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未来のゴースト達のために

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雇用保険と生活保護のあいだにポッカリ開いた大きな穴-濱口桂一郎『労働法政策』を読む②

2010年01月26日 | 労働・福祉
労働法の歴史を描いた濱口桂一郎『労働法政策』(2004年)から、自分がいま興味を持てそうなところを、適当にピックアップしておく。

私が気になっているのは、たとえば「生活保護」と「雇用保険」のあいだにポッカリと開いた大きな穴、のことだ。
それと関係して、ハローワークと福祉事務所がもっとうまく連携できないかということ。

このことは濱口氏の『新しい労働社会』で、「雇用保険と生活保護の間の断層」(166p)ということばで表現されている。この問題にたいし『新しい労働社会』は「生活保護の部分的第二失業給付化」というアイディアを提案している。ここらへんの話に関係している。

>この断層を埋めるには、生活保護制度自体を抜本的に見直し、少なくとも就労可能者に対しては、補足性要件を緩和してある程度の資産を有したままでも受給を幅広く認める代わりに、失業給付と同様の求職活動を義務づけることが必要でしょう。いわば、生活保護の部分的第二失業給付化です。(『新しい労働社会』167p-168p)


「内部労働市場」重視か、「外部労働市場」重視か


「断層」を埋めていくことが必要だ。
なぜ必要なのか。
このことはたぶん、現在の日本の経済の変化とも関係している。
終身雇用が維持できなくなり、失業者がボロボロ出るような世の中になってきて、セーフティネットの張り替えの必要が出てきた。
したがって終身雇用の維持-「内部労働市場」に期待するのではなく、「外部」労働市場の整備が必要になってくる。
1990年代以降、労働法政策の分野でも、「内部労働市場」重視の政策から「外部労働市場」重視への、政策の転換の流れがあったらしい。

もっと長いタイムスパンで見ると、日本でも1973年のオイルショック以前と、オイルショック以後とで、労働法政策の考え方が変わっている。

おもしろいのは、1980年代になると日本は「内部労働市場」重視になったけど、1973年のオイルショック以前は、むしろ「外部労働市場」重視の考え方がけっこう強かったということだ。考え方はぐるぐると回っている。「外部労働市場」→「内部労働市場」→「外部労働市場」というふうに。

この本で、1967年3月に策定された「雇用対策基本計画」について述べている箇所があり、そこでまるで「現代」のような不安定雇用の問題につき、「外部労働市場」の観点から考えている部分があるらしい。そのあたりを著者は「当時の労働行政は70年代以後と違って雇用問題を内部労働市場から見るのではなく、もっぱら外部労働市場の観点から考えており…今日の問題意識からは逆に新鮮に見える面もある。」と述べている。

>なお、計画で1項目割いて臨時雇用、社外工、季節出稼ぎ労働者等の不安定雇用の改善に触れており、今後10年程度の政策目標として、不安定雇用がかなり減っていることとともに、常用雇用形態の労働者に比べて賃金等の処遇で差別がなく、その就職経路が正常化している状態の達成を目標としている。当時の労働行政は70年代以後と違って雇用問題を内部労働市場から見るのではなく、もっぱら外部労働市場の観点から考えており、それゆえにこういった政策スタンスが自然にとられたのであろう。このスタンスはその後、雇用政策が内部労働市場中心になっていくにつれて次第に薄れていくことになるが、今日の問題意識からは逆に新鮮に見える面もある。(『労働法政策』132p-133p)


ハローワークと福祉事務所の連携の可能性


2003年ごろの日本の話になって、「長期失業者への対応策と公的扶助との関係」(110p-113p)という節で、モラルハザードを防ぎつつ、どうやって失業者を助けつつ、「働くことが得になる社会」を作る制度設計をしていくか、またハローワークと福祉事務所がどうやって連携していくか、という話になっていく。「ウェルフェア・トゥ・ワーク」。「就労促進」を進めつつ、雇用保険を管轄するハローワークと生活保護を管轄する福祉事務所をどう一体化させていくか、というイメージ。

>近年の失業動向の特徴は単に失業率が高水準で推移しているだけでなく、失業期間1年以上の長期失業者が激増していることにある。2003年第4半期でみると、…

>長期失業者の増大という現象はヨーロッパ型労働市場に近づいてきたということもできるが、ヨーロッパ諸国では従来から失業保険の受給期間がかなり長く設定されていたことに加え、保険原理に基づく失業保険制度とは別に、国庫負担による補足的な失業扶助制度を有してきたため、日本のように3ヶ月-1年弱で失業給付が切れたら直ちに収入がなくなるということはあまりない。しかしながら、逆に雇用政策の観点からは、そのような過度に寛大な失業保険・失業扶助制度がかえって就労意欲を低め、給付に依存する形で人為的に長期失業者を増大させてきたのではないかとの批判が高まり、受給者の就労促進に向けた制度の見直しが進みつつある。

>さらに、先進国は労働法政策の外部にほぼ共通に公的扶助制度を有しているが、近年ヨーロッパ諸国では失業保険・失業扶助の受給者も公的扶助の受給者も、働けるのに働かないのであれば社会経済的に損失であるという考え方が有力となり、労働政策と福祉政策の枠を超えて、公的扶助受給者の就労促進が重要な政策課題として浮かび上がってきている。いわゆる「ウェルフェア・トゥ・ワーク」の政策である。そして、これら各種制度を就労促進の観点から再編成しようという動きも進んでいる。例えばドイツでは、公共職業安定所と福祉事務所を統合してジョブセンターを創設するとともに、失業扶助と公的扶助を整理統合し、これによって100万人に上る就労可能な公的扶助受給者を連邦雇用庁の所管に移すことが予定されている。

>こういった流れの中で見ると、日本の雇用保険制度は所定給付日数がかなり短く設定されているために、従来のヨーロッパのように制度的要因による長期失業者を生み出すという悪弊は免れていたが、逆に労働市場の状況が給付日数を超えた長期失業者を大量に生み出すようになっても、制度のセーフティネットが及ばないという事態を招いているといえる。しかしながら、ここで単純に従来のヨーロッパ諸国を見習って失業給付の所定給付日数を延長したり、あるいは国庫負担による失業扶助制度を導入するという政策対応をとるならば、ヨーロッパ諸国が脱却しようとしている長期失業の罠に陥ってしまうことになる。

>むしろ、近年のヨーロッパ諸国の動きの中で見習うべきは、労働法政策の外部にあった公的扶助制度についてもその受給者の就労促進を図ろうとする政策であろう。近年日本においても生活保護受給者は増加しているが、2002年度末に被保護者129万人、保護率も10パーミルに止まっており、多くの長期失業者が雇用保険制度と生活保護制度のはざまで無収入状態に陥っていることを考えると、生活保護制度についても労働法政策上に明確に位置づけ、失業給付受給終了後の失業者に対する所得保障として積極的に活用するとともに、従来からの生活保護受給者も含めて、その就労促進を制度の中核的要素として組み込んでいくことが考えられる。(『労働法政策』110p-111p)


そもそも「ハローワーク」って必要なの? 公務員の「IQ指数」ならぬ「愛嬌指数」の低さ? ー別に低くてもいいじゃん。


また、「公共職業安定機関の将来と課題」(95p-96p)という節でも、ハローワークと福祉行政との連携の可能性について以上のようなことと、似たようなことが書いてある。話は2003年の「総合規制改革会議」からはじまる。小泉首相の時代の「官から民へ」の流れの中で、著者はハローワークの機能強化を唱える。そもそもハローワークなんて要らないという人がいる。また、仮に公的にまかなうとしても、「国」がやるのか「地方」の裁量に任すのかで、また意見が分かれてくるだろう。

