正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

正しい認識で、身の供養と財の供養を

2005-11-21 | 手引書⑧

 「供養」とは供給資養の義であり、供給・供施・供ともいいます。諸物を仏法僧の三宝・父母・師長・死者などに供給する大切なことです。
 日蓮正宗における「供養」の意義は、下種三宝様である御本尊様と日蓮大聖人、日興上人已来の歴代上人に対する報恩感謝の気持ちで供養することが大事です。
 その反対に、これだけ御本尊様に供養したからという慢心や報恩感謝の欠片のない気持ちには、供養の意味がありません。形式だけであり、御供養におけるところの本当の功徳を頂くことが出来ません。過去にこれだけ供養したからという慢心や醜い執着は成仏の妨げになります。供養に対する微妙な気持ち・志しが大きく影響してきますので、供養はいい加減な気持ちで行わないことです。逆に仏罰を被り三悪道の命が強盛となって悪縁に紛動されやすくなります。正しく「持ち難い」仏法であり、御供養に対し、ちょっとした気持ちの違いで御本尊様から頂く功徳に天地雲泥の違いが生まれます。この事を認識し、真心からの御供養に勤めることが必要です。
 「供養」の種類には、二種供養である財供養(飲食・香華などの財物を供養すること)と法供養(仏の所説の如く法を弘め衆生を利益すること)があり、三業供養という身業供養・口業供養・意業供養があります。更に、三種供養といわれる利養供養(香華・飲食をたてまつること)・恭敬供養(仏および法を賛嘆・恭敬すること)・行供養(妙法を受持し、修行すること)があり、それぞれを財供養・法供養・観行供養ともいいます。
 次に事供養・理供養があり、事供養が物を惜しみ、むさぼる事実を破すために財物や時には身体・命までをも捨てる行為をいいます。理供養が慳貪の心そのものを破すために理法の方面を仏道に捨てること、即ち悟りを求める心を起こし、観心の行法に励む等を理供養といいます。この他に四種・五種・十種などの供養があります。
 「身の供養」とは、所作仏事であり、寺院の掃除や、御本尊様在す自宅にある御仏壇の掃除をすることです。掃除をすることで「六根清浄」を得る功徳に繋がります。御本尊様への御給仕に当たる掃除は、「六根清浄」の功徳を得る一番の修行です。 
 日蓮大聖人の教えを弘める折伏などの「身の供養」は、身口意の三業を調えて行じることが大事です。「身の供養」をすることで、同時に口業と意業の供養に繋がり、過去世の宿業を転換することが出来ます。「身の供養」を行うことで、仏様の振る舞いに近づいていきます。「身の供養」を心がける要素には、九思一言や防非止悪、禅定という気持ちの落ち着きが大切になります。
 「財の供養」とは、我慢偏執を完全に払拭させた、真心から金銭などを御本尊様に供養することです。邪宗教は「財の供養」を利用し、金儲けの手段にします。これは餓鬼界の生命であり食法餓鬼です。『四条金吾殿御書』に、
 「食法(じきほう)がきと申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり」(御書469)
と食法餓鬼について仰せです。「財の供養」で身に付く徳は、少欲知足という無駄を省き、節約する気持ちが養われます。生活設計が上手になり、上手になるということは生活が安穏になるということになります。「財の供養」により我此土安穏な境界となるのです。
 身の供養も財の供養も、自ら進んで御本尊様のためにさせて頂く気持ちが大事です。そこに有り難い御本尊様から頂く「六根清浄」の功徳が光り輝くのであります。