ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

『日本の論点』 人の労働観は時代によってどう変わったかーベーシック・インカムについて⑤

2010年02月24日 | 労働・福祉
小飼弾氏は、パウロに喧嘩を売っている。


ベーシック・インカムに関する最近の本としては、私はまだ読んでいないのだが、小飼弾氏の『働かざるもの、飢えるべからず。』があるようだ。

「働かざるもの、食うべからず」という格言は、おそらく新約聖書のパウロの言葉から来ているのだろう。「テサロニケ人への第二の手紙」でパウロは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命令している。

以下、パウロの「テサロニケ人への第二の手紙」より

>わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
>援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

小飼弾氏は、つまりパウロにケンカを売っていることになるのだが、人の労働観が時代によってどういう風に変わってきたのかには、興味がある。

ちょうど『日本の論点 2010』に良い文章があったので、それを以下に「丸パクリ」することにする。

ベンジャミン・フランクリン、鈴木正三、ドストエフスキー、フランクルらの言葉の中に人類にとっての「労働の価値」の歴史を読み取ることができる。

(『日本の論点』編集部の皆様、皆様の努力の賜物の文章を拙ブログに無断拝借してどうもすいません。
私は既に購入済みだが、『日本の論点 2010』は、定価2900円でかなりの情報量を含んでおり、おトクだと思う。
さらなる購入を検討して下さる方が増えることを望みます。)


[基礎知識] 人の労働観は時代によってどう変わったか?


『日本の論点 2010』データファイル2(52p-53p)より

■麻生首相の「労働は罰だ」発言

2008年12月、麻生太郎首相(当時)は、熊本県天草市内のホテルで講演を行い、
「世界中、労働は罰だと思っている国のほうが多い。旧約聖書では神がアダムに与えた罰は労働。旧約聖書、キリスト教、イスラム教、足したら世界の何割だ。七割くらいの宗教の哲学は、労働は罰だ。日本では神々が働いていたから労働は善だ」

などと述べて、キリスト教関係者の反発を買った。

たしかに、旧約聖書の創世記には、人類の始祖であるアダムは主なる神が禁じていた「善悪を知る知恵の木」の実を食べてしまい、背信の罰として労働が与えられたと記されている。だが、創世記は、労働を否定的に捉えているわけではない。第二章には、天地創造時の荒廃した土地を耕してその実を神に返すなど労働の喜びや目的が明記されている。

さらに新約聖書では、信徒が怠惰な生活をしないように戒めている。キリストの弟子パウロは、使徒に宛てた「テサロニケ人への第二の手紙」で、「働きたくないものは、食べてはならない」という有名な警句を書いた。信仰という霊的な精神活動を重視するあまりに、食物を獲得したりする労働という世俗的な活動を軽視してはならない、と戒めたのだ。

労働を喜ばしいものだとする教えは、キリスト教の倫理に大きな影響を与え、やがて欧米の労働倫理の礎になっていく。ことにプロテスタントでは、勤勉を旨とした労働観が形成された。米国の独立宣言や憲法の起草に加わったベンジャミン・フランクリンは、『フランクリン自伝』や『貧しいリチャードの暦』で、英国から米国に移住した清教徒たちの勤勉で禁欲的な暮らし方を綴った。彼らは平日、脇目もふらずに荒野を耕して農園と町をつくり、休日になると神に祈りを捧げていた。フランクリンは、その厳しい生活に耐えて成功するための処世訓を数多く残し、「時間をむだにしないこと。有益な仕事につねに従事すること。必要のない行為はすべて切り捨てること」などと記した。

■「良い仕事」と「悪い仕事」

18 世紀半ばから始まった産業革命が、それまでの仕事観を大きく変えた。機械の進出が職人の「天職」を奪ったからだ。産業革命以前は、すべての職業が神の召命で、勤勉な労働が魂の救済につながると考えられていた。だが、機械に合わせて働く工場労働が広まると、人間が労働から疎外されるという問題が発生し、従来の「天職思想」に疑問が投げかけられるようになったのだ。19世紀半ばからは、「すべての仕事が天職である」という考え方は間違っているのではないか、という議論が盛んに交わされる。

