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多発性骨髄腫、そう診断されたのは昨年の5月でした。
その時は、腰や背中の痛みを訴え母自ら病院に行き検査入院をしました。
入院してまもなく母から電話があり、入院したことを伝えられました。
5月のゴールデンウィーク前の事です。
きっと心配させまいと私たち息子には黙っていたに違いありません。
その後、検査結果が出る頃になると、病院側から身内の者を呼ぶようにとの
指示で私と兄で主治医の先生と話をしました。
その時既に母は、自分の病名を知っていました。
“多発性骨髄腫、血液の癌”。
兄と私も母抜きで主治医の先生から説明を聞きましたが、最初はピントこなくて
不治の病であることは解りませんでした。
説明が進むにつれて、この病気の恐ろしさや不治の病であること、今後現れる
症状を聞くと、ただごとではないぞという思いでした。
早速インターネットで調べると、発症してから平均2~3年で亡くなるという
病気で目の前真っ暗でした。
それでも、中には10年以上小康状態を保って生活している人も少なくなく、
内心“母は大丈夫”と勝手に決めつけていました。
多発性骨髄腫のステージと言われる病期は3つあり、その時の母は
ステージ1であり、特に治療を必要とせず、様子見の時期だったのです。
2週間ほどの入院生活を終え、同時に癌専門の病院にかかりつけを変えました。
退院後は、感染症予防の薬などは処方されましたが、腰や背中の痛みはかなり
軽減され、日常生活も特に不自由なく一人で暮らしていました。
ただし、入院前まで働いていた会社は辞めるよう指示があり、これに従い
隠居生活が始まりました。
私が小さい時から働き通しだった母、小学校から帰っても家には誰もおらず、
毎日夕方から夜にかけて帰宅することが多く、私は鍵っ子として育ちました。
皮肉にも、初めての隠居生活が多発性骨髄腫の発症によるものでした。
その隠居生活でも特に症状の悪化は無く、月に数度の検査も順調でしたが
今年の5月頃から症状が悪化してきました。
ステージ2~3へ進行していました。
この進行に伴い、MP療法という投薬を使う方法が選ばれました。
他の治療方法もありましたが年齢的、体力的にはMP療法しかなく、
ベルケイドとデカドロンの組み合わせによる治療が始まりました。
ベルケイドの投与は初期段階では、入院によりその効果を観察しながら
行うもので、3週間ほどの入院が必要となりました。
3週間の入院では比較的良好な結果となったので、退院後も引き続き通院による
投与が決まりました。
でも、感染予防の薬や腸の粘膜保護、痛み止め、下痢止めなど8種類ほどの薬を
毎日、4回飲まなくてはなりません。
その量もかなりあり、とても一人暮らしの母が管理できる量ではありません。
続く。
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