森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

番外編① メール

2008年03月23日 | 小説を書く、ということ

 今回は、先日友人に送ったメールの一部を編集し、固有名詞を伏せ、本人の許可を得て転載します。
 要点を抜き出して『小説を書く、ということ』の本記事にすることも考えたのですが、誰かに向けたメッセージとしての形を残した方が、より読者の心に届きやすいかもしれないと考えてのことです。

─────────────────────────────

 こんにちは、**さん。
 お返事が遅くなってしまってごめんなさい。

 私も素人ですから、**さんの文章センスの有無についてはわかりません。
 それに、目指すところは人それぞれ違うと思います。
 例えば私なら、目標とする文章は久美沙織です。私が小説を書き始めたきっかけだからでもありますが、私の中では彼女が至上。彼女以外には考えられません。
 **さんも、まずはこれと決めた方の文章を追っていけばよいかと思います。勿論、最終的には自分だけの文章を構築する領域に到達しなければなりませんけれどね。

 修業してきた人とそうでない人の違いなどというものは然程大きくはありません。
 文法の誤りや意味の取り違えは論外としても、基本、作者が伝えたいことを読者に伝えることができればそれで十分です。
 だからと言って、プロへのハードルが低い業界だとは思いません。私の価値観におけるプロ作家とは執筆一本で生計が立てられる専業の職業作家のことですので、2~3本発表して消えていく方々は含まれていませんから、そこに認識の違いはあるでしょうけれど。
 書き始めて間もなく小説大賞を受賞なさっている方々に関する私の見解は、ブログの『ビギナーズ・ラック』に書かれている通りです。

 **さんの仰る通り、五年・十年書き続けることで上達するのは技術的な部分だけです。肝心要の『何を書くか』という点に関しては、如何に眼を、耳を研ぎ澄まし、社会を鋭く切り取ることができるかにかかっています。
 作者が書きたいもの。
 作者に書けるもの。
 そして、読者(社会)が読みたいもの。
 このすべてが一致したとき、多少の技術不足は問題になりません。ほとんど素人の文章でも出版されることは珍しくない。ただし、その後何年書き続けても『書きたいもの』と『書けるもの』が変わらなければ、『読みたいもの』の変遷についていけずに消えていくことになります。
 人を、社会を把握する眼と耳を持ち、書きたい、書こうと自らのモチベーションをコントロールする高度な意志制御能力を身につけ、現実に形にする執筆技術を有する人間。それが私の考えるプロです。

 6年前、私の眼は曇り、耳は閉ざされていました。
 そして、そのことにまるで気づいてはいませんでした。
 師の導きで己の狭小さに気づきはしたものの、そうそう簡単に世界が拡がるはずもない。当たり前の社会人として、当たり前の親としての眼と耳を得るためには、己の『書きたいもの』と『書けるもの』にこだわっているわけにはいきませんでした。
 **さんは当時の私などより遥かに長い年月を生き、多くの経験を積み、社会を見つめ続けてきたはずです。貴方の眼も耳も、それらから得た情報量も、当時の私とは比較にならないでしょう。
 あとはとにかく書き続け、技術を手に入れること。モチベーションをコントロールする術を身につけること。後者は家族の理解と協力も不可欠です。子育てに追われながらでは厳しい面もあるでしょうが、その点に関しては私も同じ。愚痴聞き役くらいにはなれるはずです。息子が頑固なところも同じですしね。

 現状、**さんの置かれている状況は決して悪くないはずです。
 目に見える反響があり、応援してくれる方々がいる。それらを心の支えにして、精一杯楽しんで書いていって下さい。及ばずながら、私もお手伝いができればと思います。


最新の画像もっと見る