英国の詩人で工芸家のウィリアム・モリスは、小冊子『有用な仕事と無用な労苦』で仕事には「良い仕事」と「悪い仕事」の二種類があると述べた。前者には「休息という希望」「生産物という希望」「仕事自体の楽しさ」がある一方、後者にはそれらの要素がないと指摘した。産業社会における仕事は、労苦にすぎず奴隷のような辛さしかない「悪い仕事」だと主張したのである。

20世紀になると、高度に発達した産業文明への批判が高まり、「人間中心」の労働観に関心が集まる。英国で活躍したドイツの経済学者E・F・シューマッハーは、「人間中心の経済学」を説き、「良い仕事」を「意義のある仕事」と捉え直した。良い仕事には、「生活の必要性」「自己の充実」「他者とのつながり」があると述べた。

■日本人の職業倫理

日本人は、欧米人に比べて昔から勤勉だったといわれてきたが、本当にそうなのか。

明治初期に来日した外国人の滞在記には、「日本人は実直で礼儀正しい」「公衆道徳をよく守る」という記述は目立つが、かならずしも勤勉だったわけではなさそうだ。1877年(明治10年)に明治政府から東京大学教授に招聘され、大森貝塚を発掘した米国の動物学者エドワード・S・モースは、当時の日本人を〈自分たち外国人は、この国の人々が何をやるにしてもゆっくりしているので、ときどき辛抱しきれなくなるが、しかし、彼らはいかにも気立てがよく、ものやさしいから、あまり怒る気になれなくなる〉(『日本その日その日』東洋文庫)と記している。産業革命をむかえ、工場労働者が大量に発生していた米国から来日したモースの目には、日本人は勤勉とはほど遠い存在に見えたのだろう。

だが、モースが帰国した後、日本は近代産業を育成し、富国強兵政策を大々的に推進するようになった。学校教育でも勤勉が推奨され、国定教科書には働きながら勉学に勤しむ二宮尊徳(金次郎)が登場した。

日本人は、列強との戦争に勝ち抜くために、欧米流の「勤勉」を採り入れたことは否めない。とはいえ、武士には「武士道」があったように、身分制度が確立した江戸時代にも、職業ごとの確固たる倫理観はあった。江戸初期、僧侶の鈴木正三は『万民徳用』を著し、それぞれの身分に応じた職業倫理を論じた。ここでも宗教が職業観の支柱になった。鈴木は、士農工商の身分格差を職分としては平等と捉え、職分を単なる金儲けのための手段ではなく、それぞれの職に励むことこそが仏道修行になると説いたのである。

鈴木の「職分思想」は、その後、不正によって金儲けしても子孫が滅びてしまうなどと商人道を説いた石田梅岩や、前述の江戸後期に活躍した二宮尊徳にも継承されていった。独学で「論語」などを学んだ二宮は、農耕をしながら独自の農法を編み出して農村改革に当たり、私利私欲に走らず社会に貢献すれば、いずれは自らに還元されるという「報徳思想」を説いた。鈴木の「職分思想」と同様に、自己中心主義を戒める点は、キリスト教徒たちの「天職思想」と共通していた。

■「働く意味」とは

慶応義塾の創始者、福沢諭吉は『学問のすゝめ』(岩波文庫)で、古人は額に汗して働けと言ったが、ただ衣食住を満足させるだけの労働は虫でもやっていること、それで満足する人は虫けらにも劣る、と説いている。

人間の労働には「意味」が必要だ。掘った穴を再び埋めるなど、同じ作業を延々とくり返すような「達成感」のない仕事は、人間にとって拷問同然となる。ドストエフスキーの『死の家の記録』(新潮文庫)によれば、シベリアの収容所でいちばん耐えられない仕打ちは、そのような無意味な作業だったという。

ナチの強制収容所での経験を『夜と霧』(みすず書房)で描いた精神科医のV・E・フランクルも、同様のことを言っている。収容所の苛酷な労働環境に耐え、生き延びることができたのは、屈強な身体を持った者たちではなく、「生きる意味」を持ち続けていた者だった、と。

(以上)

