが自分でも自分の言葉にびっくりして黙ってしまったら、制限速度以上のスピードを出すことの危険性を少しお説教した後、「じゃ、早く修理工場に行きなさい」と言って、パトカーのほうに戻っていくではないか。意外な成り行きに、わたしのどきどきの心臓はもっとどきどきとなった。信じられないよね、こんな幸運なことがあってよいの?おまわりさんの後ろ姿がとてつもなく格好良くみえた。

神様、仏様、おまわり様、ありがとう。これからはもっと気をつけます!

 


ミンネスルンドで泣いた人

2011-08-23 | 人々のくらし

 

今日は、Yさんにお会いした。Yさん一家はいま、日本からこちらに移住のため、アパート探しなどで忙しくしておられる。たまたま、街中のアドルフ・フレドリック教会

Adolf Fredrik kyrka)のそばを通ったので、1986年に暗殺された当時の首相オロフ・パルメのお墓をお見せするため、敷地に入った。

すると、Yさんは「あれがミンネスルンドですよ、ご存知でしたか」と左手を指差された。この前の818日付のブログに、ミンネスルンドの写真がなかったので、ちょうど良い機会になった。ミンネスルンドは、ありとあらゆる様相をしているので、これからあちこちのミンネスルンドを撮っておくつもりにしている。

 

下のは、敷地のスペースが少ない市街地タイプだといえる。

 

  

 

Yさんは最近、スウェーデン人であるお連れ合いの、お父様の墓地であるミンネスルンドを訪れられた。そこで泣いてしまわれたそうだ。そこには、故人を偲べるようなものがなにもなく、あまりにもわびしすぎたのが理由らしい。ふつうのお墓だったら、多分泣かなかっただろうとおっしゃった。彼もわたしと同じように墓石が欲しいのだ。

 

下の写真はオロフ・パルメのお墓。墓石は家族のサマーハウスがあるフォーリョー(Fårö)から運んでこられた自然石で、それにパルメのサインがあるだけのシンプルデサインだ。左横の桜(だと思う)はつい最近になってから植えられた。ついでだが世界的に有名な映画監督イングマル・ベリィマン(Ingmar Bergman)も、生前には同じ島に居を構えていた。

 

 

 

 

 

 

 


スウェーデンのお墓

2011-08-18 | 人々のくらし

 

生前、とくに親しくしていなくても、ストックホルムに何十年も住んでおられた知人が亡くなると、他人事のようには思えない。しかも、Wさんが最後の一時期を過ごされたホスピスは我が家のすぐ近くで、散歩するときよく横を通っている。お墓も散歩道にある。それで、自分なりの「お墓参り」に出かけた。途中、偶然にお会いしたTさんは, かってはWさんと親しくされていたので、案内がてら同行してくださった。

Wさんが亡くなったのは、ついこの間だと思っていたが、丁度、3年前の8月で、なんとわが母と同じ命日であった。そのときはちょうど日本にいたので、Wさんのお葬式には参列しなかった理由がわかった。

お墓にバラを1本供え、「じゃ、さようなら。元気でね」というと、Tさんは「もう、死んでいるのだから、元気でね、はおかしいよ」と言う。でも、死んだ人たちは、どこか別の世界で楽しくやっているような気がするのだ。しかし、リインカネーション・輪廻説によると、死ぬとまた、同じ地球上で別の人間になって生まれ変わるのだそうだ。同じ地球にまた人間になって生まれてくるなんて、なんだか夢がない。それより、花がいっぱい咲いている楽園で毎日過ごすのを期待したい。なに?お前なら針の山や、餓鬼地獄行きだって?うっ、ありうる!そうなると大変、天国行きのキップを貰うために、いまから善行を重ねる時間あるかな~。それより地獄での苦行に備えて体を鍛えておくほうが確実か?

