日蓮大聖人は『始聞仏乗義』に、
「煩悩とは見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑なり」(御書1208)
と仰せのように三惑の名称について御教示です。三惑とは苦果を招き、仏道修行を妨げる三つの煩悩をいいます。三つの惑とは「見思惑(けんじわく)」「塵沙惑(じんじゃわく)」「無明惑(むみょうわく)」です。御本尊様に御題目を唱えるところ心の惑いが消え、気分が良くなります。
見思惑が見惑と思惑のこと。見惑とは真理に迷う思想上の偏った見解。思惑とは物事を見て起こす本能的・感情的な妄想のこと。
塵沙惑は菩薩が衆生を教化するために、断じなければならない実際の相に暗い無数の煩悩。
無明惑が非有非無の理に迷い、中道の障りとなる煩悩のこと。等覚から妙覚に至る最後の無明を元品の無明といいます。
特に私達は、「見思惑」という心の惑いに、日々悩まされ迷わされることが多いです。人間関係や対人関係も見思惑という、互いの心の惑いが原因です。この見思惑の処理が互いにスムーズに行き、理解し合っておれば円満な関係を保つことが出来ます。信心を素直に実践しておれば、見思惑は適切に御本尊様の力用によって処理されます。信心が優先するか、見思惑に汚染された心(我見)を優先するかで人生が別れます。それにより命の中に善業と悪業が出来て宿業となり、三世という過去・現在・未来に影響していきます。
『御義口伝』に、
「所謂南無妙法蓮華経と唱へ奉るは三惑即三徳なり」(御書1802)
と御教示のように、心の惑い三惑は御題目を唱えると三徳に変わります。更に『聖愚問答抄』に、
「只信ずれば見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)の三惑の病を同時に断じて、実報(じっぽう)寂光の台(うてな)にのぼり、本有三身の膚(はだえ)を磨かん事疑ひあるべからず」(御書408)
と仰せであります。御本尊様を信じれば三惑の病を断じ、実報寂光という仏菩薩の境界になることは疑いありません。三惑が原因となり病気が引き起こされることもあります。見惑と思惑という見思惑に因があり、偏った考えや妄想により病気が誘発されます。偏った考えや妄想を信心により改めることで、心と体のバランスが持たれ四大不順を抑えることが出来ます。
偏った考えは、信心をしていない人から無意識のうちに貰うことがあります。偏った考えが心の中に妄想を引き起こし、更に四大不順を引き起こされ病気に結びつきます。四大不順というところに病魔の手が入り込みます。
つまり偏った考えを貰わないためにも「折伏」が必要不可欠であります。信心をしている人で、このことに気付いている人は非常に熱心な方です。折伏において、他人の見思惑を取り除くことは非常に難しい面があります。その難しさが私達の塵沙惑となります。更に煩悩の根源である、元品の無明となる無明惑が、私達の成仏における一番の妨げとなるのであります。
心の惑い三惑は、御本尊様に御題目を唱えるところに浄化されていき、寺院で行われる唱題行は、心の惑いを取り除く効果があります。進んで唱題行に参加しましょう。