拙ブログの過去記事でBIについて触れたものーベーシック・インカムについて④

2010年02月24日 | 労働・福祉
ベーシック・インカムについては、拙ブログでも過去、時々触れたことがあるが、内容はかなり貧弱です、御容赦を。

フーコーの「負の所得税」への危惧は、BI批判にも使えそう。

年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅠ 2009年12月30日

という記事では、私がミシェル・フーコーの『生政治の誕生』という本を読んでいる時、フーコーがフリードマンらの「負の所得税」について論じているところを読んで、この議論は「ベーシック・インカム」にもあてはまりそうだな、と思った。

「負の所得税」も「ベーシック・インカム」も、「結果としての貧困」にのみ、手当てを行う。その結果、「貧困の原因」に対するきめ細やかな考察がおろそかになる。

>たとえば「給付金付き税額控除」では、高所得者と低所得者がはっきりと線引きされてしまう。そこでは低所得者がどんな理由で貧困に陥ってしまうのか、その背景を政府が知る必要はない。統計的に人口の何人かが、最低ラインに落ちて死んでしまわないように調整するのが政府の仕事。個人の事情なんて知らない。フーコーの言う「新自由主義的統治術」の一環としての「負の所得税」の考え方というのが、「給付金付き税額控除」にも幾分かは適用できそう。そういえば、ベーシック・インカムの考え方も、これとどこか似たところがあるしなー。

…『生政治の誕生』(252p-253p)…

…負の所得税は、貧困のしかじかの原因を変容させることを目標とするような行動たろうとしているのでは決してないということです。負の所得税は、決して貧困の原因のレヴェルにおいてではなく、ただ単にその諸効果のレヴェルにおいてのみ作用するであろうということ。・・したがって、極端な言い方をするなら、よい貧者と悪い貧者、意図的に労働しない人々と意図的ならざる理由によって労働しない人々とのあいだに、西欧の統治性がかくも長いあいだ打ち立てようとしてきたあの区別など、重要ではないということです。…

You tubeで首相から失業者対策メッセージを-湯浅誠氏の提案 2009年12月24日

での以下の私の呟きは、ベーシック・インカムが政治的合意を得るのが難しいだろう、ということに関係している。

>たとえば、湯浅誠氏が言うように、派遣村に集まる人たちの「いい加減なところ」「性格的に、うっとうしいところ」をテレビで放映してしまったとしたら、日本全国で非難ゴウゴウの嵐が吹き荒れることはほぼ間違いがない。仮想的に、将来ベーシック・インカムを受給している奴らが、サーフィンをして「チャラチャラ」遊んでいる光景がテレビの画面に映し出されたりしたら、多くの人がどのように感じるかを想像してみればよい。

しかし、ベーシック・インカムがもたらす「ライフスタイルの多様性」というイメージには、私も魅力を感じている。

>しかし長期的には私も、日本がライフスタイルの多様性が認められる方向に行ってほしいし、フランスほどではないにしても「社会的連帯」というものがもう少し強くなってほしいと願っている。

「安息日」にも「労働」と同等の価値を認めよ。

安息日のためのベーシック・インカム 2009年12月13日

では、『思想地図』上の田村哲樹氏の論文を読んだことに触発されて、「安息日のためのベーシック・インカム」という発想はないのかなー、と空想していた。「労働」に価値があるのは良いのだが、今の日本のように、(給与を伴う)「労働にだけ」価値があり、それ以外にはない、という社会は息苦しいと思うのである。

>自分の生活のためにあくせくする、という努力以外の「ゆったりとした時間」が人間には必要なのだ、という考え方で両者は一致している。「民主主義のためのベーッシック・インカム」という考え方は、経済より大事なものがある、それが「政治」だ、という考え方。極端に分類すれば、古代ギリシャの理想。他方、「安息日のためのベーッシック・インカム」という考え方は、経済より大事なものがある、それは「宗教」だ、という考え方。言ってみれば古代ヘブライの理想。

宮本太郎『生活保障』-ちょっと難しすぎるという人のために 2009年12月08日

では、岩波新書の『生活保障』を書いた宮本太郎氏も、「アクティベーション」「ワークフェア」型の社会保障を支持しており、「ベーシック・インカム」派とは距離を置いていることを紹介している。