  

 新しいお墓

ついでにというか、Tさんは、墓地の新しく開発された部分を見せてくださった。キリスト教以外の人が眠るところという。場所全体が庭園のようでとても素敵だ。そばの森も自然な「借景」として様になっている。

 

手前に置いてある自然石が墓石。名前とかを書いてあるプレートを石に打ちつける。

 

 

奥のほうにある縦型の石も墓石。

 

 

こんなタイプもある。

 

ごく一般的なお墓。

 

 無名・無縁の墓

一部にはかなり知られているが、スウェーデンでは無名・無縁の墓地にあたる ミンネスルンド(minneslund. minne=記憶、思い出。lund=林、小さい森)”がある。どこの墓場でも、そのような一角があり、骨壷はその地域のどこかに埋めてある。同行のKさんによると、そこに灰でまくケースもある。

ミンネスルンドのすごいところは、そこに葬られている人たちは、完全に個人としてであり、親きょうだい親戚などの係累には一切関係がないことだ。隣近所で一緒に眠っている人たちは、生前、自分とまったく関係のなかった人たちだ。ちょうど、電車で知らない人と隣り合わせに座っているように、知らない者同士がミンネスルンドに居合わせる。「XX家の墓」という存在の対極に位置しているのである。

家族の歴史を見ると、親戚なども含む大家族制度から、三世代家族、さらに核家族と、家族構成の成員数がずっと減少していく傾向にあった。いまでは、大都会での世帯の半分は単身世帯である。だんだんと家族のサイズが小さくなっていき、究極的にはひとり世帯になるのだ。ミンネスルンドのような場所があれば、死後の心配なしに "安心して" 死ぬことができる。

ひとりで生き、ひとりで無縁の墓地に入るのは、現代社会での先端をきる生き方ではないだろうか。たとえ家族があったとしても、無縁の墓地に入る自由もある。これを人間の開放とする見方もあるだろうし、反対に脅威と取られるかもしれない。いずれにしても、そのような選択肢は、スウェーデンにはすでに存在しているのだ。個人主義社会の究極がここにある。*

  

 墓石は必要か?

それから、墓地にいるわれわれの間で、死んだ後は墓石がいるか、いらないかという、かなり興味深い話になった。例えば、Kさんは、すでに身内の灰を日本からもってきて、ミンネスルンドにまいている。自分のもそうしてほしいと、お連れ合いに話してあるそうだ。故人の想い出は、生きている人の心の中にあるのだから、わざわざ墓地を訪れる必要はないという意見だ。

他方、Rさんの場合は、亡くなったお連れ合いの骨を、遺言によりミンネスルンドに埋めた(実際に行うのは、家族ではなくて墓地管理局)。しかし、故人を偲ぶためそこを訪れても、どちらを向いていいのかわからず、ベンチに座っているだけで、とてもさびしいとよく言っていた。

しかし、これは残った家族に対する故人の心遣いなのかもしれない。このブログを書いてから、初めてそれに思い当たった。病気して亡くなった彼女は、まだ若い夫に、将来新しい伴侶ができるかも知れないと考えたのかもしれない。そのため、自分は邪魔にならないように、ひっそりと眠りたかったのかもしれない。これはあくまでに可能性としての憶測であるが・・。事実、その通りになって、今は新しいパートナーとの間に一児をもうけている(ついでだが、この社会は、同居・別居・結婚・離婚が多く、全然、珍しくない)。

わたしもどちらかというと墓石がほしい方だと思う。自分の家族以外にも、さようならを言わないで逝ってしまった人に挨拶するのに、墓はいい場所だと思う。例えば、1966年に亡くなった日本の友人には最期のお別れをしていないので、いまだにこころ残りである。彼女の墓のありかもしらないので、何だか彼女との関係が中途半端のままで終わっているような気がするのだ。

いったいに、スウェーデンの人は、自分のお墓のことはあまり考えていないようだ。お墓をどこにするかを聞いて見ると、「さあ、それは子どもたちが決めることでしょう」という答えが返ってくることが多い。つまり、無名の墓に入るのは自分で決めるが、墓石については、後に残る家族が決めるということだろう。それにしても、わがKさんはスウェーデン的というか、仏教国日本から一歩先を歩かれていることになる。

