ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

「画一化」と「ライフスタイル」の葛藤-山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』を読む

2010年02月05日 | 日記
熟成されたワインのような随筆? …思ってたよりトンがってる!

山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』(2009年)は、最初わたしが想像していたのは、ワイン好きの熟年男性が描いた、やや退屈な歴史エッセイみたいなもので、ひまつぶしにいいと思って図書館から借りて読み始めたら、全然イメージとちがっていたので驚いた。

ワインと言われてもわたしには石田純一の顔が思い浮かぶくらい
で、それほど関心はなかったのだが、この本はワインの話にとどまらず、かなりとんがってて、十分楽しめた。

最初は、穏やかな調子で、ワインを巡るヨーロッパの歴史が淡々と語られていくようにも見えた。しかし、途中でギデンズの近代の「再帰性」という概念が出てきて「アレ?」と思っていると、またたくまに抽象度がアップし、ポスト・フォーディズムや構築主義といった社会科学的な概念がポンポンと飛び出してきて、頭がクラクラとした。ジョージ・リッツァ『マクドナルド化する社会』などの概念も援用されて、話は佳境に入っていく。

著者は1971年生まれ。38歳くらいだろう。
最初のイメージでは、かなり年配の、経済誌などにエッセイを書いている、引退間近の熟練エコノミストの本かと思ってた。
愛読書は司馬遼太郎と塩野七生、みたいな。
さにあらず、書いたのは新進気鋭と言ってもよい、若い学者だった。
専門は歴史社会学、世界システム論。

あくまでも、ワインというモノに即した本なのだが、社会科学的に、抽象度の高い議論も含んでいる。
それもかなり複雑。アタマが痛い。
議論が輻輳していって、正直、私にはついていけない所も多かった。
しかしその抽象度の高さは、この本の利点にもなっている。
グローバリゼーションに関わる問題なら、この本の議論は、おそらくワイン以外の問題にもあてはまるだろうからだ。

いつもながら、わたしのアタマは「本の内容を要約する力」が弱く、ここでもこの本からの断片的な引用でごまかしておくことにしよう。


グローバリゼーション vs 「テロワール主義」


現代では、経済の圧倒的なグローバリゼーションの力の前で、わたしたちはどういうライフスタイルを選べばよいのか、という悩みを抱えている人が多い。あらゆるところで。たとえば地域主義を持ち出して、地産地消のライフスタイルを目指せばいいのか。ほかにもファスト風土。マクドナルド化した社会。こういった言葉で名指される事態は、どれくらい許容できるのか。こういうことに少しでも関心のある人なら、この本は楽しめるだろう。

著者は序文で、「ワインは、グローバリゼーションという圧倒的な流動化の趨勢のなかで、一定の共同性に根ざした生を創り出す仕掛けの一つのモデルとしておおきなポテンシャルをもっているのではないか」「ワインというモノから、グローバリゼーションを前提として構築されるべきライフスタイルについても考えてみたい」とこの本の抱負を述べている。

>ワインは一方でグローバル商品として広い市場を流通する普遍性をもったモノでありながら、他方で、高級品になればなるほど熟練労働に依存する性質があり、また土地の個性がモノ自体の質に反映されていることを付加価値として直接に評価する文化的枠組みを有しています。またワイナリーは、単にそこからワインが出荷される場ではなく、むしろそのワインに愛着をもつ消費者が訪れる場でもあり、単なる観光資源として以上の潜在的な価値を有しています。こういったことから、ワインは、グローバリゼーションという圧倒的な流動化の趨勢のなかで、一定の共同性に根ざした生を創り出す仕掛けの一つのモデルとしておおきなポテンシャルをもっているのではないか、という実践的な作業仮説も導かれます。ワインというモノから、グローバリゼーションを前提として構築されるべきライフスタイルについても考えてみたいと思っています。(山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』序文より)

この本のワインを巡る全13講のうち、第9講の“「テロワール」をひらく”からも引用しておこう。

「テロワール」というのは、ワイン業界で「グローバリゼーション」「画一化」の風潮に対抗して作り出された概念で、地域性、その土地の味わい、というくらいの意味だ。

わたしがこの「テロワール」という言葉をはじめて知ったのは、「ミシュラン東京版」を批判している、ネット上の江弘毅氏の文章でだった。江弘毅氏は、『「街的」ということーお好み焼き屋は街の学校だ』 (講談社現代新書)という本を書いている人である。

浅草・岸和田往復書簡 江弘毅氏「みんな、ミシュランとマクドナルドかいな―食べるもんぐらい、好きにさしたってくれや。」

先にその江弘毅氏の文章を引用しておくが、そこではアラン・デュカス氏の言葉が引用され、「ミシュラン」ガイドのようなものは、「テロワール」「土地に対しての敬意」という考え方にそぐわない、という見方が紹介されている。