(宮本太郎氏の発言)>であるからこそ、雇用をよりしっかりしたものにしようと言っていくことも必要ですが、他方ではセーフティーネットのあり方そのものを変えていかなければいけない。安定した雇用を前提にした代替型から、十分でない賃金を様々なかたちで補完していく補完型への転換です。ベーシックインカムとまではいかなくても、給付付き税額控除とか負の所得税とか社会手当とか、いろいろ方法はあると思います。また社会保険の再設計も必要です。

『EU労働法政策雑記帳』よりーベーシック・インカムについて③

2010年02月24日 | 労働・福祉
『EU雑記帳』より -「ネオリベとBIとの共犯関係」- 労働中心ではない連帯は可能なのか? - BIが言う普遍的って一体どこまで普遍的なのか・・・「同胞意識とBI」


濱口桂一郎氏のブログ『EU労働法政策雑記帳』から、ベーシック・インカムについて触れている記事をいくつか取り出しておこう。

前記事に書いたように、『日本の論点』所収の論文を読むことにより、どうやら濱口氏が「ネオリベとBIの共犯関係」に警戒心を抱いているらしいことがわかった。

ベーシックインカムと失業 2006年9月15日

では2006年の段階で既に、「もろ福祉原理主義的な、あるいはネオリベ的なBI論には違和感を禁じ得ない」という言葉が見られる。

『週刊金曜日』のベーシックインカム礼賛 2009年3月6日

でも、「ベーシックインカムという発想こそが、新自由主義と親和的なんじゃないのか?という反省はないのですかね。」という言葉があり、ベーシック・インカムを礼賛する『週刊金曜日』が、自分達の主張がミルトン・フリードマンらのネオリベ的な思潮と親和性があることに気づいていないというその鈍感さを批判している。

「金曜日な皆様は、法人税廃止、公的年金廃止、職業免許廃止、教育バウチャーとか主張するたぐいのとってもフリードマンな人と共闘するつもりか知らん。」

労働中心ではない連帯? 2007年11月20日

では、『日本の論点 2010』で濱口氏と共に、ベーシック・インカムに関する論文を執筆していた田村哲樹氏の別の文章が紹介され、それに対する濱口氏の立場が述べられている。

田村哲樹氏の「『労働』を連帯の旗印に掲げるのことは、むしろ、分断と排除をもたらしかねないのである。」という言葉に対し、濱口氏は、「労働による社会参加を軸とした連帯しかないだろう」と反論している。

(濱口氏)「私はここは断固として否定したい。フルタイム男性労働者をモデルとした連帯がもはや通用しがたいというのはその通りでしょう。しかし、様々な働き方の中に、働いて社会に参加しているという共通性を連帯の中核として確立することが不可能とは思えない。というか、それを捨ててはほかに連帯の核となるものはないと思います。」

ナショナリティにも労働にも立脚しない普遍的な福祉なんてあるのか 2008年3月17日

には、私には不明瞭と思われた、『日本の論点 2010』の論文にあった「血の論理」と「ベーシック・インカム」の関係について、参考になりそうな箇所があった。

(濱口氏)「ベーシックインカムを軽々しく持ち出す人々に対して、私がどうしても拭いきれない疑問は、それが究極的には「同胞」意識にしか立脚できないにもかかわらず、なんだかそれを離れた空中楼閣の如きものとしてそれを描き出している点です。日本人だけでなく、地球人類すべてに等しくベーシックインカムを保障するつもりがあるのかどうか(誰が?)、そのための負担を、そう「高負担」を背負うつもりがあるのか、そこまで言わないと、ナショナリティを排除したなんて軽々しく言わないで欲しいのです。」

なるほど、ベーシック・インカムが、現実には「同胞」意識など乗り越えていないのにもかかわらず、なんとなく「全部、乗り越えた」的な、いつものように左翼的な「上から目線」で物を語るあの感じがオカシイ、ということだろうか。

(濱口氏)「私は、福祉の根拠としてナショナリティを否定することはできないと思っていますが、しかしそれを過度に強調することは望ましくないと思っています。だから、労働を根拠に据える必要性があるのです。様々な事情に基づいて「いったん労働市場から退出することの保障」も含めたものとして、しかしながら永続的に労働市場の外部に居続けることを保障することのないものとして。」


