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身近な人との「触れ合い」からはじまる「ケアの倫理学」-ネル・ノディングズ『ケアリング』を読む

2010年02月13日 | 生命・環境倫理
伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』で、従来の義務論や帰結主義などの「固い」倫理学ではなく、感情や性格などを重視した「柔らかい」倫理学の流れのひとつとして、ノディングズらの「ケアの倫理」が紹介されていた。

そこでどんなものだろうと思って試しに、

ネル・ノディングズ『ケアリング 倫理と道徳の教育ー女性の観点から』(原著1984年)

を読んでみると、たしかにこの本ではノディングズは身近な人や動物たちとの間で生まれる「自然なケアリングの関係」から道徳や倫理を考えようとしているらしいことがわかる。ケアでは「情感」が大切にされる。この本は功利主義でも義務論でもないし、「権利」の話もあまり出てこない。


「ケアの倫理」は、簡単に「普遍化」することはできない。


文章はそれほどわかりやすいものではない。

論旨が取りにくかったのだが、ケアされる人、ケアされるものの「応答」の重要性、について繰り返し語られていることは注目される。

例えば、「その人の行為」が倫理的に正しいかどうかなんて、簡単に判定できない。相手があってケアがある。その「ケアリングの関係」を引っこ抜いて、別の場所に持っていくことはできない。だから「ケアの倫理」は、簡単には「普遍化」することができない。ノディングズが言いたいのはそういうことだろうか。

マルチン・ブーバーの言葉がよく引用される。

>マルチン・ブーバーの言葉を借りれば、出会いにあって、ケアされるひとは、「汝」、つまり、主体であって、「それ」、つまり、分析の対象ではない。1回きりの短期間の出会いであれ、繰り返される長期の出会いであれ、出会っている間は、ケアされるひとは、「汝であり、天空を満たしている」。(ノディングズ『ケアリング』272p)


ノディングズが考える動物や植物との関係


動物や植物との関係についても、シンガーなどとは違った観点を持っている。著者は「自然なケアリング」の感情、身近な感受性の問題から筆をすすめていく。

たとえば、飼っている猫は、ニャーニャーと鳴いて私の「ケア」に応答する。
猫とのケアリングの関係は、自然な情感に基づいている。
しかし、例えばネズミなどは、彼らに不必要な苦痛を与えてはならないとは思うが、いざとなったら駆除の対象にしてしまってもよいと思う。そもそもネズミには自然なケアリングの感情は抱けない。
植物の世話をするときに話しかけたりする人がいる。「ケア」の領域と関係するのかもしれない。
しかし植物の世話と人間の子どもの世話とは、やはり根本的に違う。
未来との関係の仕方が異なるからだ。

おそらくそのようなことが書かれていたと私は思うのだが、そもそもノディングズの文章はわかりにくいのでかなり誤読しているかもしれない。


倫理は、感受性であり、身近な出会いから自然と生じる責務だから、いきなり「遠方への責任」とか「将来世代への責任」などと言われましても、私にはちょっと無理。・・・という感覚から始まっている。


第7章の「動物、植物、事物、観念に対するケアリング」から文章を一部引用しておく。
対比するのによいと考えて、ノディングズがピーター・シンガーの考え方について論じている箇所を引用する。
ノディングズは契約とか相互利害の考え方へ違和感を表明している。

>ケアする関係は、ケアするひとに対しては、専心没頭と、動機の移転とを要求し、ケアされるひとや、ケアされるものに対しては、応答や助け合いを要求する。再び強調しておくのが重要なのは、ここで言う助け合いは、契約上の関係ではないということ、換言すれば、それは、相互利害で特徴づけられはしないということである。(232p-233p)

>ピーター・シンガーも、倫理に実践的な視点から取り組んできたが、かれは、助け合いという考え方に基づいて樹立される倫理を拒絶すべきだ、と主張している。

>それに応えて言うと、まず、契約説の理論家たちが与える、助け合いの考え方は、あまりにも制限されすぎていると言ってよい。その場合の助け合いの考え方によれば、人間は、各人それぞれの安寧を助長する目的で、合理的な協定を結んで連帯しているような、まったく他から分かたれた存在とみなされる。

>けれども、ケアリングに関与する者として、その関係を維持しようと奮闘しているような、または、ケアリングに関与しない関係からケアリングに関与する関係に変容しようと奮闘しているような、関係しあう有機体が、本書で提示される関係の出発点である。(233p)