私としては、これまでの経験上、労働市場も「市場」の問題だから民間の職業紹介事業がありさえすればよい、という考え方にはちょっと反対で、やっぱり公的サービスであるハローワークがあったほうがいいと思っている。

なぜかと考えてみると、もしかすると、これは好みの問題も入ってるかもしれない。印象として、民間の職業紹介会社はバリバリとやってて元気があっていいけど時々私をイライラさせることが多く、公的機関のあの愛想のない「冴えない」感じが懐かしく思えることがあるのだ。ちょっとくらい待たされたり、職員に愛嬌がないことくらい、我慢したまえよ。やつらのビジネス・スマイルはほとんど異常。と思えることだってあるのだから。

(うまくまとめ切れてないけど、これで私の文章は終わり)(以下、全部引用)


>総合規制改革会議は2003年7月、「規制改革推進のためのアクション・プラン、12の重点検討事項に関する答申」を公表し、その中で「職業紹介事業の地方公共団体・民間事業者への開放促進」という項目が挙げられた。そこでは「民間委託のさらなる拡大に加え、公設民営方式などの導入、独立行政法人化、地方公共団体への業務移管など、その組織・業務の抜本的な見直しについて、検討を進める必要がある」とされている。

>しかし、公開されている議事録からすると、この表現は内部の過激な意見を相当に抑えた表現であり、委員の中には「国が公共安定所をもつこと自体がもう不必要」という意見もあり、それを「民間の職業紹介への規制緩和を進めるためにも、無料の公的職業紹介はセーフティネットとして不可欠」という良識的な意見が何とか抑えている状況のようである。

>一方、国際的な動向からすれば、公共職業安定機関の現下の課題は職業紹介と失業給付をより密接に連携させていくことにある。前述のように 1970年代から1980年代にかけて、イギリスでも日本でも両者の機能を分離する方向に走ったが、1990年代のOECDの雇用戦略で両者の連携が打ち出され、世界的にその方向に進んでいる。公的職業紹介を廃止して給付行政のみを残すような発想が政府の中心部で「改革」の名の下に論じられている現状は、日本の特異性を示している。

>しかしながら、公的職業紹介の将来の課題は単に失業給付との連携にとどまらず、むしろ福祉行政との連携にあると思われる。これは雇用保険制度の将来の課題として長期失業者への対応策と公的扶助との関係が問題となってきているのと揆を一にしているが、今や先進諸国では雇用政策の対象が狭義の失業者のみから福祉給付などで生活している非就業者に拡大しつつあり、彼らを労働市場に引き出してくること(「福祉から雇用へ」)が雇用政策の大きな目標となるにいたっている。EUの雇用戦略では2000年から就業率を雇用政策の指標として挙げている。

>このような流れの中で、これまで(障害者対策など一部を除けば)比較的没交渉であった公的職業安定機関と福祉行政との連携が重要な課題となってくる。そして、この点では地方公共団体との関係について、再度制度設計の根幹から検討し直してみる必要があるかもしれない。いうまでもなく、福祉行政は地方公共団体の所管であり、その行政水準もさまざまである。生活保護と職業紹介を連携させるといっても、現行組織のままでは容易ではない。現在の福祉事務所に職業紹介を行わせて成果が期待できるわけではないし、生活保護受給者に公共職業安定所への出頭を義務づけてみても形式だけに終わる可能性が高い。ここは恐らくかつての地方事務官制度に匹敵するような組織的イノベーションが必要な領域であろう。

>今後国レベルの雇用政策と地域レベルの福祉ニーズとをリンクさせるような日本型「福祉から雇用へ」政策を、どういう組織メカニズムで実行していくのか、これからの最大の課題であることは間違いがない。(『労働法政策』95p-96p)


関連記事:「雇用問題」への読者の間口が広くなる!-大久保幸夫『日本の雇用』はオススメです。2010年02月10日
(→濱口氏の本がチョイと難しすぎるという人は、講談社現代新書の大久保幸夫『日本の雇用』がオススメです! これを読めば、日本の雇用問題のことが大体つかめます。)

雇用保険のいろいろな仕組みは結構最近にできたみたい-濱口桂一郎『労働法政策』を読む①

2010年01月26日 | 労働・福祉
岩波新書の『新しい労働社会』の「あとがき」で、「もっと詳しく知りたい方は、こちらをどうぞ」といって挙げられていた、濱口桂一郎氏の『労働法政策』(2004年)という本。

私は「どんなもんだろう」と思って図書館から借りて来て、頑張って読んでみた。
とりあえず、今のところ半分以上には目を通せた。

日本の労働法の歴史がその内容。
とにかく、すげーヴォリューム! ちっちゃい字がギッシリと詰まってて、なんと500ページ以上もある!

その「目方」を見て気持ちは臆したが、雇用関係、労働法周辺の用語にこの際、「いちど慣れてみよう」と思って、むりやり目を通すことにした。


雇用保険のいろいろな仕組みはいつできたか


ハローワークに行って失業保険をもらう手続きをしたことのある人ならわかるかと思うのだが、「雇用保険ご利用のしおり」というものが手渡される。

それを読むと「どういった要件で雇用保険の手当てがもらえるようになるのか」ということについて、いろいろと説明してくれている。

まあ細かい話は自分には関係のない話なので、読み飛ばしていた。
しかし時々、雇用保険って、なんでこういう風な仕組みになっているのかな?
と気になることはある。

『労働法政策』で雇用保険の歴史について読んでいると、「あ、この仕組みって、1984年ごろに、できたんだな。それと、モラルハザードを防ぐとか、そういう趣旨・目的があったんだな」ということを知ることができる。

以下にメモ代わりに抜粋しておくのは、雇用保険法の「1984年改正」「2002年改正」「2002年の運用改善」「2003年改正」-それぞれについての『労働法政策』の文章の一節。

「へー」という感じで読めた。自分が雇用保険の手当てをもらうときには、「昔からそうなんだろう」「当たり前だろう」と思っていた制度が、結構「出来立てのホヤホヤ」の制度だったらしいことを知ることが出来た。


「1984年改正」から「2003年改正」まで


(…失業手当が失業以後、何ヶ月もらえるかは、その人がそのとき何歳か、またそれまで雇用保険に入ってた期間が何年だったか、という二つの要素によって決まる。私の場合、3ヶ月なのだが、この不況期に3ヶ月しかもらえないって、何か短すぎくない? と不安に思ったりするのだが、これもモラルハザードを防ぐためにギリギリのラインだった模様。…)

「1984年改正」

>これにより、所定給付日数は、再就職の難易度に応じて定めるという原則を維持しつつも、被保険者であった期間をも要素として決定する仕組みとなった。これにより、1-5年、5-10年、10年以上という3段階制とされた。これと従来の年齢階層別及び就職困難者が組み合わさってマトリックスとなったのである。また、65歳以上の高齢者については一時金として高年齢者求職者給付金(算定期間に応じて50日分-150日分)を支給することにした。

>また、正当な理由なく自己都合で退職した場合に基本手当を支給しないこととする給付制限期間をそれまでの1ヶ月から原則として 3ヶ月とし、安易な離職を防止しようとするとともに、受給者の再就職意欲を喚起し、失業者の滞留を防ぐため、所定給付日数を2分の1以上残して再就職した者に再就職手当(30日分から120日分)を支給することとした。ただし、かつての就職支度金制度の濫用の弊に鑑み、1年を超えて雇用されることが見込まれるような安定した職業に就職先を限定した。