「ツベコベ言わずに働け!」と「自由と不自由」の複雑な絡み合いについて。


最後に、『EU労働法政策雑記帳』の希望の社会保障改革 2009年3月2日より。

ここには、駒村康平+菊池馨実 編『希望の社会保障改革』という本からの、大変興味深い、ベーシック・インカム論の引用がある。

ベーシック・インカムは一見「自由」をもたらすように見えて、実は「不自由」をもたらすことになるのではないか、という危惧である。

我々の生きる社会で、「働くこと」は半ば強制的なものとなっており、そこで「なんで働かなくちゃいけないの?」という子どもっぽい問いを立てることはほぼ禁止されている。「ツベコベ言わずに働け!」と。

しかし、そのような「有無を言わさぬ力」が、決して「自由」を生み出すことがない、とまでは言えないと私は思う。人間の世界はそんな単純なものではない。何とかかんとか自分を「ごまかして」、「労働」に必死についていく、その中で「自由らしきもの」が生まれる可能性もあるのであり、「ベーシック・インカム」論には、そのような「自由と不自由の複雑な絡み合い」に対する深い観察が抜け落ちているように私は感じることがある。

そのような視点でみると、以下のようなBI批判が貴重である。あくまで「ディーセントな労働の保障」こそを目指すべきなのだ、と。今のところ、私はこれに賛成だ。

(『希望の社会保障改革』よりの引用)「しかし、ベーシック・インカムに対するもっとも強い違和感は、ベーシック・インカムにより、人々は「真に自由」になり、「やりたい仕事」をするようになるという理想的な労働観、すなわち、自分自身の適性や「やりたい仕事」を人々ははじめから知っているという前提である。しかし、逆にベーシック・インカムにより、人は、さまざまな職業を経験する機会がなくなるのではないか。さまざまな職業との出会いと挫折、技能の蓄積・修練に伴うさまざまな試練の意義について、ベーシック・インカムを支持する論者は、楽観的な労働者像をもっているのではないか。むしろ我々は、ディーセントな労働の保障により、人々が社会と関わり、さまざまな経験をすることにより、社会連帯が強くなると考えている。」

田村哲樹 vs 濱口桂一郎 in 『日本の論点 2010』-ベーシック・インカムについて②

2010年02月23日 | 労働・福祉
『日本の論点 2010』にもついに「ベーシック・インカム」が論点として取り上げられた。

ベーシック・インカムを巡る田村哲樹氏と濱口桂一郎氏の論文を紹介しておく。

田村氏はBI賛成派で、濱口氏はBI反対派である。

両論文に対する私の感想は、田村氏の論文は最初の現状認識が正しいと思うが結論についてはよくわからない、濱口氏の論文は最初の「労働の価値」を認めるのには共感するが、最後のBI「血の論理」批判はおかしい、というものである。


若者たち・貧困者たちが置かれている現況ー「濁流」の比喩


田村哲樹氏の論文は、題名の『ベーシック・インカムは流動化社会で生きていくための「足場」となる』ーこれがほぼ内容を要約している。

田村氏によると、現代の社会は、社会学者ジグムント・バウマンが指摘する「流動化」社会である。

それを田村氏は「濁流」という比喩で説明している。

この「濁流」という比喩は、私の実感にも符合する。

(個人的には、13年ほど前から、日本の「地面は液状化している」という感じがずっとしている。)


>私たちは、流動化=濁流のなかで頑張らねばならないと思っている。しかし、頑張るためには、しっかりした「足場」が必要なのである。

>ここで流動化する時代の「足場」として注目したいのが、ベーシック・インカム(以下BI)である。(田村哲樹氏)


現代の「濁流」の中で何か「足場」が欲しい、というのは痛切にわかる。
しかしその「足場」は必ずベーシック・インカムでなければならないのだろうか。


>BIの最大の特徴は、無条件での給付という点にある。

>この無条件という特徴が、流動化する社会で頑張るための、誰にも共通する足場となる。逆に、条件付きの給付や特定の人々を対象とした給付は、安心できる足場としては不十分なのである。(田村氏)


私にとって興味深いのは、『日本の論点 2010』の他の論文で、本田由紀氏が『「就活」という名の濁流に沈む若者たち』という文章を書いており、そこでも若者たちが置かれている現況を名指すのに「濁流」という比喩が使われていることである。

「処方箋として何が正しいか」までは合意できないとしても、複数の論者に「濁流」いう現実認識が共有されていることこそが重要だと思う。


「労働」による「社会参加」を軸としない「連帯」が可能なのか?


