正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

三大秘法の御本尊様とは

2005-11-21 | 手引書③

 三大秘法の御本尊様とは、インドの釈尊から、日蓮大聖人が外用の上行菩薩として受けられた秘伝の御本尊様です。法華経に付嘱された様子が説かれています。
 この御本尊様は、日蓮正宗にしか伝わっていません。それが総本山大石寺に在す本門戒壇の大御本尊様です。本門戒壇の大御本尊様のお写しされた御本尊様が、寺院に御安置され、各家庭に御安置される紙幅の曼荼羅御本尊様がそうです。
 心臓となる本門戒壇の大御本尊様から血液が流れてくる如く、寺院にある御本尊様も各家庭の御本尊様も、本門戒壇の大御本尊様を忘れているならば、綺麗な血液は一切流れてきません。総本山大石寺に在す本門戒壇の大御本尊様は心臓であり、御山へ登山しないで家庭に御安置された御本尊様だけに御題目をあげることは心臓からの綺麗な血液が流れてきません。これを「血脈(けちみゃく)」といいます。 『本因妙抄』に、
 「本尊七箇の口伝は、七面の決に之を表す。教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり。又此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」(御書1684)
と仰せのように、本門戒壇の大御本尊様と唯授一人の血脈相承である歴代の御法主上人猊下に信伏随従しなければ、綺麗な血液が流れてきません。血液が流れてこないということは、功徳が流れてこないことです。日蓮正宗の信心は筋が通っていなければいけないのであります。それだけに「難信難解」な法門です。信心をしていて功徳が出ないという人は、以上の点を再確認する必要があります。
 御本尊様を三大秘法といいまして、私達が成仏するために必要不可欠な戒定慧の三学が全て具わっています。それが定である「本門の本尊」、戒である「本門の戒壇」、慧である「本門の題目」です。この世で最高の三大秘法が、総本山大石寺に在す本門戒壇の大御本尊様です。
 この戒定慧の三学がなければ私達は成仏できませんし、更に御先祖様も成仏させることが出来ません。日蓮正宗以外の宗派は、この戒定慧の三学が不完全であります。不完全であるために人々を誑惑する怪しげで神秘的な教義で宗派の身を固め、更に檀家を手放さないよう邪智を奮っているのが現実です。
 他宗で葬式をあげ残された遺族だけが、故人を成仏させたという満足感に浸り、この世を最後にした故人には、残された遺族が知るすべもない正法誹謗という業を背負い、地獄の苦しみを体験するのであります。その果報は仏様が定められたのであり、日蓮大聖人が釈尊から付嘱を受けられ、私達に詳しく御指南されております。 
 末法の御本尊について『日女御前御返事』に、
 「末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはたじるし(旗印)として顕はし奉るなり。是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中(たほうたっちゅう)の大牟尼世尊(だいむにせそん)・分身(ふんじん)の諸仏のすりかたぎ(摺形木)たる本尊なり。されば首題の五字は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化(ほんげ)の四菩薩肩を並べ、普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)等、舎利弗(しゃりほつ)・目連(もくれん)等座を屈し、( 中 略 )妙法五字の光明(こうみょう)にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。是を本尊とは申すなり」(御書1387)
と末法の正しい御本尊様を御教示下されております。本門戒壇の大御本尊様と唯授一人の血脈を信じなければ、寺院の御本尊様や家庭の御本尊様には功徳がありません。この二つの根幹は広宣流布の暁まで変わることはないのであります。