>こういった改正は、失業給付制度をめぐるモラルハザードが、あちらを解消しようとすればこちらで増大するというなかなかに困難な性質があることを示している。被保険者期間で差を付ければ就職の容易な長期勤続者にモラルハザードが発生し、年齢で差を付ければ短期勤続の高齢者にモラルハザードが発生する。早期就職者に褒美を付ければ就職の容易な者にモラルハザードが発生し、付けなければ満額受給するまで居座るという形でモラルハザードが発生する。すべてに対応しようとすれば制度は限りなく複雑化してゆくことになる。(『労働法政策』106p-107p)


(…失業手当が何ヶ月もらえるかを決めるのに、自分で辞めるのと、クビにされるのとでは事情が違うわけだが、その区分ができたのが「2002年改正」によるものだった。ビックリ。それまではどうしてたんだろう?…)

「2002年改正」

>この改正によって、所定給付日数のマトリックスは被保険者期間と年齢に加え、倒産・解雇による離職者か自己都合等による離職者かという区分が設けられた。(『労働法政策』108p)


(…また、毎月の失業保険の更新の日に、その日までの就職活動実績をハローワークで報告することになっているのだが、この仕組みができたのが、なんと「2002年の運用改善」だという。それまでは何もしなくても失業手当がもらえたらしい…)

「2002年の運用改善」

>(厚生労働省の)通達「失業認定のあり方の見直し及び雇用保険受給資格者の早期再就職の促進について」(職発第0902001号)は、認定日の間の期間に求職活動実績が原則2回以上あることを確認して失業認定を行うとし、単なる職業紹介機関への登録、知人への依頼、新聞・インターネット等での求人情報の閲覧だけでは求職活動に該当しないとし、1%程度のサンプリングで問い合わせを行い、申告が虚偽であれば不正受給として処理するとしている。また、安定所に紹介されたのに事業所の面接で故意に不採用になるような言動をした等の場合にも紹介拒否と解して給付制限を行うとしている。(『労働法政策』109p)

(…そして最後。「2003年改正」は、雇用の流動化に伴い、雇用保険政策でも、「内部労働市場」重視から「外部労働市場」重視の方向への流れが見出せるという。この「内部労働市場」-「外部労働市場」というのは重要なところで、時代の変化への対応。私はこの本のキーワードの一つと思へり。…)

「2003年改正」

>このうち就業促進手当については、1984年改正で導入された再就職手当が1年以上の雇用が見込まれる安定した雇用に就職先を限定していたのを、常用就職以外の形態で就職した場合にも対象を広げており、雇用就業形態の多様化に対応した形となっている。別の角度から見れば、雇用保険法以来の内部労働市場重視政策から、外部労働市場志向の労働力流動化政策に回帰しつつある姿を示していると見ることもできる。(『労働法政策』110p)


関連記事:ホワイトカラーエグゼンプションの議論について自分なりに整理 2010年01月07日
(→濱口桂一郎氏の『新しい労働社会』について触れています。)

スウェーデン政治家の「ヴィルトゥ(力量)」-宮本太郎『福祉国家という戦略』より

2010年01月24日 | 労働・福祉
宮本太郎氏の歴史への視線


最近、府立の大きい図書館に行く機会があったので、宮本太郎『福祉国家という戦略 スウェーデンモデルの政治経済学』(1999年)という本を借りて来て読んだ。

たとえば濱口桂一郎氏の著作にも感じることだが、宮本太郎氏の著作に私は「歴史」への視線の「熱さ」を感じる。つまり、「歴史」重視のスタンスを感じる。そこを信頼して私は読んでいる。

スウェーデンといえば左翼・リベラルな人の得意分野という感じだが、左翼・リベラルの人って、学者でも往々にして「歴史」を軽視することが多い。しかし「歴史重視」の態度により、「モデル」や「図式」に偏りすぎず、「制度」や「政治」に対する「分厚い」ものの見方ができるようになる。

たとえば昔の左翼の親分、丸山真男は、歴史を決しておろそかに扱ったりはしなかったはずだ。
(と、思う。よく知らないけど。江戸時代の荻生徂徠とか福沢諭吉に関して詳しかったでしょ)
でもそれ以来、左翼の人たちはイデオロギー的・図式的なものの見方をすることが多くなってしまった。

まあ、歴史というのは時系列順の「物語」なので、私のような専門外の人間としては単純に「読みやすい」ということが最も大きいのだが。
「数式」満載の「経済学」の専門書なんて、私には読みこなせないし。

この本『福祉国家という戦略』は、スウェーデン政治の「闇」の部分といわれるもの、私でもチラホラとうわさには聞く、あの「強制不妊手術」の問題についても何ページか割いて解説している。

「強制不妊手術」というのは、障害者が生まれることを防ぐために、スウェーデン国家が強制的に、国民に断種手術を行った、というもの。まるでナチスの優生学だね。
こんなこともあったんだね、スウェーデンって。怖いなぁ。

スウェーデンに対して持つイメージが変わる。


スウェーデン福祉国家を支えてきたのは、政治家の「ヴィルトゥ」(力量)だった


イメージが変わるといえば、この本を読むと、スウェーデンの政治家たちが決してイメージにあるような、「人の良い優等生」というわけではなく、ましてや日本の社民党の福島みずほさんのような「学校の先生」タイプでもなく、政治家としての力量をもって、いろいろと政治的駆け引きを繰り返してきた、ということがわかってくる。この本を読んだ収穫をひとことで言えば、それである。

この本の「はしがき」で、宮本太郎氏はスウェーデン研究に関心を持ったきっかけについて述べている。結局スウェーデンの福祉国家を動かしてきたのは「図式」や「モデル」ではなく、政治家達の「ヴィルトゥ(政治的力量)」だった、と。

(以下、宮本太郎『福祉国家という戦略』の「はしがき」より抜粋する)

>私が、とかく優等生に見られがちなスウェーデン福祉国家に関心をもったのは、あまり素直ではない視点からであった。スウェーデンという国のひたすら真面目な相貌の背後に、意表をつく大胆な制度上の仕掛けや高度な政治的駆け引き等、もっと興味深い「別の顔」が見え隠れするように思われたのである。スウェーデン福祉国家はなぜ可能であったか、そこから何を教訓としうるかを考える場合、このもう一つの顔がとても重要であるように思われた。

>今振り返ればこのような見方は的外れではなかった。福祉国家のスウェーデンモデルは、公正か効率か、市場か政府か、福祉か経済かといった単純な二項対立を超えた、一筋縄ではいかないシステムであった。

>「常識」からすれば浮かぶはずのないものが空を飛んでいたら、何かよほどの仕掛けがあると考えるべきではないか。

>また、かかるシステムが形成されてきたそのプロセスが、勤勉な優等生の歩みというよりは、スリリングな「政治」の連続であった。ずいぶん危ない橋を渡り、少なからぬ代償も支払ってきたようにも思う。しかし、あらゆる手段を尽くしてその理念を現実に移そうとする強固な意志が存在したこと、さらにそれを可能にするヴィルトゥ=政治的技量があったことは見ておいてもよい。

>要するに、そのシステムという点でも、プロセスという点でも、福祉国家のスウェーデンモデルはきわめて戦略的な思考の産物であった。

こういう視点で本書は書かれているわけだが、この「一筋縄ではいかないシステム」を巡る政治家達の物語で私がいちばん面白いなと思ったのは、「第四章 スウェーデンモデルの揺らぎ」というところだ。