ノディングズが強調するのは、身近な「出会い」や「感受性」の必要性だ。
シンガーや他の倫理学者の言う、「遠方の貧困や将来世代への責任」は、従ってノディングズの考え方・感じ方だと、おのずと制約が出てくるが、それは仕方がないことだとされる。

そもそも「ケアしている」「ケアされている」という関係は、親子間や教師-生徒間で自然と生じるもので、そのような自然な情感に基づいた「ケアしている自分」を、改めてケアすることが、「倫理的であること」の基礎だとノディングズは考えているようだ。要は、身近な人へのケアを抜きにして、上から目線で「遠方の貧困や将来世代への責任」についてペラペラと語り出す「男性・哲学者」の倫理などは信用できない、というニュアンスがある。おそらく多くの人が共有できる感覚なのではないかと思う。


>シンガーの見解を踏まえれば、助け合いに基づくどのような倫理にも、重大な困難があり、その困難とは、そうした倫理が出会いという観念に必然的に訴えるという点である。シンガーの仮定しているように、その倫理が、わたしたちに、将来の世代や、遠方地域で起こっている貧困に対する責務を免れさせてしまうと考えられるとしたら、その倫理は、もってのほかである。

>ところが、わたしは、すでに、ひとの責務に、この種の制約があると承認したし、力説しさえした。そこで、前述した論拠を補強してみたい。シンガーは、将来の世代に対して倫理的な責務を担っていると示唆し、そのような責務にかかわる問題として、核廃棄物や、その堆積といった事例を取り上げている。本書でも、将来の世代を考察する方途を採りたいとは思うが、帰結主義者のように歩むことはできない。

>まず、わたしたちは、帰結に関して確信できない。だから、今日起こりそうな事態は、長年にわたって起こらないかもしれない。今日荒廃しているものは、明日には資源になるかもしれない。次に、わたしたちの注意は、一貫して、行為の持つ意識的な特質に向けられている。行為の可能な帰結は無視できないけれども、帰結が行為の倫理的なよさをまったく決定してしまっているわけではない。

>したがって、現在生きている有機体にとっての当面の差し迫った危険という根拠から、核廃棄物の堆積に反対した方がよい。そうは言っても、わたしたちが出会えない、あるいは、まだ出会ったことのない人びとに対して敏感になる方法はあるし、本書では、すでに、どのようにすれば敏感になれるかを記述するための概念装置を確立した。同心円的な関係や、連鎖的な関係について論議したときに、形式上の関係ー自分にケアする覚悟ができているような仕方で、他人と結びついている関係ーを確かめた。このような方式で、わたしたちは、将来の世代に関して顧慮すると思われるし、そのように顧慮する際には、無難に生きる覚悟ができている。

>しかし、このケアする覚悟によっては、まさになにをしたらよいのかを教えてくれるわけではないという認識は、重要である。ケアする覚悟は、遂行しなければならない個々の行為をあらかじめ指令できはしない。ひとは、感受性豊かに、しかも、理に適って生きているかもしれないが、責務は、出会いを基礎としてはじめて生じるのである。自然であれ、倫理的であれ、ケアリングは、他人の中で完結されなければならない。(ノディングズ『ケアリング』235p-236p)

関連記事:ジャーナリズムにも「ケアの倫理」を、なんて言われてビックリー『現代用語の基礎知識 2010』より 2010年02月19日
(→「報道」の分野においても「ケアの倫理」が応用できるのではないか、という議論があるらしい。)

『三つのエコロジー』→「自然環境」と「社会環境」と「精神環境」

2010年02月13日 | ブログの内容説明
拙ブログでは、〈労働・福祉〉カテゴリー、〈宗教・スピリチュアル〉カテゴリー、〈生命・環境倫理〉カテゴリーという、自分でも相互にあまり関係がなさそうな三つのカテゴリーの記事が増えつつあるのだが、最近ふと思ったのは、もしかするとフェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』 (平凡社ライブラリー)が言う、「自然環境」のエコロジー、「社会環境」のエコロジー、「精神環境」のエコロジーという「三つのエコロジー」にこれらを何となく対応させることができるかもしれない。

「自然環境」・・・〈生命・環境倫理〉カテゴリー
「社会環境」・・・〈労働・福祉〉カテゴリー
「精神環境」・・・〈宗教・スピリチュアル〉カテゴリー

どの環境も大事。ひとつだけのことを考えていると、どこか片手落ちになってしまう気がする。

また『三つのエコロジー』の「訳者あとがき」には、三つの環境以外に「情報環境」の話、またそれらをつなぐ「主観性」の生産の話があって、ブログ・ツイッターを含んだ現代ののネット環境とも無関係な話ではないような気がするし。