哲学を語る時に最大限注意を払わなくてはならないことがある。
これを誤ると、哲学論議に出かける時、妻に頭の上から水を浴びせられたソクラテスと同じ状況になる。
あるとき友人に、ニーチェの「神の死」とハイデッガーの「存在の不条理」を滔滔としゃべったことがある。
車を運転しながら熱弁をふるった。
気が付くと助手席の友人はいびきをかいていた。
「聞いてるか」というと、
「う~ん 聞いてるで~ . . . 本文を読む
この問いは「哲学」という学問にたいする問いである。
この問いに答えるのは非常に難しいが、実は簡単でもある。
まず表面上から簡単にいうと「哲学は諸学問の基礎付けの意味を持つ」ということ。
これは逆にいうと「諸学問はそれぞれの専門を通してその哲学的基盤にまで至らなければならない」ということでもある。
それは「認識の目」あるいは少なくとも「理性」を媒介とするものでなければならない。
では「 . . . 本文を読む
「教育の方法には、無味乾燥な詰め込み式の方法と哲学的な方法がある」と、
ウィリアム・ジェームスが「一般教育論」に述べている。
前者の方法にしたがう学生は「特定の仕事をなしとげる道具として一級品になるかもしれないが、「一般教養」という言葉から連想するような優雅な心をすっかり失い、いつまでも野卑なままであろう。
つまり、狭い専門分野に知識の視界をかぎった、融通のきかない、体験の枠を超えてものご . . . 本文を読む
現代は「教育」そのものが大きく変化しているように見える。
文科系科目を廃止して歴史の変わりに、理科系、数学などの科目を増やすというような、まったく「教育」に無知な文部科学省の提案も見られた。
いかに教育者に「哲学」がないかを露呈したものと言えるだろう。
「子供の教育」は時代、文明、国家によって、その要請から様々に迷走してきたのが実情だろう。
軍事国家での子供の教育、特定のイデオロギー国 . . . 本文を読む
火、木、土曜日は自宅「城山如水しの笛指南所」にて個人お稽古。
仕事の都合で日曜日しか来られないかたもいるので、最近は演奏の用事のない日曜日にも自宅お稽古をしている。
昨日の日曜日も自宅お稽古。
「風の音(城山如水作曲)」で基本練習のあと。
「音の葉~海風(城山如水作曲)」
季節の抒情歌は「北原白秋~雨」「てるてる坊主」を。
「忘れな草をあなたに」も美しい。
蛍の季節なので
「音 . . . 本文を読む