-1980年代になると、世界の経済状況が変わってきて、スウェーデンの福祉政治もグラグラと揺れ動きはじめた。社民党や労働者側は、70年代頃から「労働者基金」という社会主義的な制度を作ろうとしていたが、社民党が1976年の選挙で負けてしまって一旦ご破算になってしまう。そこから労働者側とも協議を続けながら、妥協に次ぐ妥協を重ね、捲土重来、1982 年の選挙に勝って6年ぶりに社民党は政権復帰した。そのときに提出した「労働者基金」法案はしかし、もはや変わり果てた姿となっており、当初のプランとは全然別のものとなっていた。それでも無理矢理、社民党は「労働者基金」法案を国会で通す。

このあたりの描写がスリリング。与党である社民党は、自ら法案を通しながら忸怩たるものがあったらしい。こんな描写がある。

>同年(1982年)12月21日、スウェーデン議会は、二日間に渡る討論の末、労働者基金法案を賛成164、反対158で可決した。ただし、社民党-LOブロックに勝利感は希薄であった。基金法案の審議中、一地方紙のカメラマンの望遠レンズは、偶然、同法案の趣旨説明をしたばかりの大蔵大臣フェルトが手元の書類に記した走り書きをカメラに収めた。そこには「労働者基金はクズだ。OK。クズをここまでひきずってきた」とあったのである。(217p)

自分で法案通しておきながら、社民党の大臣が「こんな法律はクズだ」とつぶやいている。このあたりのやりとりが「読み物」としてドキドキしてしまうところだ。


…図書館では、この本のほかにも、濱口桂一郎氏の『労働法政策』(2004年)という本も借りてきた。こちらは私の以降の記事で、備忘録としていくらか文章を抜粋しておくことにする。


関連記事:秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より 2010年01月16日
(→秋葉原殺傷事件と「承認問題」に関する宮本太郎氏の考え方を抜粋しています。)

「マシナリさん」と「労務屋さん」のブログを見て思ったこと

2010年01月24日 | 労働・福祉
労務屋さんのブログを読んで-八代尚宏氏、湯浅誠氏、城繁幸氏について


拙ブログの「八代尚宏氏vs.湯浅誠氏」の記事に関し、hamachan 先生経由で、労務屋さんがブログで取り上げてくださいました。

労務屋ブログ『あれこれその2』2010年1月19日

労務屋さんによると、こと「雇用政策論」という土俵においては、八代尚宏氏と湯浅誠氏の力量の差ははじめから明らか、とのことです。

>「雇用政策」という政策論の土俵(これはどちらかというと八代先生の土俵です)に乗ると、たしかに「相撲になって」はいるかもしれませんが、やはり力量の差は明らかというか、まあ三役と十両くらいの違いはあるかなという気が私にはします。(労務屋さんの発言)

そりゃそうでしょうね。わたしも八代氏に興味を持つのは、その「学者としての力量」を信頼してのことです。
湯浅誠氏のことも、(今のところ)尊敬しています。私はもともと「左翼嫌い」なのですが、湯浅氏に関しては、その行動力や発言の仕方を見て、いつも「すごいな」と思って感心してしまいます。

私の「社会的身分」というか、世間的な立ち位置を言いますと、新卒一括採用のパイプラインからこぼれ落ちて漂流をつづけて現在では30歳を越えた男で、たぶん年収200万円以下の「ワーキング・プア」の部類に入るかと思われるのですが、こういう立場にいると、どうしても「ルサンチマン」がたまりがちになります。社会に対する「恨みつらみ」というヤツですね。これは放っておくと危険ですので、「冷静な学者の意見」に時々触れて、アタマを冷やす必要があるのです。そういったときにたとえば濱口桂一郎氏の本や八代尚宏氏の本を読むことが役に立ちます。

私の城繁幸氏への論評に関し、労務屋さんは、

>(ブログ・プチパラの)城繁幸氏への論評も「「君側の奸を討つ!」とか「完全自殺マニュアル!」とか、「希望は、戦争!」みたいな、いかにも辛抱が足りない日本の若者的発言」と辛口になっています。なるほどねぇ、城氏のトンデモぶりはそう理解すればいいのか。私としては若者一般を「辛抱が足りない」で片付けるのには抵抗もあるのですが…。(労務屋さんの発言)

と書かれていましたが、私は城氏の本を1冊も読んだことがなく、ネットの情報と雑誌の記事だけを読んでああいう風に批判したのはもしかして軽率だったかもしれません。またこれは、ちょっと同族嫌悪みたいなところもあって、私自身が、昔から「辛抱の足りない若者」であり、20代の頃に「完全自殺マニュアル」を愛読していましたし、2・26事件の青年将校たちに一度くらいは憧れの気持ちを持ったことがある人間ですので、「そうならないように」というむしろ自分に対する警戒心からのクサビみたいなものですね。赤木智弘さんや雨宮処凛さんの本なんて、「リアルすぎて怖い!」(((( ;゜Д゜))))  ので私はあまり読まないようにしています。

八代尚宏氏に関して、労務屋さんは、

>まあ、八代先生について意見表明するのなら、中公新書もいいですがやはり『日本的雇用慣行の経済学』を読みましょう。

と薦めておられるので、今度、府立の図書館に行った時にはその本を借り出してみようと思いました。(その後通読しました。→関連記事:「いのちを守る政治」と八代尚宏『日本的雇用慣行の経済学』(1997年)2010年02月10日

労務屋さんはさらにこの記事で、私が参考にさせて頂いたマシナリさんの『machineryの日々』というブログの「経営者目線」という言葉に関しても論評されています。

最後の方の文章で、

>それにしてもあまりあからさまに住民をバカ扱いするような発言は慎まれたほうがいいのではないかと

という所がありました。

これに対しマシナリさんは、

machineryの日々『労労対立が企業を超えるとき』2010年01月24日で、

>不快感を与えるような記述になってしまっていたことは大変申し訳なく思います。誤解を与えるような記述となっている部分がないか見直してみたら、

と書かれ、ご自分の文章から引用して「…叩いている側と叩かれている側が実は相互に影響し合うという現実を認識できるかが非常に重要だと思います。」…このあたりではないでしょうか、と提示されているわけですが…。


マシナリさんのブログを読んで。どこかすれ違っているような気が…


この引用箇所は、ちょっとちがうのでは? と私には思われました。

もともと、マシナリさんの記事は、「市営バスの運転手とか公立学校の給食のおばちゃんとか公立保育園の保母さんの年収が1,000万円近くになるのはけしからん」という住民側のクレームの電話から始まっていたわけです。

「え? 公務員、1000万円以上?」この金額にびっくりしてしまうのは、まあ民間では普通の感覚だと思いますが、そこをマシナリさんは「公務員バッシングのブーメラン効果」「自業自得」みたいな話に直接結び付けてしまいます。「公務員バッシングがマズイ」という話はわかるのですが、その最初の、例の出し方がちょっと…。このあたりが誤解されやすいところだったと思います。

労務屋さんがおっしゃっていた「住民をバカ扱いするような発言」と取られかねない所を私が引用してみるとするなら、たとえば、

『「労働」と「経済」を定義する主体』2009年12月20日というエントリの末尾の、

>まあ、国民がそのような変化を「主体的に」担う組織を否定しつづける限りは当然の帰着ではあるわけで、国民自らが望んだことだとあきらめるしかないのでしょうね。(マシナリさんの文章)