>先日たまたま、アラン・デュカスと東京で会っていて、その「ミシュラン東京版」の話になったんだけど、世界で一番星を沢山持っているデュカス御大は「あんまり、関係ないね」って笑ってました。
>「テロワールそのものの京都や大阪なら、どうなるか」なんてデュカス氏は訊いてましたが「ちゃんとしたガイド本としては、難しいでしょ」と答えときました。
>ぼくは去年の秋にデュカス氏を大阪を案内し、それをグルメ雑誌の8ページの記事にしましたが、彼はすごい日本通です。
>世界中にいろんなレストランとかオーベルジュを持ってる彼は、京都や大阪はどういうとこで、「われわれ」が「何をおいしがっているか」を知っている。
>彼は「土地に対しての敬意」なんて言い方をよくしていますよね。
>ここに、ミシュラン的な「システムとしての消費社会」においての「みんな」というものを想定した「客観的な星付け」と、たとえば大阪ミナミなら大阪ミナミなりの、街を微分して浮かび上がるところの「いい店」といった「世界のありよう」においての「われわれ」の違いがある。(江弘毅氏『浅草・岸和田往復書簡』より)

これに対し、山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』は、このようなグローバリゼーションとテロワール主義、自然と文化、記号消費と物質の多様性、といった二項対立が単純なイデオロギーを生んでしまう危険性に自覚的であるべき、と説く。「テロワール」を巡る、抽象度の高い議論がなされているところを以下に引用する。大体の雰囲気はわかってもらえると思う。とてもややこしい議論だけど、現実的で妥当な考え方をしようと思ったら、思わずこんなふうにややこしくなってしまうものなのだろう。

>ただ、このテロワールの危機/創造にあたって、本当に「主体」的なのはいったい誰なのでしょうか。

>直接的にはブドウを植え換える人間だということになるのかもしれません。しかしそこで畑から引っこ抜かれているブドウは、単なる客体としてのブドウではなく、長い間の人間と畑との相互作用のなかで、その土地に最もよくあう品種として定着した、すなわち「テロワール」の一部となったブドウだったはずです。そうであるならば、そのブドウはすでに自然的要素(モノの側面)と文化的要素(人間の側面)の両方が宿っていることになるでしょう。つまり品種の転換は、単に人間がブドウというモノを植え換えるという話ではなく、人間がブドウに宿る人間の側面ーそのブドウがその地の「テロワール」の一部となるまでに積み重ねられてきたコミュニケーションの蓄積ーと対峙する文化的過程でもあるわけです。そこには、ブドウを通した異なる世代の人間のあいだの対話が含まれるだけではなく、さらにその異なる世代の人間がそれぞれに畑と交わした対話の蓄積が織り込まれています。その意味では、単にブドウにモノの側面と人間の側面があるだけではなく、人間の側にも、ブドウや畑によって促された営みが刻印されており、それが入れ子的にフィードバックされて「テロワール」の構築に参加しているのです。

>このように「主体」は、多元的な関係の網に編み込まれ、埋め込まれています。しかもその網の結び目を占めるのは、純然たる人間、純然たる自然物ではなく、むしろいわば人間とモノとが互いに浸潤し合ったハイブリッドです。テロワールは、このような人間とモノのさまざまなハイブリッドが織り成す関係のネットワークのなかで、常につくりなおされ、つくり出される過程にあるのです。テロワールが自然に属するのか人間に属するのかといった問いは、このリアリティを無視した近代のイデオロギーのなかでしか意味をもちません。その意味で、つくられた記号的付加価値に還元されるようなワイン、むき出しの物理的多様性に還元されるようなワインは、そういったものがもし存在すれば、いずれもきわめて近代的なワインだとはいえましょう。しかし、実際には純粋にそんなワインは存在しませんし、限りなく近いものが仮にあったとしても、ほとんどワインの名にも値しないほど無価値なものです。

>そしてこのことが、前回に論じたテロワールの構築主義の意味です。少なくともここでの構築主義は、単にテロワールが歴史的に構築されたものだということをーしたがっていくらでも好きにつくりかえられるとか、どのテロワールの価値も相対的だとかいったことをー指す考え方ではありません。それは、テロワールが、いわば自然のシステムと文化のシステムが接する場において、二つのシステムの揺らぎやフィードバックの相互作用・相互影響のなかで、たえずつくりなおされ、つくり出される、その意味での進化のプロセスだということを意味するものなのです。
(以上、山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』177p-179p)

じゃあ、どうすればいいのだ、と言いたくなってくる。

しかし、グローバリズムかテロワール主義か、自然か文化か、マクドナルドか岸和田・浅草かーこれらの二項対立を超えるために、著者がこの本の最後のほうで提出しているのは、むしろおおぎょうなものではなく、「価値の共有の厚み」という、つつましい概念だった。

この「価値の共有の厚み」を作り出すためのささやかな想像力を生み出すきっかけとして、この本は書かれたのだった。