史報

中国史・現代中国関係のブログ

日本近代の分水嶺:昭和40年代

2008-03-17 19:15:51 | Weblog

チベットの話はまたおいおいと。やはり、ダライラマとパンチェンラマの微妙な関係が重要なことは間違いないと思う。中華民国の時代になぜ国際社会に承認された独立国家になれなかったのかが多分重要なところなので、また考えてみます。

 たまには日本のことについて。

 私が思うに、日本の「近代」の画期と言うと、「昭和40年代」である。西暦だと微妙にずれるのでこの言い方を用いる。

 明治以来の日本の「近代化」のとらえ方というのは一方向的であった。要するに「豊かになる」「発展する」である。そういうこと自体の懐疑が出始めたのが、まさに「昭和40年代」であった。

 物質的な豊かさがある程度普遍化し、戦後間もなくのベビーブーム世代が社会でサラリーマンとなって第三次産業者が多数となり、「知識人」であった大学生は「大衆」となった。1973年(昭和48年)は「福祉元年」と呼ばれているように、社会保険制度が国民全体を包摂するようになったのもこの時代である。日本で最も経済格差の低かった時代、そして現在のように治安が急速によくなった時代も、この昭和40年代であると言われている。昭和40年代というのは、明治の初期以来の日本が懸命に追求してきた「近代化」の、ある種の到達点であったことは間違いない。

 昭和40年代以前の日本の「近代化」の理論は、とにかく現在が「遅れて」いて、ヨーロッパやアメリカを目指して「進歩」しなければいけないというものであった。学問のレベルでは何が「先端理論」であるのかをめぐって意見の相違があったとしても、「先端理論」がどこかに存在するということ自体は、一部の冷笑的保守派(結局彼らがもっとも「先進的」だったわけだが・・・)以外は誰も疑っていなかった。その中で圧倒的に影響力があったのが、マルクス主義における「共産主義社会」の思想であった。

 ただしこのような、今から見て無邪気にも見える「進歩」的な先端理論を大声で語れたのは、大学の教師や学生が圧倒的エリートであること、そして日々の生活が貧しい状態から一気に豊かになっているという「進歩」の現実に支えられたものであった。だから大学が大衆化し、豊かな生活が当たり前になれば、「進歩」の普遍理論自体の信憑性や魅力も一気になくなっていった。

 かわって昭和50年代以降に蔓延したのが、大文字の理想を語ることなく、むしろそれを皮肉ったり茶化したりするという作法である。フーコーやサイードが何を考えていたかはともかく、それが日本の知識界で馬鹿受けした理由は明らかである。彼らは世界の中で何が普遍的な真理なのかを語ることではなく、「真理」を語る人々の営みの中にある権力作用を問題にした。例えば、普遍性を主張する科学理論は、西洋文明が非西洋の社会を無意識のうちに「無知」「野蛮」扱いしてきたのではなかったかと。

 戦争責任の問題でも、昭和40年代以前は日本の「近代化」の「遅れ」が問題になっていたのに対して、朝鮮民族などの弱者やマイノリティを排除してきた、国民国家などの「近代化」の装置こそが反省されるべきであるという議論に転換していった。

  歴史学でも、1970年代までの歴史学で圧倒的な主流だった社会経済史が凋落した。中国史で言うと、最初はこの応答として経済の発展ではなく国家という制度的枠組を研究するという「専制国家論」の方向性が登場し、次にイデオロギーや言説を研究するという手法が流行していくが、いずれにしても「近代化」を一方向的な発展段階からではなく、「近代化」を推し進めてきた組織や知識人を批判的にみるべきだという問題意識が底流にあった。

 こうして、真面目に大文字の「近代化」の理想を語れば、「お前何言ってんだ」「あくまでお前の意見だろ」と突っ込まれるような時代になってしまった。全員が「ポストモダニズム」を受け入れていたわけではないが、「近代化」に懐疑的な姿勢をどこかで表明しておかないと「浅い」「不真面目」に見られるようなったのである。