とか、『渡る世間はブーメランばかり』2009年12月28日 というエントリの

>財源の裏付けすらないマニフェストで「まず、政権交代」と主張したブーメラン野党を選んだ国民の側にもブーメランが帰ってきているわけで、そんなブーメラン政権の姿は、果たしてそれを笑うことができるのかと国民一人一人が自問するための手本なのかもしれません。(マシナリさんの文章)

というところが、「お前ら自業自得だぜ」という突き放した物の言い方に見えてしまいます。

マシナリさんが言いたいのは労働環境をよくするためには労働組合が大事だぜ、民間もパブリック部門もそれは同じで、足の引っ張り合いみたいな無駄な争いはよくない、といったことだと思われるのですが、「年収1000万円」のインパクトが強すぎて強すぎて、そういう奥深い趣旨までもがかすんでしまう…(笑)

マシナリさんのブログは、私は、hamachan 先生経由で知りました。
初めて見たときには、おお! 現代には、ちゃんと「思考する公務員」「学問する公務員」という方がおられるんだな、と少し感動しました。

私も「公務員バッシング」は端的によくないと思っていまして、以前の記事でも次のように書いています。

…たとえば最近国民の憎悪・怨嗟の的になってて、「あなたたちはもしかしてナマハゲなのか?」状態に陥っている厚生官僚たち。…
…私がいた職場でも、ほぼ毎日、公務員の悪口を言ってる人がいた。もはや「あいさつ」代わりなのである。「共同体」のコミュニケーションをスムーズにするために公務員に「諸悪」を押しつけるという構図が、私には「ナマハゲ」っぽく見えるのである。他県のことは知らないが、大阪では特に公務員バッシングが強いようにも感じられる。…(昔の厚生官僚は偉かった!― 富永健一『社会変動の中の福祉国家』より 2010年01月19日

民間では、「公務員の悪口」というのが「コミュニケーションの潤滑油」としての機能を果たしているんですね。
困ったことですけど。


官民・貴賎・老幼の区別なく…


あと、民衆のルサンチマンってゼロにはできないんですよね。
互いに「寛容」でないと。
地方公務員も、ワーキング・プアも、官僚も、トヨタの社員も、どこかで共生できる点があるはずだから。

そういえば、以前の記事でも似たようなことを書いていたな。池田信夫氏のようなエリート達に対して、「もっと下層民に優しくしてくださいよー」と「下から目線」で懇願するような気持ちで書いた文章だった。(↓)

…私は、社会を動かすエリートや知識人たちは、もちろん、ルサンチマンなしに、物事を明澄なアタマで考えることが出来なければならないと思う。でも、同時に、民衆にルサンチマンがあることを考慮に入れて物事を動かしていかないと、マズイことになりそうな気がする。一般民衆に、ルサンチマンという人間的感情の一滴もない「超人」を求めるのは酷というものである。…(エリートは「恨み」なしに「民衆」を考慮することができなければならない。2010年01月13日





最近の拙ブログのアクセス数。

2010年01月22日 | 労働・福祉
以下、【ブログ・プチパラ】の最近のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

2010.01.21(木)  525 PV   186 IP   7343 位 /1354712ブログ
2010.01.20(水)  269 PV  139 IP      - 位 /1354150ブログ
2010.01.19(火)   582 PV  188 IP   7149 位 /1353606ブログ
2010.01.18(月)   326 PV   145 IP      - 位 /1352974ブログ
2010.01.17(日)   302 PV   135 IP      - 位 /1352394ブログ
2010.01.16(土)   553 PV   217 IP   6281 位 /1351955ブログ
2010.01.15(金)   509 PV   165 IP   8798 位 /1351525ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数(週別)
        
2010.01.10 ~ 2010.01.16  2892 PV 1092 IP
2010.01.03 ~ 2010.01.09  1439 PV 772 IP
2009.12.27 ~ 2010.01.02   1116 PV 600 IP

…こんなふうに1週間も「100IP」を超えているということは、今までになかった。今月に入ってから、アクセス数がかなり増えているのは、やっぱり濱口桂一郎氏のブログや、「労務屋」さんのブログが拙ブログの記事を取り上げてくださったことが影響しているのだろうな。私もちゃんとフォローしとかないと。

でも「労働・福祉」関係って、ちゃんと考えるの、すごく面倒くさくて。
勉強しようとしたら、私は失業中でかなり「当事者」なので、それが「生々しい」のでいやになる。

私としては「宗教・スピリチュアル」の記事だって、「施川ユウキ」の記事だって増やしていきたいし。

拙ブログ、テーマがバラバラになっていて、「労働・福祉」関係の記事を期待してここに来られた方がいましたら、どうもいま部屋を取り散らかしておるところでして、マコトにすいません。

昔の厚生官僚は偉かった!― 富永健一『社会変動の中の福祉国家』より

2010年01月19日 | 労働・福祉
前項の記事は、昔の自民党は偉かった、父よ、あなたは強かった-、といった内容だった。今回は、公務員、官僚の話。
たとえば最近国民の憎悪・怨嗟の的になってて、「あなたたちはもしかしてナマハゲなのか?」状態に陥っている厚生官僚たち。

私がいた職場でも、ほぼ毎日、公務員の悪口を言ってる人がいた。もはや「あいさつ」代わりなのである。
「共同体」のコミュニケーションをスムーズにするために公務員に「諸悪」を押しつけるという構図が、私には「ナマハゲ」っぽく見えるのである。
他県のことは知らないが、大阪では特に公務員バッシングが強いようにも感じられる。

でも、われわれは、彼らが作った諸制度から今も恩恵を受け続けている。
私が言いたいのは、誰のおかげで医療を受け、失業手当を頂き、年金をもらったりできているんだ? ということだ。

50年単位で見れば、マイナスよりプラスのほうが大きかった。
自民党だって同じだ。
私の感触では、自民党のマイナスがだんだん大きくなってきたのは、80年代、90年代以降のことにすぎない。

富永健一氏の『社会変動の中の福祉国家』(中公新書 2001年)は、厚生官僚の役割を高く評価している。
私もそうだと思う。彼らがいなければ今、介護保険制度だってロクに整備されてなかったかもしれないんだよ。
一体どんなことになっていたか。

だから、嫌かもしれないが、昔の官僚たちに感謝しましょう。

以下、 富永健一『社会変動の中の福祉国家』(2001年)より

>私は日本福祉国家を「ハイブリッド型」としたが、日本はあえていえば「後発産業国型」なのである。日本の産業化は遅れて出発して先進諸国に追いつくことをめざしたがゆえに、「官僚主導型」になった。日本の福祉国家づくりもまた、その一環として、官僚主導型でここまでやってきた。ここで日本官僚制の総合評価を下す用意はないが、少なくとも日本が福祉国家の仲間入りをするまでになったのは厚生行政の主導によるものであり、そのかぎりで日本の厚生行政は立派な仕事をしてきたことを認めるべきである。離合集散の激しい諸政党が定見をもたず、とりわけ自民党もかつての社会党もともに福祉の確実な推進者にならない中にあって、厚生省は、高度の国家的使命意識をもって、国民のために福祉政策を用意してきた。日本が福祉国家になったのは、その産物である。政権政党としての自民党には、福祉国家化の推進に貢献した人もいたが、それに反対の人も多かった。そのような自民党政権が福祉国家づくりの担い手になり得たのは、官僚に依存してきたからである。これは一つの歴史的事実である。かつて「清廉」といわれた日本の官僚にも汚職事件がふえ(とりわけ厚生省には 1998年に岡光政務次官の汚職があった)、公庫・公団・事業団などの「特殊法人」のように改革を必要とする多くの問題がある。とはいえ、日本の厚生行政のすぐれた業績の遺産を評価することは、エスピン-アンデルセンの三類型の中にはない日本の独自性に着眼することにほかならない。(富永健一『社会変動の中の福祉国家』220p-221p)