次に、濱口桂一郎氏の論文「失業者と非労働者を区別しないベーシック・インカム論の落とし穴」について。

現在、貧困や「社会的排除」という問題に対する対策として、大きく分けて①労働を通じた社会参加によって社会に包摂していく「ワークフェア」戦略と、②万人に一律の給付を与える「ベーシック・インカム」戦略が唱えられているという。

濱口氏の論文は、①の「ワークフェア」の立場から、②「ベーシック・インカム」の立場を批判するものだ。

濱口氏は、そもそも「労働の価値」を抜きにした「社会連帯」は有り得ない、と考えているようだ。私は、それに同意する。

ベーシック・インカムは、給付を受ける者に対し、基本的に「労働への意欲」の有る無しを問わない。

しかし濱口氏にとっては明らかなことだが、「働く気のない人」と「働けない人」とは同じではない。

今、各種の社会保障が機能不全になっているということは、それだけでBI支持の根拠にはならないということ。

濱口氏は、「働く気のない人」と「働けない人」を選別せずに一定の給付を与えるベーシック・インカムは、意外と「ネオリベラリズム」と親和性が高いことにも警鐘を鳴らす。


>失業給付制度が不備であるためにそこからこぼれ落ちるものが発生しているという批判は、その制度を改善すべきという議論の根拠にはなり得ても、BI論の論拠にはなり得ない。(濱口氏)

>BI論は(…)働く意欲がありながら働く機会が得られない非自発的失業の存在を否定し、失業者はすべて自発的に失業しているのだとみなすネオリベラリズムと結果的に極めて接近する。


濱口氏の意見に私も賛成だ。(詳しく言えば、濱口氏が労働の価値を認めて「社会参加」を重視していることに賛成、制度改変に際してピース・ミール・アプローチを取っていることに賛成、ただ、私は「ネオリベラリズム」(≒市場主義)が全てダメだとは思っていない。)

人類はこれまで、「働くことはいいことだ」という価値観のもとに、「ダメな人」も「ダメじゃない人」もひっくるめて、なんとか「包摂性」を維持しながらやってきた。ベーシック・インカムは「労働に価値がある」という価値観からの解放を目指している。あるいはその価値観を前提としない制度設計を目指しているようだ。そのような労働の「脱構築」が果たして可能なのか。あるいは可能だとしても、それがほんとに人間にとって「いいこと」なのか。

私はまた、ベーシック・インカムにより、「社会的排除」が固定化されないかという懸念をもっている。例えば、ホリエモンさんが「無駄な社員は会社に来ないほうがよい」ということを理由の一つとしてベーシック・インカムに賛成していたことがあった。これまでの社会は、そういうところを何とか「ごまかして」やってきたように思うのだが、それではいけなかったのだろうか。「無能な人はすっこんでて下さい」と、そんな身も蓋もないことを言って「共同体の維持」など他の側面への負の影響はないのだろうか、と、その辺りに心配がある。

さらに濱口氏は、BI支持論者の山崎元氏や堀江貴文氏のブログから批判的に引用し、


>人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかもしれないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。


と書いている。
末尾の文章は、やや感情的な批判になっているように思う。
「障害者」の雇用に対し、ホリエモンさんが、あるいはBI支持者側が、どういう態度を取るのかはまだ明確ではないと思うからだ。


