このブログは「中年おじさんの散策」3の継続版です
この企画は 私が引率します sosamu@ya2.so-net.ne.jp
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岡本太郎記念館
〈1-1〉 極東の日本から世界の芸術の中心に
1929年、岡本太郎は18歳でパリに渡った。日本から遊学する画家達が日本人だけで固まり、帰国後の凱旋展を夢見てお定まりの風景画を描いている姿に失望した太郎は、フランス社会で自立したいと考え、私学の寄宿生となってフランス語を磨き、西洋の教養を身につけていく。やがてモンパルナスにアトリエを構え、1940年にパリを離れるまで10年以上にわたって1930年代のパリで唯一無二の経験を重ねた。
〈1-2〉 純粋抽象からシュールレアリスムへ
1933年、「アプストラクシオン・クレアシオン協会」に最年少メンバーとして参加。「空間」「コントルポアン」などの連作を発表。1937年、サロン・デ・シュールアンデパンダンに「傷ましき腕」を出品。純粋抽象と決別し、同協会を脱退する。一方、同作をアンドレ・ブルトンが高く評価、翌年の第一回国際シュールレアリスト・パリ展に招待する。エルンスト、ジャコメッティ、マン・レイ、タンギーらシュールレアリストとの親交が深まる。岡本太郎は二つの前衛芸術運動の最先端をともにリアルタイムで体験した希有な芸術家なのである。
〈1-3〉 ミュゼ・ド・ロムでマルセル・モースに学ぶ
1938年、パリ大学で哲学を学んでいた太郎はミュゼ・ド・ロムを見て衝撃を受け、民族学科に移籍。レヴィ=ストロース、ミシェル・レリスらとともにマルセル・モースに学び、一時は筆を折って研究に没頭する。このときの体験が「芸術は商品ではない」「芸術は無償、無条件であるべきもの」「芸術とは全人間的に生きること」という太郎の芸術観を醸成した。1975年、太郎はジャン・ルーシュのドキュメンタリー作品「マルセル・モースの肖像」に出演。
〈1-4〉 バタイユとの邂逅
一方、エルンストに誘われた政治集会「コントルアタック」でジョルジュ・バタイユと出会い、その演説に深く共感。以後、親交が深まり、「社会学研究会」に参加。ついには秘密結社「アセファル」に加わる。戦後の作品「夜」「電撃」はこのときのサンジェルマンの森での秘儀体験がモチーフといわれる。レリス、ロジェ・カイヨワ、ピエール・クロソウスキー、パトリック・ヴァルドベルグら、世界的な知性と親密な交友を結ぶ。
〈1-5〉 ただひとりの日本人
抽象からシュールレアリスムへ。芸術から哲学へ。抽象論理の世界から人間学のフィールドへ。さらには呪術的な秘密結社へ。岡本太郎は、20世紀芸術の新たな潮流の胎動に生々しく立ち合い、同時に30年代パリが生んだ知の最前線を全身で浴びた、たったひとりの日本人である。それどころか、こんな人物は世界を見渡してもおそらく例がないだろう。岡本芸術に通底する美意識は「自由」「誇り」「尊厳」だ。太郎の肉体にそれを刻んだのは30年代のパリだった。
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