秋葉原事件と承認問題-宮本太郎『生活保障』より

2010年01月16日 | 労働・福祉
私は基本的に、若者の「労働」の問題と、若者の「承認」の問題はゴッチャにしないほうがよい、と考えています。
生きていく上で、「承認されないのが当たり前」という覚悟のほうが大事だと思うから。
そもそも「承認」問題に関し、政府の政策に期待しすぎるのは危険です。

それに私は、洋泉社ムック『アキバ通り魔事件をどう読むか?』(2008年)で東浩紀氏が述べていたように、今の若者の「生き難さ」には、政治や経済の状況といったわかりやすい話とは別に、「抽象的な苦しみ」が含まれているように感じていますので、「いい政治」によって労働や雇用の条件がよくなったからといって、われわれの「実存的な痛み」がなくなるわけはない、と思ってます。

拙ブログで「労働・福祉」カテゴリーと「宗教・スピリチュアル」カテゴリーを分けて設けているのは、一つにはそういう意図があります。(時々わざと混ぜこぜにして読者を混乱させようとすることもしますが)

仏教用語で言うと、「世俗諦」と「勝義諦」の区別に近いものがあります。

しかしやはり「承認問題」は、現代の若い世代にとっては切実な問題であるかもしれないので、宮本太郎『生活保障』に、労働の問題とからめて「承認」の問題について論じている部分があるので、引用しておきます。


以下、宮本太郎『生活保障』第2章第3節 「生きる場」の喪失 より


…2008 年6月の秋葉原における殺傷事件は、「生きる場」からほぼ完全に閉め出された若者による凶行であった。第一章でも触れたこの事件を、もう少し掘り下げておこう。事件の容疑者が、事件の前にインターネットの掲示板に書き込んだメッセージは、自分が何者でもない、という狂おしいまでの虚無感に満ちていた。たとえば、事件から三ヶ月ほど前、2月27日に容疑者が記したと思われる書き込みは以下であった。

「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気付きましょう そして受け入れましょう」

… 容疑者が自己の存在を徹底して否定的にとらえるこの言説を、いささか唐突かもしれないが、1970年代半ばのイギリスの地方都市、ハマータウンの若者たちの発言と対照してみたい。イギリスの社会学者ポール・ウィリスによる『ハマータウンの野郎ども』は、21世紀初頭の日本と同様に、あるいはそれ以上にはっきりした格差社会のなかで生きる若者たちの言説を記録したルポルタージュである。そこでの若者たちは、秋葉原事件の容疑者と同じく社会的上昇の可能性をほとんど喪失している。にもかかわらず、彼らの自己肯定感は、対極的なまでに強いのである。

「連中よりもおれたちのほうが世の中を知っているよ。(中略)あいつら、数学や理科や国語では頭がいいよ。そりゃ認めるね。でも生き方についちゃ、まるでパーだよ。おれから見りゃ、負け犬だな。」
(57p-59p)

…このルポルタージュは、人々の生活を支えるものが、所得の保障のみならず、相互承認の場の存在であることを明らかにしている。逆に秋葉原事件は、所得ばかりではなく相互承認の場を喪失したときに、人々が追い込まれかねない状況を示唆する。(60p)

…アメリカの政治学者ナンシー・フレイザーは、福祉政策における承認という問題を重視し、福祉国家の役割を「再分配」と「承認」の二つに分けて論じて議論を呼んだ。(62p)

…このような、ライフスタイルをめぐる承認問題は、これからの生活保障が取り組むべき重要な課題である。(63p)

… 実は、同じく承認の問題を論じながらも、ドイツの社会哲学者アクセル・ホネットは、承認をマイノリティ集団の問題としてとらえて再分配に対立させるフレーザーに反対する。ホネットによれば、承認はもっと個人の次元の問題であり、社会とつながっていく上で、マイノリティ集団ならずとも誰もが必要とする事柄なのである。(63p)

…秋葉原事件などが象徴する日本の状況は、このホネットの議論のほうにリアリティを感じさせるのではないか。

… 事件の容疑者はマイノリティ集団に属するわけではないが、自らについて、派遣労働者として業績達成の機会を阻まれた「要らない人間」であり、「三流短大卒」などの属性から恋愛関係から疎外されており、ウェブの世界だけが「私の唯一の居場所」であると考えていた。さらには、雇用関係から簡単に放り出されることに異議を唱えることができる権利主体という意識もなかった。こうして徹底して「生きる場」を喪失した容疑者が直面したのは、他者からの承認を媒介した自己承認への飢餓感であった。

…この承認という問題を考えていくと、社会保障や福祉のあり方をめぐる議論が、なぜ貧困そのものより、「社会的包摂」(ソーシャル・インクルージョン)の問題として論じられるようになったか、ということも理解できる。

… 社会的包摂とは、EUの社会政策ではもっとも基軸的なコンセプトとなっている言葉で、さまざまな貧困、失業、差別などにかかわって社会から排除されている人々を、社会の相互的な関係のなかに引き入れていくことを目指す考え方である。相互的な関係とは具体的に何を意味するかというと、それは政治的立場によっても異なってくる。失業者を就労させることに留まることもあれば、あるいは職業訓練や所得保障など、より包括的な支援をおこなうことを強調する場合もある。地域コミュニティなどへの参加を重視する場合もある。この幅の広さゆえに、EUのなかでは多様な政治勢力がこの言葉を異なったニュアンスで使うことになる。

…このように強調点の相違があるとはいえ、人々が具体的な社会関係のなかで自立することが大切である、という考え方が広く共有されていることは強調に値する。経済的な貧困だけではなく、「生きる場」を失っていることが人々を苦境に陥れ、貧困からの脱却それ自体を困難にする。社会的包摂とは、「再分配」と「承認」の総合として理解されるべきなのであり、それゆえに分断社会への処方箋となっているのである。(64p-65p)


関連記事:「社会保障」も、昭和の妖怪・岸信介が基礎をつくった-宮本太郎『福祉政治』より 2010年01月19日
(→宮本太郎氏の著作から、岸信介と皆年金制度の関わりを描いた箇所を抜粋しています。)
関連記事:スウェーデン政治家の「ヴィルトゥ(力量)」-宮本太郎『福祉国家という戦略』より 2010年01月24日
(→宮本太郎氏の歴史研究への態度と、スウェーデン政治の生々しい一シーンを紹介しています。)

「保守」は本来、社会の「綻び」に敏感なはず-宮本太郎『生活保障』より

2010年01月16日 | 労働・福祉
前項の記事で「自民党よ、頑張って欲しい」と保守派にエールを送ったつもりだが、最近の岩波新書、たとえば宮本太郎氏の『生活保障 排除しない社会へ』は、保守派を自認する方たちが読んでも決して損はない読み物だと思う。

この本にある、宮本太郎氏の保守主義への評価を引用しておく。

… 保守主義というのは本来、人々のつながりと秩序が失われていくことに対しての危機感に支えられた思想のはずであった。その限りで筆者は、保守主義の思想には学ぶべき点が多くあると考える。本来の保守主義の思想は、道徳論だけで人々のつながりが蘇るかのような主張にいきつくとは思えない。にもかかわらず、その種の単純な主張が多い現実を見ると、むしろあまりに危機感が欠落していると言いたくなる。