BI支持者を「ナチス」呼ばわりするのは、今のところ、適切ではない。


この論文の最後のほうで濱口氏が、『BIの根拠が「血の論理」になりかねない』と批判する箇所は、アレ? ちょっと筆が滑ったのかな? と思って困惑した。


>最後に、BI論が労働中心主義を排除することによって、無意識的に「“血”のナショナリズム」を増幅させる危険性を指摘しておきたい。


いきなり持ち出される「“血”のナショナリズム」という言葉は、ここでBIを批判するものとしてはオドロオドロしすぎるようだ。

なぜなら『BIの根拠が「血の論理」になりかねない』という批判の仕方は、まるで「BIの思想はナチスだ!」と非難しているように見えるからだ。
今のところ、BIは、それほど強い言葉で非難するべき「危険思想」にはなっていないと私は思う。

濱口氏が認めるように、日本人にだけ給付する、という論理が「血の論理」だと言うのなら、他の社会保障制度でも同じことである。
また、BI側も、たとえば「世界連邦」を作って全人類にベーシック・インカムを給付するという方向を目指すと言うのなら、「血の論理」は(理論的には)超えられてしまう。

おそらくここで問題になっているのは、「BI制度を日本だけに導入することで、外国や、日本国内の外国人労働者に悪い経済的影響を与えないだろうか?」ということなのだろう、と思う。これも気になるポイントの一つである。

まとめると、田村氏の論文も濱口氏の論文も、私は途中までは大体賛成だが、最後のところで保留する、ということになる。田村氏の「濁流」という現状認識と、濱口氏の「労働」による「社会参加」は重要、というところが一番大事だと思う。

BIに対しては、バランスの取れた、さらなる批判が必要だと思った。

拙ツイッターでのちょっとした議論ーベーシック・インカムについて①

2010年02月23日 | 労働・福祉
ニコニコ動画で「ベーシック・インカム」が論じられる日が来てしまった。(見た人,これから見るであろう人―4万人くらい?)


先日、東浩紀・司会の「ニコニコ動画」番組、「朝までニコニコ生激論」ーテーマ『ベーシック・インカム(キリッ』2010年2月20日(土)24時30分~(約3時間)を見て、ベーシック・インカム(BI)批判派・懐疑派であるこの私も、かなりの刺激を受けました。

(この番組の内容の大雑把な紹介は、「ベーシックインカムについて⑥」で行っています。)


ツイッターでBI支持派の人たちとやりとりをしたことがある。


そういえば拙ツイッター上でも、過去にBI支持派の人たちにいくつか質問したことがあるので、その様子をここに再録しておきます。

@NIHhiroさん
に対して、例えば私は次のようなことを呟きます。

>BIの発想は面白いけど、アクティベーションとかメイク・ワーク・ペイみたいな「働くこと」と結びつける政策じゃないと、みんな納得しないよ。#BI(2010年1月25日)

>フィッツパトリックという学者の本にあった例だけど、たとえばベーシック・インカムもらって「サーフィンを楽しむ若者」を目の当たりにしたら、日本人の多くは怒ると思うけどね。だから政治的合意までには至らない。#BI(2010年1月25日)


これに対し、@NIHhiroさんからは次のような返答を頂きました。


@NIHhiro>日本の問題を改善するには、ベーシックインカムが一番良い。みんなそう考えるはずです。ベーシックインカムより良い案があるなら、それでも良いですが、今のとこBIが一番でしょう。

@NIHhiro>年金や生活保護、日銀などの問題を改善するのは難しいと思います。それならベーシックインカムにした方が簡単なのではと思います。

@NIHhiro>国民も、定額給付金や子供手当てを受け入れているようですし、新党日本の様に、ベーシックインカムを推進する政党もあります。これらの話をつなげて行くと、ベーシックインカムにたどり着くのでは?と思います。

@NIHhiro>BIなら最低限、飢え死にすることはありませんが。今の資本主義だと、最低ラインは死です。

@NIHhiro>どうやら、やさしいベーシック・インカム、ベーシック・インカム入門などの本を読むと、生活保護も問題点の多い制度のようです。生活保護の問題解決の為にも、ベーシックインカムが必要な流れのようです。


私はこれらの返答を頂いてもなかなか納得できず、


>私の経験だと、ベーシックインカムのことを知ったら、今ある社会保障制度のなかで、雇用保険と生活保護とのあいだにある、バカーッと開いている大きな穴に気づきやすくなりました。この穴を埋める作業が必要だと思います。(2010年1月25日)