名聞名利と我慢を誡める信心を

2005-11-21 | 手引書③

 『持妙法華問答抄』に、
 「只(ただ)須(すべから)く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこ(幢)をたをし、忿(いか)りの杖をすてゝ偏(ひとえ)に一乗に帰すべし。名聞名利は今生(こんじょう)のかざり、我慢偏執(がまんへんしゅう)は後生のほだ(紲)しなり。嗚呼(ああ)、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」(御書296)
と御指南であります。信心をしていく上で、名聞名利や我慢という慢心は、成仏の妨げとなります。御授戒を受け年数が経過しても信心が未熟な人は、信心の意味を履き違え、名聞名利や我慢を満足させようと御本尊様に御祈念する人がいます。この御祈念は、叶えられません。『持妙法華問答抄』に仰せの如く日蓮大聖人の御指南に違背し、かえって御本尊様から間違っていることを仏罰をもって指摘されます。事前に勤行唱題において誡めることが大事です。
 「名聞名利」とは、名聞が世間に聞える名誉。世間の評判。ほまれという意味があり、名利が名誉と利益ということです。「名聞名利は今生のかざり」と大聖人が仰せでありますように、命終してから来世生まれるところまで持っていくことが出来ません。その証拠に過去世の記憶は全くありません。
 「我慢」とは、世間一般でいう耐え忍ぶという意味ではなく、仏法で説く意味は自分をえらく思い、他を軽んずること。高慢という意味があります。大聖人は「我慢偏執は後生のほだ(紲)しなり」と仰せのように、後の世まで我慢という命と偏った執着心は引きずっていき、私達の「業」となって来世の人格形成に大きく影響してきます。信心の有無に関係なく今世で高慢な人は、過去世に於いて我慢偏執が強かったのでしょう。
 信心をする上では、「名聞名利」や「我慢」を勤行唱題において誡めることです。此等を誡めることで仏因を確実に結んでいきます。「名聞名利」や「我慢」は、気分を大きくし気持ちを豊にする面と作用があります。しかし、度が過ぎると人生においてマイナスになります。この点に気を付ければ煩悩を消滅させる上での特効薬になります。御題目の良薬でプラスとなって善知識となります。
 名聞名利の誡めについて『新池御書』に、
 「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提をたす(助)からんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし」(御書1457)
と仰せのように、名聞名利は仏道に志す「灯火」を消してしまうと仰せです。
 第二祖日興上人も『日興遺誡置文』に、
  「一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は予(よ)が末流に叶ふべからざる事」(御書1884)
と御指南です。名聞名利に執着する人は、日蓮大聖人門下ではないという厳しい御指南をされています。
 我慢については法華経の『勧持品第十三』に、
 「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん」(法華経375)
と説かれているように、特に邪宗の僧侶に我慢が根強いことを釈尊が説かれています。「名聞名利」と「我慢」は、毎日の勤行唱題と毎月の寺院参詣によって心の汚れを洗い流すことが出来ます。