 

* 念のために、付け足しておきたいのは、「個人主義」は、よく「利己主義」と、混同されることだ。利己主義は、簡単にいうと「自分勝手で気まま」な考えと行為であり、個人主義は、自分の人生に積極的にかかわり、それの責任を自分が負うことをいう。周囲の状況を絶えず勘案しながら行うところが、利己主義の「自分勝手」と基本的に異なる。人間はひとりではいきていけない集団動物なので、周囲との関係を大切にするのは当然のことだ。

* * スウェーデンのミンネスルンドについては、家族社会学者の善積京子さんの著作を参考にされたい。葬送についてのビデオもある。


晩夏がやってきた

2011-08-18 | 人々のくらし

 

ユーロ危機に象徴されるヨーロッパ諸国の経済の行き詰まりと社会不安、ノルウェーの連続テロ事件、国内では毎日のごとく報道される殺傷事件、保育所の砂場に仕掛けられた手製の爆発物で幼児が怪我、などなど、世の中は暗い(日本、アメリカ、アフリカ、アラブ諸国などなども、大きな問題を抱えているが、わたしの守備範囲は一応、スウェーデンを核としたヨーロッパですので・・)。

そんななか、ひさしぶりに街に出かけた。コンサートホール前の青空市場でグラジオラスを買う。あんまり大きいので、あとで計ってみたら1,2メートルあった。この花が出回る頃は、もう晩夏。秋が来て、その後すぐにやってくる冬がそこまで来て出番を待っているのを知る。

包んでもらうと、ずっしりとした確かな手ごたえ。花を抱えて帰る途中、なんだかほのぼのとした幸福感がひろがるのを感じた。安易な逃避だと、思われるかもしれない。しかし、庶民はこれまでもささやかな安らぎを身辺にみつけ、生き延びてきたのです。

 

 

 


ストックホルム・プライドパレード

2011-08-07 | イベント

76日土曜日は、恒例のレズビアンやゲイたちの祭典、プライドパレードの日であった。今年のハップニングは、行進中にわか雨が降り、工夫を凝らしたメイクがかなり流れてしまったことであった。

 

参加者は夕刊紙(Aftonbladet)によると35千人~5万人。見物人は主催者によると通常50万人だという。衛星都市を含めるとストックホルムの人口は150万人だから、単純計算だと、3人に1人はパレード見物をしていることになる。大した数字だ。とにかく、踊るアホウと見るアホウが、文句なしに楽しめる行事なのだ。 

 

とはいえ、このイベントは、「面白ろおかしい」以上の意味をもつ。スウェーデンでは同性愛は、ついこの間の1979年まで公式に一種の病気とみなされていた。いまはかなりオープンであるが、まだまだ隠れた差別や偏見がある。

 

 人はだれもが平等に生きる権利があるとされているこの国での、年に1度のプライド・パレードは、異性間以外の愛のあり方に関心をもつ人が、楽しい方法で自分の生き方をアピールできる機会なのだ。道路際での見物人は、拍手や握手などでパレード参加者にエールをおくる。その交流は連帯と人間愛に満ちていて暖かく、見ているだけで前向けに生きる勇気と元気が得られる。

 

 なお、今年の参加団体のリストを見ると、毎年参加の警察、医師、心身障がい者、宗教、スポーツ、各種文化、労働組合、政党、アムネスティー・インターナショナルなどの組織団体がみられる。一味変わった組織は、イギリス大使館、自動車の日産、ムスリム組織、借家人協会などだ。

 

ここをクリックすると、パレードの様子を5人の人が写した、たっぷりの写真集が見られる。

PS: 昨年のパレードの様子も合わせて参照ください。

blog.goo.ne.jp/stockholm_1966/m/201007