さて重要なのは近代である。近代のチベットを考える際に重要なのは、国際的に承認された独立国家を建設できなかったことである。チベットの民族問題は中国共産党政権成立以降の問題が語られることが多いが、むしろ重要なのは中華民国期である。中華民国の時期は、国家体制がかなり不安定で、モンゴルがそうしたように、その気になれば独立くらいわけもなかったのではなかいと思われるが、結局はそうならなかった。その理由を簡単に述べていくことにしたい。
チベットの近代を語るに当たって欠かせないのはダライラマ13世である。彼が三歳で即位した19世紀末、軍事的な庇護者である清朝は無残なほど弱体化し、それにかわってイギリスとロシアがチベットの支配権を虎視眈々と狙っていた。
イギリスはロシアとの対抗措置として1903年に軍事侵攻に踏み切り、イギリスのヤングハズバンド軍はラサを占領し、ダライラマ13世はモンゴルに逃れる。翌年のラサ条約で交易所の開設、50万ポンドの賠償、イギリスの許可なく他の外国に鉄道、鉱山等の利権を提供しないことなどが取り決められ、チベットは実質的にイギリスの保護下に置かれ。しかしこれにロシアとフランスが介入し、またチベットもイギリスとの対抗上中国に接近して、1906年の北京条約で中国のチベットに対する宗主権が認められた。
フランスの支援の下、1906年からチベットの統治を担った趙爾豊は、外国からの干渉を許しているチベットを清朝国家に完全統合するための強権的な同化政策を推進し、弁髪を義務付けるなどチベット人の伝統的習俗までを強制的に変えさせた。1910年にラサで反乱暴動が起こったが、清朝は鎮圧の過程でラサを占領して、前年に帰還したばかりのダライラマは再びインドに亡命する。ダライラマはインドのイギリス政府から厚遇され、かわりにチベットにおける中国との関係はパンチェンラマが担った。
1911年の辛亥革命で趙爾豊は処刑され、ダライラマも1913年1月にラサに帰還して「独立宣言」を行っている。しかし列強の承認を得ることはできなかった。1914年のシムラ条約でイギリスとロシア、チベットはメコン川を国境に設定したが、袁世凱政権の中国はこれに不承認だった。しかし、同年のダルツェンドの合意で中国がメコン川国境承認。中国の内政干渉を認める。
袁世凱死去後の中国国内は軍閥構想で混乱を極め、チベットでは独立の動きが高まっていくことになる。1917年に中華民国は再びチベットの政治統合を行おうとして外チベットに進行する。しかしチベット軍はこれを跳ね返し、休戦協定によって長江が国境と定められる。
1920年代になると、政治的安定を得たダライラマ13世は中央集権的な近代化政策を推進する。ダライラマ13世の友人であるイギリスの外交官チャールズ・ベルが1920年11月から1年近くラサに滞在し、軍事的な援助、鉱山開発、英語学校の開設などの協力を進めた。電報線、水力発電所や兵器工場が作られ、洋風の家や洋装が徐々に広まり、街路では近代化された兵士や警察が巡回するようになる。
こうした近代化・集権化政策は、寺院勢力との政治的な亀裂を強めるものであった。寺院勢力とパンチェンラマ9世は軍隊の維持費用の負担を求めるダライラマ13世に強く反対し、1923年にパンチェンラマ9世は北中国に亡命する。さらに警察と軍隊の対立という不祥事も重なって親イギリスの軍人ツアロンシャペが失脚し、イギリスとの協調関係も萎んで英語学校も閉鎖されてしまう。1930年代には寵臣クンペラが自動車や電化を導入し、近代主義的な政策を推進しようとしたがうまくいかなかった。
中国と対等な国家であると考えるダライラマに対して、亡命したパンチェンラマは中国に接近し、蒋介石や張学良といった中国の国民党政権から重んじられ、1930年に中国軍の護衛の下でチベットに一時帰還した。さらにベルとデルゲという二つの寺院の地域的な抗争が、それぞれ中国とチベットを背後にしていたために、1931年に両国間の紛争への拡大していった。ダライラマはイギリスと国際連盟に訴えたが効果なく、独立国であるという主張を取り下げて国境を長江とする休戦協定が結ばれた。こうしてダライラマ13世は、チベットの近代化にも、国際社会での独立の承認を得ることにも失敗し、1933年の11月に死去することになる。
以上のように、中華民国期というのが思いのほか重要であることがわかる。つまり、集権的な近代化を進めようとするダライラマと、伝統的な寺院勢力の自律性を重視するパンチェンラマとの齟齬よって、親イギリス・インド派と親中国派の対立につながる構図が成立したのがこの時代であった。この構図は1900年代にもある程度出来上がっていたが、やはり決定的だったのはパンチェンラマが中国に亡命した1920年代以降である。
その意味で、ダライラマ13世が目指したチベットの「独立」とはチベット仏教の宗教的伝統を中国や諸外国の「侵略」から守ることを意味するのでは必ずしもなく、近代的な国家を建設するために、多様な宗派が並存していた旧来のチベット仏教社会の変革を目指すものであった。本当の意味での宗教的伝統を護持しようとした寺院勢力は、皮肉にも独立よりも中国との関係強化という伝統的な手法に傾いていくことになったのである。
チベットがモンゴルのように独立できなかった理由は様々だが、モンゴルにとってのソビエト・ロシアのような、国際社会で強力な独立の後援者が不在であったことが挙げられる。最大の候補者は言うまでもなくイギリス=インドであったが、チベット国内におけるダライラマと寺院勢力との対立が、全面的にチベット社会の将来をイギリスに預けることを妨げたのである。