…保守主義の思想が強調してきたように、人間が社会を上から自在に造形できると考えるのは間違いである。後にも触れるが、北欧のように成功した福祉国家が試みたのは、そのようなことではない。人々の現実の利害関係や感情に沿って、漸進的な改良を積み重ねてきたからこそ、北欧は安定した社会を築くことができた。しかし逆に言えば、大きな社会の変化のなかで人々のつながりを維持していくためには、社会的な支えが不可欠となるのである。(『生活保障』66p)

ただ、この節の最後のほう(68p-69p)、社会学者の見田宗介氏の「ルール圏」と「交響圏」という言葉を紹介している所などは、岩波新書の読者の「間口」を広げる上では、不要だと思った。

社会のことを考えるときに「交響圏」だなんて、高踏的すぎて、ついていけなくなる人が多くなってしまう。

もっとドチャック(土着)な感覚から離れすぎない言葉のほうがよいのだ。

せっかく岩波新書もいいところまで来ているのに、「鼻持ちならない左翼インテリ臭」はできるだけなくしていったほうがいい。

同じ理由で、この本『生活保障』で一度だけ、著者が「小泉の言うとおりなのである。」(51p)と、小泉元首相を「呼び捨て」にする箇所があるが、ここはちょっと嫌だなと思った。

世間一般の人に訴えかけようと思っている学者ならば、公的な場で、「小泉」とか「コイズミ」などと呼び捨てにして、かつての一国の総理を「忌まわしいもの」を扱うような態度を取ることは慎まなければならないと思う。

たとえば宮本太郎氏の友人であるらしい政治学者の山口二郎氏に、私は時々「そういう雰囲気」を感じることがあるのでちょっと心配した。

関連記事:ハローワークの「ワン・ストップ・サービス」はいいと思った。でも現場は… 2009年12月21日
(→ハローワークの機能向上や、現在の民主党政府の自殺対策について少し触れています。私は、自民党-保守系の政治家の方達が、この10年ほど、「自殺対策」について具体的な方策を練ることにあまり時間をかけて下さらなかったことを、「保守」感覚の衰退の象徴、として残念に思っています。)

八代尚宏氏の『雇用改革の時代』を読むーホントに、雇用問題って難しいなあ…

2010年01月15日 | 労働・福祉
雇用問題、労働問題についてもう少し考えようと思って、図書館で八代尚宏氏の近著『労働市場改革の経済学』を読もうとしたのだけど、私の家の近くの市立図書館では、この本は既に「予約」が2、3人詰まっており、今すぐには借り出せなかった。

仕方なく、ちょっと古くなるが、10年前の八代尚宏『雇用改革の時代』(中公新書 1999年)という本を借り出して読んでみると、案の定、面白かった。

へー、そうなのかー、といろいろと勉強になった。

岩波新書の濱口桂一郎氏の『新しい労働社会』は、どちらかというと「労働法」の用語を使って雇用問題が語られていたが、八代尚宏氏の『雇用改革の時代』は、主に「経済学」の用語を使っているので、文章の「歯切れ」がよい。

「machineryの日々」2009年12月26日 の記事に「労働」という言葉を使う人と、「経済」という言葉を使う人との対立が示されていたが、この対比を使えば、どっちかというと濱口氏は「労働」の人で、八代氏は「経済」の人になるだろう。

わたしが、やっぱり学者ってカッコいいな、と思うのは、たとえばこの本では八代氏が「男女間の賃金格差はなぜ生まれるのか」の説明をしている箇所を読んでいる時だ。「それは日本の男根主義者たちに根強く残っている封建主義的な女性蔑視観によるもので…」といった説明はしない。たしかに日本に男女差別が強いのは事実だけど、そこに行く前に、経済学的視点からワンクッション置いてみる。

>こうした男女間の職種の違いを、日本の大企業を中心に残っている結婚退職や既婚女性の採用制限等、人事管理の特殊性によるものとする見方がある。しかし、それでは、なぜ差別的な慣習が、とくに日本で根強いのかという点についての説明が必要となる。これは、「企業が真に利益を追求する行動を取っていれば、本来、雇用差別は存在しえない」(フリードマン)からである。(『雇用改革の時代』142p)

>そこで競争的な市場の下でも男女間の大幅な賃金格差が持続することの説明要因としては、企業内訓練を極度に重視する日本的雇用慣行があげられる。(143p)

…出ましたね。「企業内訓練を極度に重視する日本的雇用慣行」。濱口氏の『新しい労働社会』でも説明されていた、日本のメンバーシップ型の雇用契約から派生する雇用慣行。

>同じ仕事能力を持つ女性の従業員を差別すれば、会社側にとっても「差別のコスト」がかかる。しかしその例外は、労働者の仕事能力自体が、企業内の訓練を通じて形成される場合である。この場合、労働者をどのポストに配置するかは、経営者側の恣意的な判断に委ねられる。このため、平均して結婚や出産、夫の転勤等の非経済的な事情で退職するリスクの大きな女性は、相対的に貴重な企業内訓練の機会を配分されにくい。これは個々の従業員の能力や意欲をあらかじめ知ることは困難(情報の非対称性の制約)な状況では、女性というひとつの集団の平均的に高い離職率という特性を、個々の雇用者について機械的に当てはめる「統計的差別」の行動である。(143p-144p)

…「統計的差別」か、なるほど、と思った。「情報の非対称性」があるから雇う側もおっかなびっくりで、だから女性を「統計的に」差別せざるをえない。

>仮に、労働者が自らの負担で教育・訓練を受ける大学などの教育機関で熟練が形成される場合には、こうした要因に基づく男女間の格差は小さくなる。男女を問わず企業内訓練の比重が小さく、自己負担の教育や他の企業での職務経験を通じて技能を形成する米国のホワイトカラーの場合には、女性にとって幹部ポストへの登用機会も相対的に多く、賃金格差も小さいことになる。男女間の雇用・賃金格差は、どこの国でも存在するが、それが日本でとくに大きいことは、企業内訓練を重視する日本的雇用慣行の下で、性別や学歴による差別の要因が働きやすいためと考えられる。(『雇用改革の時代』144p-145p)

…こうして、ぐるぐると悪循環がはじまるわけだ。性別差別や学歴差別の。

そして、この男女の雇用問題に関する文章の最後に、八代氏はこう書く。

>共働き家族は、今後の低成長の社会では、リストラにも強く、また一方が生活費を稼ぐうちに、他方が個人の能力のグレードアップのため、自費での教育・訓練を行うこともできる。女性が働きやすい社会は、多くの男性にとっても同様に、選択肢の多い、働きやすいものとなる。(163p)

…最後の「女性が働きやすい社会は、多くの男性にとっても同様に、選択肢の多い、働きやすいものとなる。」というのには私も同意。

話は飛ぶが、同じように、「外国人が働きやすい社会は、多くの日本人にとっても同様に、選択肢の多い、働きやすいものとなる」から、外国人労働者をもっと増やして、外国人の労働環境を改善していってほしいと思うことがある。

さらに、リチャード・フロリダの本によれば、ゲイ(同性愛者)にとって住みやすい街は、若い女性や年寄りの夫婦たちにとっても同様に、住みやすい街となる。したがってゲイにとって住みやすい街は、有能な人材が集まり、産業が発展し、経済力が強くなるのだそうだ。資本主義を強くするためにも、女性や外国人、同性愛者たちが働きやすく住みやすい環境を作ることが、大事なのだ。