>財政理論的にはOKだとしても、「働かざる者」への視線って、そう簡単に変えられるものではないと思います。(2010年1月26日)

>「参加」を軸にしないと、社会から排除された人がそのまま、という状況が多くなりそうです。BIの危険性はそこ。(2010年1月26日)

>わたしが問題かなと思ってるのは、BIの制度だと、「働く能力のない奴はすっこんでろ」という社会的排除が、恒久化されてしまういう危険性です。

>私はこわれかけた制度の綻びを修繕していくほうが現実的かと思いまして。たしかに、例えば相続税100%にしてバーンと資産課税して、国民全員に7万円配ったら、ほとんどのことが解決しそうです。経済成長も可能。でも、それ政治的には無理でしょ? 革命?

>私も最近会社をクビになり資本主義の恐怖は身にしみます。でも、今の制度の問題は、失業保険と生活保護との間に大きなクレヴァス(裂け目)があることだと思います。「餓死」の危険は、本来生活保護制度が防ぐべきものです。BIでなくても可能です。

>ベーシック・インカムは現在の自分、また5年後10年後の日本のことを考えるときは現実の導入の可能性はほぼゼロだろう。でも20年後、30年後だったら可能性あるかも。将来世代のための議論。(2010年1月27日)

>ベーシックインカムだと各人に「居場所と出番」を作らなくても社会が回せるようになる。その方向はおかしい気がする。(2010年1月29日)


などと呟いています。


@kirghisiaさんからはオランダのワークシェアリングの You tube 映像などを教えて頂きました。

@kirghisia>ビジネスはゲームだとするならば すべての時間をゲームに捧げる必要なんか あるはずがない (2010年1月29日)

(に対し私が)>ビジネスはゲームでもあるし人生でもある。人生は人生だが、しかしゲーム的なところもある。両方ある。BIに関心を持つ人は、社会の動機付けの単一化に苛立っているのか。

@kirghisia>時間が半分とか1/3でもいいのではってことですよw

(私)>オランダのワークシェアリングの映像紹介ありがとうございます。おもしろかったです。 (2010年1月30日)

>しかし日本ではサービス残業を減らす、職務(job)を明確化する、これさえまだできていないんですから。ワークシェアリングにはまだ遠い。大久保幸夫『日本の雇用』(講談社現代新書)参考。(2010年1月30日)


生活保護と雇用保険のスキマ、社会保障の機能不全について


@takaroさんらとのやりとり。


@toyokawah>生活保護の方がよほど働く意欲をそぎますからね #bijp(2010年2月13日)

@takaro>まったくです。あんな欠陥だらけの施策も珍しい。バグしか無い。

(に対し私が)>BI批判派です。だから雇用保険と生活保護の「あいだ」を埋める努力が必要なんですっ。ヽ(`Д´)ノ


と、批判の呟きを入れると、


@takaro>でも複雑なシステム程バグは潜むんですよね。

@rassvet>状態に応じて別個の救済システムを作ったのが、そもそもの問題なんですよ。

@hisuix
>雇用保険も欠陥だらけ。欠陥品と欠陥品の間を埋めても、やっぱり欠陥品だと思う。


懲りずに私が、


>BIに対するもう一つの疑問、社会的排除が固定化されるのでは? という懸念に対してはどのような議論をされていますか? 例:ホリエモンさんの「無駄な社員は会社に来ない方がいい」 (2010年2月13日)


と質問すると、これにもちゃんと返答があり、


@toyokawah>それは普通に正しいと思います。無駄な社員を簡単に切れないのが日本の大きな問題です。切れないから雇えないのです

@takaro>無駄な会社は社員に干されて潰れる方が良い。対等な労使関係になるのでは? と。

@yumoruta>対等な労使関係とするためには、BIで労働権や社会保障を置き換えてはならないということかと思います。 RT @takaro: でも逆も言えて、無駄な会社は社員に干されて潰れる方が良い。対等な労使関係になるのでは? と。

など。

丁寧に返答して下さった方有難うございました。
BI支持派の人たち、頭の回転が速くて、けっこう親切な人が多い模様。