ここからうかがわれるのは、チベットをヨーロッパの民族のように、何らかの宗教文化にとってがっちりと統一された民族共同体のようにイメージすると誤ってしまうことである。チベットの社会構造についての理解が必要になってきたので、現代史に入る前にもうちょっと勉強していきたい。
チベットの近代を語るに当たって欠かせないのはダライラマ13世である。彼が三歳で即位した19世紀末、軍事的な庇護者である清朝は無残なほど弱体化し、それにかわってイギリスとロシアがチベットの支配権を虎視眈々と狙っていた。
イギリスはロシアとの対抗措置として1903年に軍事侵攻に踏み切り、イギリスのヤングハズバンド軍はラサを占領し、ダライラマ13世はモンゴルに逃れる。翌年のラサ条約で交易所の開設、50万ポンドの賠償、イギリスの許可なく他の外国に鉄道、鉱山等の利権を提供しないことなどが取り決められ、チベットは実質的にイギリスの保護下に置かれ。しかしこれにロシアとフランスが介入し、またチベットもイギリスとの対抗上中国に接近して、1906年の北京条約で中国のチベットに対する宗主権が認められた。
フランスの支援の下、1906年からチベットの統治を担った趙爾豊は、外国からの干渉を許しているチベットを清朝国家に完全統合するための強権的な同化政策を推進し、弁髪を義務付けるなどチベット人の伝統的習俗までを強制的に変えさせた。1910年にラサで反乱暴動が起こったが、清朝は鎮圧の過程でラサを占領して、前年に帰還したばかりのダライラマは再びインドに亡命する。ダライラマはインドのイギリス政府から厚遇され、かわりにチベットにおける中国との関係はパンチェンラマが担った。
1911年の辛亥革命で趙爾豊は処刑され、ダライラマも1913年1月にラサに帰還して「独立宣言」を行っている。しかし列強の承認を得ることはできなかった。1914年のシムラ条約でイギリスとロシア、チベットはメコン川を国境に設定したが、袁世凱政権の中国はこれに不承認だった。しかし、同年のダルツェンドの合意で中国がメコン川国境承認。中国の内政干渉を認める。
袁世凱死去後の中国国内は軍閥構想で混乱を極め、チベットでは独立の動きが高まっていくことになる。1917年に中華民国は再びチベットの政治統合を行おうとして外チベットに進行する。しかしチベット軍はこれを跳ね返し、休戦協定によって長江が国境と定められる。
1920年代になると、政治的安定を得たダライラマ13世は中央集権的な近代化政策を推進する。ダライラマ13世の友人であるイギリスの外交官チャールズ・ベルが1920年11月から1年近くラサに滞在し、軍事的な援助、鉱山開発、英語学校の開設などの協力を進めた。電報線、水力発電所や兵器工場が作られ、洋風の家や洋装が徐々に広まり、街路では近代化された兵士や警察が巡回するようになる。
こうした近代化・集権化政策は、寺院勢力との政治的な亀裂を強めるものであった。寺院勢力とパンチェンラマ9世は軍隊の維持費用の負担を求めるダライラマ13世に強く反対し、1923年にパンチェンラマ9世は北中国に亡命する。さらに警察と軍隊の対立という不祥事も重なって親イギリスの軍人ツアロンシャペが失脚し、イギリスとの協調関係も萎んで英語学校も閉鎖されてしまう。1930年代には寵臣クンペラが自動車や電化を導入し、近代主義的な政策を推進しようとしたがうまくいかなかった。
中国と対等な国家であると考えるダライラマに対して、亡命したパンチェンラマは中国に接近し、蒋介石や張学良といった中国の国民党政権から重んじられ、1930年に中国軍の護衛の下でチベットに一時帰還した。さらにベルとデルゲという二つの寺院の地域的な抗争が、それぞれ中国とチベットを背後にしていたために、1931年に両国間の紛争への拡大していった。ダライラマはイギリスと国際連盟に訴えたが効果なく、独立国であるという主張を取り下げて国境を長江とする休戦協定が結ばれた。こうしてダライラマ13世は、チベットの近代化にも、国際社会での独立の承認を得ることにも失敗し、1933年の11月に死去することになる。
以上のように、中華民国期というのが思いのほか重要であることがわかる。つまり、集権的な近代化を進めようとするダライラマと、伝統的な寺院勢力の自律性を重視するパンチェンラマとの齟齬よって、親イギリス・インド派と親中国派の対立につながる構図が成立したのがこの時代であった。この構図は1900年代にもある程度出来上がっていたが、やはり決定的だったのはパンチェンラマが中国に亡命した1920年代以降である。
その意味で、ダライラマ13世が目指したチベットの「独立」とはチベット仏教の宗教的伝統を中国や諸外国の「侵略」から守ることを意味するのでは必ずしもなく、近代的な国家を建設するために、多様な宗派が並存していた旧来のチベット仏教社会の変革を目指すものであった。本当の意味での宗教的伝統を護持しようとした寺院勢力は、皮肉にも独立よりも中国との関係強化という伝統的な手法に傾いていくことになったのである。
チベットがモンゴルのように独立できなかった理由は様々だが、モンゴルにとってのソビエト・ロシアのような、国際社会で強力な独立の後援者が不在であったことが挙げられる。最大の候補者は言うまでもなくイギリス=インドであったが、チベット国内におけるダライラマと寺院勢力との対立が、全面的にチベット社会の将来をイギリスに預けることを妨げたのである。
ここからうかがわれるのは、チベットをヨーロッパの民族のように、何らかの宗教文化にとってがっちりと統一された民族共同体のようにイメージすると誤ってしまうことである。チベットの社会構造についての理解が必要になってきたので、現代史に入る前にもうちょっと勉強していきたい。