…このように私は八代氏の本を読んで感銘を受けたのだが、いまブログ検索で八代尚宏氏の名前をちょっと調べてみると、この人は「労働ビッグバン」を推進しようとした新自由主義者の「悪の権化」みたいな存在として、いろいろな人に罵倒されてきたようだ。

「えー、なんでー?」と私は思う。

自民党・小泉路線を批判するような「左」っぽい人の中でも、私が読んだ中では、たとえば「市役所の職員で、組合の委員長」をやっているという方が、3年ほど前に書かれていた『公務員のためいき』 2007年2月12日 八代尚宏教授の発言 Part2という文章などは「穏当」だと感じられた。

この記事には八代氏の著作に対して次のようなコメントがある。すごく「まとも」だと感じられる。

>1年ほど前、当ブログへのコメント欄で八代教授の著書「雇用改革の時代」をご紹介いただき、すぐ手に入れ目を通していました。最近、八代教授が注目を浴びるようになったため、探し出して手元に置きパラパラと頁をめくっています。1999年12月に発刊された著書ですが、八代教授の主張は現在に至るまで一貫している点がよく分かります。

>雇用の規制緩和などの是非は置いた上で、日本的雇用慣行の分析などに関して感心した覚えがありました。企業が労働者の長期雇用を保障するのは温情ではなく、企業の教育訓練投資の成果である熟練労働者を重視したものであり、年功賃金と退職金制度は熟練労働者を企業に縛りつける仕組みであると述べていました。

>八代教授は日本的雇用慣行の担ってきた役割を一定評価した上で、時代状況の変化からその見直しも必要であると訴えていました。要するに「雇用改革」であり、現在の政府の施策となっている「労働ビッグバン」につながっています。

>例えば経済財政諮問会議の中で、八代教授は「派遣労働者の固定化防止のために派遣期間3年の制限が必要であると言うが、その企業でもっと働きたいと思う人が法律によってクビを切られることになる」と発言しています。この発言一つとっても短絡的に判断できるものではなく、頭から否定できない問題提起を含んでいるものと感じています。

>賛否が分かれる八代教授の主張に対し、「非正規」労働者の待遇改善に向けた思いは共通する課題だと言い切れます。(以上、『公務員のためいき』より)

…どうしてこういう冷静な議論がネット上には少ないのか。

以下、今回この記事を書く際に参考にさせて頂いたブログ。

五十嵐仁の転成仁語 2008年4月10日 最賃制をめぐる「攻防」
雑種路線でいこう 2009年10月06日 人材の流動性って強引に高めるべきか
池田信夫氏 2009年11月29日 八代尚宏『労働市場改革の経済学』の書評
EU労働法政策雑記帳 2009年11月25日 8,9割までは賛成、しかし…八代尚宏『労働市場改革の経済学』をめぐって
EU労働法政策雑記帳 2008年2月27日 hamachan=八代尚宏?
EU労働法政策雑記帳 2009年9月9日 お待ちかね、労務屋さんの書評

拙ブログ内関連記事:八代尚宏氏と湯浅誠氏- 『EU労働法政策雑記帳』より 2010年01月07日

石原慎太郎知事の「派遣村」批判に一理あり

2010年01月11日 | 労働・福祉
毎日新聞 2010年1月8日 で、東京都の石原知事が、派遣村のことを「あの程度の行事」と言い、入所者のことを「甘えた話」と言っていたそうだ。
こういう側面はたしかにあるんだから、無視はできないなぁ、と思う。

>国と東京都が開設した「公設派遣村」で多数の入所者の所在が分からなくなっている問題を巡り、石原慎太郎知事は8日、「こっちは国に頼まれてやったこと。国の役人が現場へ来て手伝ったらいい」と述べ、国の責任を強調した。鳩山由紀夫首相や閣僚が派遣村を視察したことについては「あの程度の行事に総理大臣が出かけて行くべきじゃない」と批判。「私は行きません」と断言した。
>公設派遣村は国が費用を負担し、実施場所の確保や運営は国の要請を受けた都が受け持っている。石原知事は「本当は現場を構成するはずの国が何もしないでおいて、総理大臣が(視察して)『お気の毒ですね、大変ですね』っていうことで済むのかね」と述べた。
>公設派遣村は5日から、日雇い労働者向け宿泊施設「なぎさ寮」(大田区)に拠点を移し、2週間の期限で入所者の支援を続けているが、石原知事は「期限は延長しない」と明言。入所者については「仕事をあっせんしたら『それは嫌だ』と言い、とにかく生活保護をもらえれば結構だという人もずいぶんいる。甘えた話だと思います」と語った。(毎日新聞 2010年1月8日)

さらに、さかのぼると、毎日新聞 2010年1月4日 でも。

>石原知事:新年あいさつで民主批判「危険な綱渡り」

>東京都の石原慎太郎知事は4日、職員約700人を前に新年のあいさつをした。民主党政権について「選挙時の公約が先行してがんじがらめになっている。高福祉低負担なんて常識で考えてもありっこないのに、消費税についてみんな避けている。これは政治家の典型的なポピュリズムだ。非常に危険な綱渡りをしている」と批判した。そのうえで、「国民が自分の権利ばかり主張して政治家もそれにおもねっている。私たち行政を預かる人間はそういう風潮に流されてはいけない」と述べた。(毎日新聞 2010年1月4日)

石原慎太郎氏が発言しているというだけで、「バカ左翼」の方々がまた、ビービーわめき出しそうな記事であるが。

しかし、世間一般の常識レベルでは、石原氏はそれほどズレたことを言っているわけではない。

むしろ世間にはこういう感覚がありますよ、ということを教えてくれる記事である。

なお、「派遣村」の設立に尽力している湯浅誠氏がそういう事情に関し、結構「わかっている人」である証拠として、マスコミの空気への違和感を表明している箇所を拙ブログより再録しておこう。わたしは、湯浅誠氏はぜんぜん「バカ左翼」ではない、と考えている。

[以下、堤未果・湯浅誠『正社員が没落する』(223p~225p)よりの引用、再録]

<湯浅> この人、こんなに頑張っているのに上手くいかないんです。かわいそうでしょ? 世の中っておかしいでしょ? というストーリーで出す。
しかし、本来は真面目なところといい加減なところを誰でも持っているのだから、織り交ぜて出さなくてはいけないのに、やっぱりいい加減なところは全部落として出してしまう。

<堤> わかりやすいストーリーができているんですね。かわいそうな人のイメージとか…。

<湯浅> そう。その人のいい加減な面が見えると、読者や視聴者の共感を得られない。今、貧困の問題を出し始めたところだから、慎重にやらなくてはいけない時期だと。
とくにワーキング・プアは自己責任論が強いから、ちょっとでもそういう面が見えると自己責任論が出てしまうから出せないと、この二年間ずっとそうです。
しかし、この論理は自己責任論と共犯関係に立ってしまう。「この人はこんなに頑張っているからなんとかしてあげなきゃいけないんだ」という論理。これは、「こんなに頑張っていない人はしょうがないよね」という話になってしまう。

関連記事:You tubeで首相から失業者対策メッセージを-湯浅誠氏の提案 2009年12月24日
(→堤未果・湯浅誠の『正社員が没落する』からの引用がある記事です。)
関連記事:ダメや。失業者はマナーがなっとらん。これじゃアカンわ。2010年01月11日
(→ハローワークの喫煙所で、失業者たちがタバコの火をちゃんと揉み消していないことに対する私の怒りを表明している記事です。)