架空の世界において最も重要なもの。現実の読者を繋ぎ止めるために何よりも大切なこと、それは『常識』です。
ここで言う常識とは、「魔法なんてあるわけがない」「ドラゴンなんていない」「時間旅行なんて実現不可能だ」といった類の常識ではありません。
一つは、「傷つけば痛い」「人を殺してはいけない」「1人の力で生きていくのは大変なことだ」といった、人間の心理・感情・倫理・価値観としての常識。
そしてもう一つは、「時間を移動すれば空間座標にもズレが生じるはずだ」「不老不死となったならば、その人間は生きる気力を失うだろう」といった、空想の実現を前提とした予測的常識。
空想と常識を融合することで、架空の世界に現実の読者が降り立つ『足場』が生まれます。
例を挙げます。
以前、『善と悪が逆転した世界』を舞台としたテレビゲームがありました。
キリスト教における七つの大罪、「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」が美徳とされ、「平等」「自由」「正義」「友情」「弱者」「人権」「愛」が大罪とされた世界。
「黒い蝙蝠の羽の天使」が「白い鳥の羽の悪魔」を奴隷として使役する世界。
その世界で『主人公が悪に立ち向かい、正義を貫く物語』を書いたならば、果たして現実世界に住むプレイヤーを楽しませることはできるでしょうか。
答えはゲームをプレイしていただければおわかりになると思いますが、実際に制作側が選んだ物語は、『7つの大罪を犯した死刑囚たちが牢獄を脱走し、あくまで正義を全うしようとする人々に対して殺戮の限りを尽くし、やがて世界を滅ぼす物語』でした。
現実に生きる読者にとって異常な世界を書くならば、読者の視点となる主人公もまた、世界を異常なものと認識するものでなくてはなりません。
同様に、その世界においてどんなに凄いことでも、現実の読者にとって凄いことでなければ意味がない。
その世界においてどんなに困難なことでも、現実の読者にとって容易いことであっては意味がないのです。
次回に続きます。
「小説を書くということ」を読ませていただいてそーだよなあとうなづいております。
わたしも勢いで書いた作品が評価で酷評されて落ち込んでいましたが、今思うと長編を書いたあとに楽に書いてしまった作品だったと気付きました。
書いている時はとても楽しくてあっという間に書き上げていい気分だったのですが。思い返せば、推敲も何もしてなかった。
自分が書いた、自分のためだけの小説だったと反省してます。
書いた物がすぐ、人目に出せる利点と引き換えにされる自分の作品に対する責任の欠如が問題です。
大いに勉強になりました。また、お邪魔いたします。