娘の散歩道

東京町田市より、普段の出来事や散歩に行った時に感じた事を
記録しています。

母の闘病生活2

2009年11月26日 09時05分13秒 | 

主治医は一人暮らしが無理であることを理由に、兄か私に同居を提案してきましたが、
そのことを母に伝えると自分で出来る内は一人暮らしで頑張ると言っていました。

その間、週に2~3回様子を見に行き、一人暮らしが無理なら私のところで
同居するつもりでした。
前もって妻には了解を得ていました。

そして今年の5月下旬から通院が始まりました。
週に2回ですが、転倒などの心配から私の妻が付き添いをすることになりました。
町田から電車に乗って1時間半、週に2回ですので妻もかなり疲れたと思います。

そして私も週に2回ほど会社帰りに母の所に寄り、数日分の食事を作り冷蔵庫に
入れるなどし、その夜は泊まって会社には実家から出社という生活が始まりました。

その間でも徐々に食欲が無くなってきたのを覚えています。
でも、体の痛みはあるものの軽度であり、寝たきりということはなく身の回りの
片付けなどは普通にしていました。

そして週2回の通院日、8月の初旬、この日は妻の変わりに私が付き添いで
行くことになっていました。

当日、朝実家に着いて母の様子を見ると別人の様になっていました。
布団から全く起きあがれず、意識は朦朧として話している内容がさっぱり解りません。

数日前は大丈夫だったので、いったい何が起きたか理解できませんでした。

よく考えてみると、モルヒネであるピーガードという痛み止めが
原因ではないかと思いました。

食欲が無い上に、毎日就寝時に1錠飲んでいました。
主治医の指示だったので仕方がありませんが。

さて、その様な母をどのように病院まで連れて行くかが問題となりました。
車で連れて行くつもりで私の乗用車で来ていましたが、部屋は4階、しかも全く
起きあがれない母をどの様に車に乗せるか悩みました。

30分ほど様子を見ていましたが一向に良くなる気配はありません。
少しでも立ち上がれるのなら、私の背に負ぶって下まで行くことも出来るのですが
全く起きあがれない母です。

結局、迷った揚げ句救急車を呼ぶことになりました。
救急車が来て、母を乗せ病院に着いてから主治医の先生が診察してくれました。
先生もビックリです。“どうしちゃったの??”と私に聞いてきます。

朝来たらこのようになっていた事、数日前の様子などを説明し、とりあえず
緊急入院となりました。

この時の入院は5日間ほどでしたが、検査の結果、骨髄腫自体は
悪化することもなく小康状態を保っていました。

また、悪化していないのでベルケイドの投与はしばらく見送るとの説明も受けました。

この時の入院は、主に体調を整える事が目的であり、骨髄腫の治療は特に
行いませんでした。

着実に体調が回復し、退院となりましたがそれには条件があり、兄または私と
同居し薬の管理を本人以外の者が行うことでした。

早速、兄と相談しましたがその結果、私の家で同居ということで退院当日、
母の家に寄り必要な身の回りの日用品を車に積みそのまま私の家に向かいました。

続く。



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