寺院参詣には御念珠を忘れずに

2005-11-21 | 手引書③

 日蓮大聖人は『戒法門』に、
 「勢至菩薩経に云はく『平形の念珠を以(もち)ふる者は此は是外道の弟子なり、我が弟子に非ず。我が遺弟(ゆいてい)は必ず円形の念珠を用ゆべし。次第を超越する者は因果妄語の罪に依って当に地獄に堕すべし』云云。此等の文意を能く能く信ずべし。平たき念珠を持ちて虚事をすれば、三千大千世界の人の食を奪ふ罪なり。其の故は世間の人虚事をする故に、春夏秋冬たがひて世間の飢渇(けかち)是より起こり、人の病これより起こる。是偏(ひとえ)に妄語より始まれるなり。」(御書14)
と御教示であります。世間で蔓延している邪宗で使用する「平形の念珠」は外道の弟子であり、地獄に堕ちると釈尊が説かれた経文を引用され仰せであります。更に人の病や妄語という嘘も「平形の念珠」が悪業をなしています。
 日蓮正宗を信心するには、必ず「円形の念珠」を使用します。「円形の念珠」を使用するのは、私達の心の迷いである煩悩、百八つを珠として列ね、煩悩を菩提という悟りや智慧に転じるのであります。
 邪宗の「平形の念珠」は珠が百八つもなく少ないため、煩悩が心の中に残り成仏できません。そのために釈尊は「平形の念珠」では地獄に堕ちると説かれ、「平形の念珠」を使用しないように説いているのであります。
 寺院に参詣される際には、寺院で開眼供養された円形の御念珠を必ず持参しましょう。総本山第二十六世日寛上人は『六巻抄』の「当家三衣抄」に、
 「土宗の平形は大いに所表に違うなり。一百八箇は即ち百八煩悩を表するなり。数珠は須臾も身を離るべからず。故に『常自随身』と云うなり」(六巻抄225)
と御教示されています。「常自随身(じょうじずいしん)」と仰せのように日蓮正宗の信心では、常に御念珠を身に付けていることが理想であります。更にお守りの作用を成し、様々な悪縁を遠ざけます。そのため「常自随身」が大事です。
 御念珠は、仏様の如く取り扱い、御経本も一字一字が仏様でありますので、丁寧に扱うことが大事です。畳や床に直接置くことの無いよう、袱紗(ふくさ)や御念珠のケースの上に置きましょう。その一つ一つの作法が「所作仏事(しょさぶつじ)」となり、行体布教につながって折伏になり、仏様の振る舞いへと通じていきます。
 勤行唱題の際に、御念珠をしますが「禅定」という落ち着きと冷静さを意識し、体を動かさず不動を持つことが大切です。御念珠をし不動を持つ姿勢に、私達の心の迷いが煩悩即菩提されていき、成仏の境界へとつながります。
 御本尊様を信じるところ御念珠には、「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という働きが具わります。御念珠に四つの小さい珠があります。これは上行菩薩等の四菩薩を現しており、四菩薩が「常楽我浄」を示しています。
 「常楽我浄」とは、仏様の境地や大乗の悟りに具わる四つの徳です。
「常徳」が、仏の境地・涅槃が永遠に不変不改であること。「楽徳」が、無上の安楽のこと。「我徳」が、自我の生命が自由自在で他から何の束縛も受けないこと。「浄徳」が、煩悩の汚れがない清浄な徳をいいます。
 御本尊様に御念珠をして御題目を唱えるところに「常楽我浄」の四徳が自然と具わるのであります。
 寺院参詣の際には、御念珠を必ず持参しましょう。そこに「常楽我浄」という四徳が命に具わります。


法に依って人に依らざれ(依法不依人)

2005-11-21 | 手引書③

 「法に依って人に依らざれ」という「依法不依人」は、釈尊が説かれた涅槃経の文です。日蓮大聖人は『開目抄』に、
 「最後の御遺言に云はく『法に依って人に依らざれ』等云云。不依人等とは、初依・二依・三依・第四依。普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)等の等覚(とうがく)の菩薩、法門を説き給ふとも経を手ににぎらざらんをば用(もち)ゆべからず」(御書558)
と説かれ、更に『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
 「涅槃(ねはん)経に云はく『法に依って人に依らざれ』云云。痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還(かえ)って仏法を滅す」(御書1420)
と仰せであり『頼基陳状』に、
 「誰人か時の代にあをがるヽ人師等をば疑ひ候べき。但し涅槃経に仏最後の御遺言として『法に依って人に依らざれ』と見えて候。人師にあやま(誤)りあらば経に依れと仏は説かれて候。御辺はよもあやま(誤)りましまさじと申され候」(御書1128)
と「依法不依人」について御教示であります。仏法を信じ修行していくには、正しい法に依って、法を無視した人の言葉に依ってはいけないということです。
 日蓮正宗以外は、法の道理を無視し、人師が自分勝手に解釈した教義をもとに成り立っています。釈尊が説かれた経文から逸脱しているのが現実です。折伏では、この経文を依り所とせず、経文と矛盾するところを徹底的に責めることが必要です。不幸の根源は経文から逸脱するところにあります。
 日蓮大聖人は、御在世当時に様々な仏教が氾濫していたことに疑問を持たれ、仏教の原点に戻り、釈尊が説き残された経典である法を頼りに、真実の仏法を求められたのであります。日蓮大聖人はどこまでも御自身の見解ではなく、経文を優先され教えを説かれました。それが「御書」であります。つまり釈尊の純粋な教えに準じています。それが日蓮正宗です。
 世の中の仏教各派は、仏教と称しながら釈尊の真意から外れ、正しい師に付かず独学で仏法を学び、その上で宗旨を立てています。世間の多くの人は、仏法に対し、判釈する正しい知識と物差しがありませんので、疑うことなく素直に有り難がり、御先祖様が崇めてきた宗教を尊び敬っているのが現実です。
 代々御先祖様が敬ってきた仏教の根源を今一度、真剣に考えられ「依法不依人」という仏法の法則に従って、御自分の宗旨を考え直されることを念願いたします。寺請制度によって信仰している部分がその背景にあります。
 仏法という法に依らず、人師である僧侶が我見で立てた仏教では成仏できません。法を無視し我意我見による仏教及び宗教が蔓延するために、平和な世の中にならないのであります。法を無視している何よりの証拠です。
 正しい法に基づく「依法不依人」という教えを説いているのが、日蓮正宗の寺院であります。正しい仏法を実践すれば必ず幸福になります。その正しい法が御本尊様として顕さられ、御題目の南無妙法蓮華経であります。


