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ヨブの「呻き」と「確率の手触り」,「雑音」混じりの生命論ー加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』を読む

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
生命倫理学も「生権力」に転化する・・・加藤秀一氏の<個>の「うめき」から始まる生命論。


以前、拙ブログで福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』「阿久根市長発言と生権力」という文章を少し引用したことがある。

>(福嶋亮大氏)フーコーは、およそ二つのタイプの権力を分けています。一つは生殺与奪の権限を握った古典的な権力、つまり「死なせる権力」です。もう一つは、この世界に出生した生命を最大化する権力、つまり「生きさせる権力=生権力」です。高度医療にせよ、社会福祉にせよ、近代の制度的デザインというのは前者から後者への移行として捉えられる。要するに、人間の生にダメージが加えられたときにそれを修復するとか、予測不可能なアクシデントが発生したときにそれをカバーする保障制度をつくるとか、そういうメカニズムが非常に発達する、それが生権力の時代です。

>その点では、阿久根市長が「権力者だ」と言われるのは、二つの権力を混同しているところに由来する。一方から見れば、阿久根市長は、血も涙もない古典的権力者に見える。しかし、他方から見れば、彼はむしろ高度医療そのものが生権力の源泉になっており、「生命を最大化する」ことのもたらす弊害が無視できなくなっていることに着眼している。このズレは深刻です。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』は、人の生と死の線引き問題を扱っている「生命倫理学」自体が、フーコーの言う「生権力」になる可能性を危惧している。

したがって、この本は「生命倫理学」全般への厳しい批判とも読める。
人の生と死に関しては、生命倫理学さえ言葉を失うような実存的側面があり、加藤秀一氏はそのような生ある者たちの「呻き」のようなものに焦点を合わせる。


「ロングフル・ライフ訴訟」ー「生まれてこないほうがよかった」


私がこの本を知ったのは、「環境倫理談話会」という、環境倫理を勉強する会で知り合った方のブログを読んでいるときである。

なんと言っても、この本では「ロングフル・ライフ訴訟」というものの存在を知ったことが一番衝撃的である。

「ロングフル・ライフ」というのは「間違った・生」ということで、ロングフル・ライフ訴訟というのは、典型的には、重度の障害を背負って生まれた人間が、「私は生まれてこないほうがよかった」と、親や医者に損害賠償を請求する訴訟のことをいう。

>ロングフル・ライフ(wrongful life)という不穏な言葉がはじめて公の場に登場したのは、1963年のゼペダ対ゼペダ訴訟においてであった。ただしこの訴訟は先天的な疾病・障害を問題にしたものではなく、非嫡出子がその地位を不服であるとして自分の父親を訴えた裁判だったから、すぐ後で見ていくような典型的なロングフル・ライフ訴訟とは性格が異なる。

>けれども、それだけにこれはむしろ本書の視点にとってはきわめて興味深いケースだともいえる。もしも人が、自分が生まれたこと自体を損害として誰かを訴えることができるのだとしたら、その条件は何なのか。人はいかなる条件を負って生まれたら、自分の出生および存在が「不当」であるということができるのか。誰かが重篤な障害や疾病をもって生まれたことに同情し、生まれない方がよかったという訴えを認めたくなってしまう人も、非嫡出子ーここではあえて差別的なニュアンスを含む言葉を使っておくーであることを理由とする訴えは行き過ぎだと感じるかもしれない。だがそれはなぜか。

>さらに、客観的にはあらゆる点で恵まれているにもかかわらず、なぜか深い厭世観にとらわれている人が、自分を生んだ親や医師を訴えたとしたらどうか。そのような場合に損害賠償請求を認めず、障害者の場合に認めるとすれば、両者を隔てる基準は何か。障害のある生だけを損害として認めるということは、結局、障害者という存在の価値を低くみることではないのかーロングフルライフ訴訟の可能性を先天的障害のあるケースだけに限定せず、こうした難問から目をそらさないことは重要である。

>ともあれ、当初はロングフル・ライフの訴えは棄却され続けた。その主な理由について、最初期の代表的なロングフル・ライフ訴訟である1967年のグライトマン対コスグローヴ訴訟の判決文は次のように述べている。

>>究極的に、この子どもの不満とは、彼が生まれなかった方がより良かっただろう(he would be better off)ということである。[しかしながら]人は死について、あるいは無であることについて何も知らないのだから、そうであるかどうかを知ることは不可能である。私たちが思い起こさねばならないのは、健康に生まれるか否かが選択肢なのではないということである。(…)そうではなく、選択は、世界のなかに実存することと、まったく実存しないこととの間にある。(…)生まれない権利(right not to be born)を認めることは、誰も自分の途を見いだせない(no one can find his way)領域に踏み込むことなのである。(加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』88p-90p)