私達の心の惑い三惑とは

2005-11-21 | 手引書③

 日蓮大聖人は『始聞仏乗義』に、
 「煩悩とは見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑なり」(御書1208)
と仰せのように三惑の名称について御教示です。三惑とは苦果を招き、仏道修行を妨げる三つの煩悩をいいます。三つの惑とは「見思惑(けんじわく)」「塵沙惑(じんじゃわく)」「無明惑(むみょうわく)」です。御本尊様に御題目を唱えるところ心の惑いが消え、気分が良くなります。
 見思惑が見惑と思惑のこと。見惑とは真理に迷う思想上の偏った見解。思惑とは物事を見て起こす本能的・感情的な妄想のこと。
 塵沙惑は菩薩が衆生を教化するために、断じなければならない実際の相に暗い無数の煩悩。
 無明惑が非有非無の理に迷い、中道の障りとなる煩悩のこと。等覚から妙覚に至る最後の無明を元品の無明といいます。
 特に私達は、「見思惑」という心の惑いに、日々悩まされ迷わされることが多いです。人間関係や対人関係も見思惑という、互いの心の惑いが原因です。この見思惑の処理が互いにスムーズに行き、理解し合っておれば円満な関係を保つことが出来ます。信心を素直に実践しておれば、見思惑は適切に御本尊様の力用によって処理されます。信心が優先するか、見思惑に汚染された心(我見)を優先するかで人生が別れます。それにより命の中に善業と悪業が出来て宿業となり、三世という過去・現在・未来に影響していきます。
 『御義口伝』に、
 「所謂南無妙法蓮華経と唱へ奉るは三惑即三徳なり」(御書1802)
と御教示のように、心の惑い三惑は御題目を唱えると三徳に変わります。更に『聖愚問答抄』に、
 「只信ずれば見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑の病を同時に断じて、実報(じっぽう)寂光の台(うてな)にのぼり、本有三身の膚(はだえ)を磨かん事疑ひあるべからず」(御書408)
と仰せであります。御本尊様を信じれば三惑の病を断じ、実報寂光という仏菩薩の境界になることは疑いありません。三惑が原因となり病気が引き起こされることもあります。見惑と思惑という見思惑に因があり、偏った考えや妄想により病気が誘発されます。偏った考えや妄想を信心により改めることで、心と体のバランスが持たれ四大不順を抑えることが出来ます。
 偏った考えは、信心をしていない人から無意識のうちに貰うことがあります。偏った考えが心の中に妄想を引き起こし、更に四大不順を引き起こされ病気に結びつきます。四大不順というところに病魔の手が入り込みます。
 つまり偏った考えを貰わないためにも「折伏」が必要不可欠であります。信心をしている人で、このことに気付いている人は非常に熱心な方です。折伏において、他人の見思惑を取り除くことは非常に難しい面があります。その難しさが私達の塵沙惑となります。更に煩悩の根源である、元品の無明となる無明惑が、私達の成仏における一番の妨げとなるのであります。
 心の惑い三惑は、御本尊様に御題目を唱えるところに浄化されていき、寺院で行われる唱題行は、心の惑いを取り除く効果があります。進んで唱題行に参加しましょう。


不染世間法 如蓮華在水

2005-11-21 | 手引書③

 『御講聞書』に、
 「仰せに云はく、世間法とは、全く貪欲(とんよく)等に染(せん)せられず、譬へば蓮華の水の中より生ずれ共(ども)、淤泥(おでい)に染まざるが如し。此の蓮華と云ふは地涌の菩薩に譬へたり。地と云ふは法性の大地なり。所詮法華経の行者は蓮華の泥水に染まざるが如し。但唯以一大事(ゆいいいちだいじ)の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり。世間法とは、国王大臣より所領をたまはり官位をたまふ共(とも)、夫(それ)には染せられず、謗法(ほうぼう)の供養を受けざるを以て不染世間法とは云ふなり。所詮蓮華は水を離れて生長せず。水とは南無妙法蓮華経是なり。本化(ほんげ)の菩薩は蓮華の如く、過去久遠より已来本法所持の菩薩なり。蓮華在水とは是なり。所詮此の水とは我等行者の信心なり。蓮華は本因本果の妙法なり。信心の水に妙法蓮華は生長せり。地とは我等衆生の心地なり。涌出(ゆじゅつ)とは広宣流布の時、一閻浮提の一切衆生、法華経の行者と成るべきを涌出とは云ふなり云云」(御書1847)
と御指南であります。「不染世間法 如蓮華在水」とは、法華経の『従地涌出品第十五』に説かれる経文であり、日蓮大聖人が説かれる日蓮正宗の教えは、世間法に一切染まっていない釈尊が説かれる純粋な仏法を伝えているのであります。それが「不染世間法 如蓮華在水」です。世間の法に染まらざること、蓮華が泥水にあるが如しということです。
 その姿を日蓮正宗の僧侶が、「白蓮華」という白の袈裟と薄墨の衣を着し示しているのであります。他宗の袈裟衣は、仏法が世間法に染まった姿であるので、色彩豊かな袈裟衣を着ているのであります。正しく謗法の袈裟衣であり、堕獄の相を示しています。
 『一代五時継図』に、
 「法鼓経(ほっくきょう)に云はく『黒衣の謗法なる必ず地獄に堕す』文。」(御書1640)
と説かれ、世間に横行する色の付いた黒衣は、謗法で必ず地獄に堕ちると仰せです。つまり黒衣を着た邪宗の僧侶に、通夜・葬儀・法事を頼むと、亡くなった故人は地獄に行くのであります。葬儀や法事は日蓮正宗の僧侶に頼みましょう。必ず成仏します。しかし、改宗し日蓮正宗に入信しなければいけません。
 信心をし成仏を目指していく上で、「不染世間法 如蓮華在水」の心がけが大切です。世間法には多くのものがあります。人間性を無くしてしまう思想や名聞名利を助長させるもの、また人間の本能的な感情を擽る思想が横行しています。これを止める教え、信心の心構えが「不染世間法 如蓮華在水」であります。信心では自行化他にわたって考えていくことが大事です。
 『当体義抄』に、
 「地涌(じゆ)の菩薩を現証と為す事は経文に『如蓮華在水』と云ふ故なり」(御書696)
と御指南であります。泥水の中にも綺麗な蓮華の花を咲かせるような信心が大事であり、それこそが地涌の菩薩であるという仰せです。「如蓮華在水」といわれる地涌の菩薩の振る舞いを持って折伏することです。世の中は泥水のように濁った思想が乱れる世界です。この世界で、世間法に染まることなく信心を貫くことが「如蓮華在水」であり、成仏の境界に結びつきます。「不染世間法 如蓮華在水」の場所とは御本尊様が御安置されているところです。