著者は、「生まれてこないほうがよかった」という思想の伝統として、旧約聖書の『コヘレトの言葉』にも言及しているが、私も旧約聖書の『ヨブ記』を少し思い出してしまった。(→関連記事:落ち込んだときは『ヨブ記』を読んで元気を出そう!2010年01月09日


「生」と「死」と「確率」の手触りー東浩紀


また、この本の「仮想問答」の相手となっているのは、井上達夫、大庭健、宮崎哲弥、東浩紀、土井健司などであり、その人選も私の関心範囲と多少重なるところがあったので、読むとき集中力を持続させやすかった。

たとえば土井健司氏は、拙ブログでも何度かその文章を取り上げたことのある、キリスト教学者だ。(→関連記事:ドストエフスキーと「因果関係の空しさ」-土井健司『キリスト教を問いなおす』より 2010年01月28日など)

東浩紀氏については、この本では東氏の初期の論文「ソルジェニーツィン試論ー確率の手触り」から引用されている。「生と死」、あるいは自分や他人の「人生」のことを考えるとき、こうした「確率の手触り」は考慮に入れざるをえない。

『〈個〉からはじめる生命論』147p-148pから孫引きする。

>(東浩紀氏)『収容所群島』を読めば分かるように、ソルジェニーツィンの、そして当時生きていた人々の経験は、いわば「解消不能」なものである。逮捕されるかされないか、10年の刑か25年の刑かもしくは銃殺か、どこに何の罪でいつ送られるのか、すべてはほぼ確率的に決められる。(…)例えば、ナチスであれば、ガス室に送られるのはユダヤ人ということに決まっていたし、それがいかに支離滅裂なものであれ、少なくとも何らかの「理由」は存在した。つまり、そこでは、「なぜ私の父は殺されたのか」という問いが有効でありうる。(…)それに対して『収容所群島』の経験は、徹底的に、「解消不能」なものとしてある。そこでは、「なぜスターリン体制が生まれたか」という問いは、「なぜ私の父が殺されたのか」という問いと、実は一切関係がない。「私の父」は「スターリン体制」のなかにいたから、殺されたわけではない。それは確かに条件ではあるが、理由とは異なる。例えば私の父の隣人は父とたいして変わらない生活を送っていたにもかかわらず、別に逮捕されることもなく、いまに至っている。(…)私の父とその隣人との差異、片方が逮捕され、もう片方は何の問題もなく幸せに暮らしているという差異に、理由などありはしない。そこでは、「なぜ」という問いが禁止されてしまうのである。

「生命の尊厳」を大切にしましょう、などといった安易な生命尊重主義を注意深く避ける著者は、最終的にはアーレントの「多数性」と「活動」という概念を手がかりにし、大庭健を参照して「雑音源としての個人」という見方を提示する。

これでは、あまりにも「文学的」な感じがするが、少しくらい雑音があってもいいじゃないか、という懐の深さや、そうした人間や生命に対するつつましい態度こそが、論理的整合性を重んじる倫理学や、「人間改造主義的」「設計主義的」な生命操作技術へ向かう風潮などへの「対抗の倫理」になるのかもしれないな、と思った。


アーレントの人間の条件ー「多数性」と「活動」


>私たちが別の誰かから生まれたこと、別の誰かを生むということは、「生命」の平面で退屈に反復される「生殖=再生産」などではなく、まったく新しいことの始まりとしての「誕生」(birth)であるーこれこそが『人間の条件』の、最も素晴らしく、目の覚めるような数ページでいわれていることである。(213p)

>アーレントによれば、「活動」の人間的条件は「多数性」に、すなわち「地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実」に対応している。(213p)

>アーレントの言い方を引けば、私たちは「人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、けっして同一ではない」のである。そのような差異ある者同士のあいだで交わされる活動は、世界のなかに、それまでは予測されなかったような新しい契機ー「始まり」-をもちこむ。しかし、その新しさは、根源的には、「人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」ということに始原するのである。

>したがって、新しい人の「誕生」は、つねに奇跡という相を帯びる。(214p)


赤ん坊は雑音だ、「雑音源としての個人」という見方


>そうだとすれば、大庭の倫理学における「システムの雑音源としての個人」を、アーレントのいう「人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」という洞察に重ね合わせて理解することができるだろう。(218p)

>新しく誕生する者、すなわち赤ん坊とは社会におけるまさに真正の雑音源である。この「新しい人」が発する未曾有の雑音を除去してしまえば、新しい音楽が創造されることもないだろう。(加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』219p)