 これは学者の話だけではない。高度成長期は「勉強が出来る」「仕事が真面目である」ということだけで評価されたのが、それ以降になると全人格をひっくるめて評価されるようになった。何らかの高度な知識や技術があるという以前に、「個性」「やる気」「創造性」が重視されるようになり、「勉強が出来る」「仕事が真面目である」だけの人間は「マニュアル人間」として否定されていった。

 こういう流れが出てきたのがまさに昭和40年代であった。今から見て不可解にも程がある全共闘運動というものは、「勉強が出来る」「仕事が真面目である」というだけで人格を評価して欲しくない、というクソ真面目に受験勉強を行なってきた学歴エリートたちの反抗であった。

 ただし、全共闘の頃は「近代化」の大文字の理念を徹底的に批判的に見るということと、「近代化」の最先端を徹底的に追求するということは矛盾するものではなく、ほとんど一体化したものであった。

 ところが「近代化」を徹底的に批判しようとした結果として、当然ながら「近代化」の「先端理論」など存在しないという結論になり、それを追及するということ自体が馬鹿馬鹿しいという気分が急速に広がっていくことになる。そして全共闘から出現した新左翼運動が内ゲバなどでひどく混迷したこともあって、80年代以降の下の世代は「真理」が何であるのかを真面目に語ること自体に批判的になっていく。

 80年代までは、「真理」を相対化するためには、やはり一定の高度な知識がなければならないという観念があったように思われる。いわゆる「ポストモダン」「脱構築」の思想は、そうした相対化の態度そのものを思想化したものであった。それまでのマルクス主義が、用語は難しくても何の方向に向かっているのかはそんなにややこしくなかったのに対して、「相対化」の思想は向かっている先そのものを読み取ること自体が困難になった。要するに相対化の思想の魅力は、そこで相対化しようとしている前提となっている知的状況に通じていることが前提となっているため、私を含めて少しでも知識世界の中心から離れると、何を言いたいのか全く理解不能なものになってしまったのである。

 だから90年代末以降になると、こうした相対化の思想自体が大学の先生や大学院生レベルでも敬遠されていくことになる。そしてインターネットの登場によって、マスメディアの建前論を、無知識のまま「直感」や「常識」で批判することが力を持つようになっていった。ネット上でナショナリズムが氾濫している理由はいろいろあるが、ナショナリズムを語るには高度な知識がほとんど要らないのである。

 ここで重要なのは、 「全てを批判する」という全共闘の態度が、結局は否定される対象自体を見えなくしてしまい、「素朴に正義を語る馬鹿」を皮肉ったり茶化したりしていくこと自体が目的化するようなコミュニケーションの作法を蔓延させていったことである。

 その象徴が1980年代に颯爽と登場し、その毒舌で「真面目ぶった優等生」を茶化す芸風で人気を博したビートたけしであることは間違いない。薄っぺらな建前を茶化しつづける彼の毒舌は、「真理」を素朴に真正面から語ることが「恥ずかしい」「うそ臭い」と思われるようなった(にも関わらずそうした「恥ずかしい」語りがそれなりに強く残っていた)時代と共振したのである。ただし周知のように、たけしは知識人と言ってよいほどの物知りであり、彼の毒舌芸もそうした豊富な知識を元手にしたものであった。漫画家のいしいひさいちも同じである。

 90年代末のインターネットの時代になると、とにかく「つまらない建前」をメディア上で振りかざす人々一般が無目的に叩かれている。というより、メディア上で素朴に「真理」を語る人の「恥ずかしさ」を語り合うことによる「共感」を求めているようにも見える。インターネットを見ても、なんでこの人物の発言がこんなに執拗なまでに叩かれているのかが、皆目わからないというものがあまりに多いが、これは現在の日本では「誰かを叩くこと」による共感が、日常的に不可欠なコミュニケーションの作法になってしまっていることを意味している。ここではたけしレベルの知性も全く必要とされず、中国や韓国を罵倒すればそれでウケてしまうのである。

 このように、全共闘的な「批判」は、今では単なる「人の悪口」の作法にまで堕落してしまったと言えるだろう。 自分に突っ込みを入れることで、人からの批判をあらかじめ封じようという(特にテレビの芸人によく見られる)態度も、全共闘の「自己批判」「総括」に起源を持っている。

 現在「空気が読めない」という言い方が話題になっているが、その理由はいろいろあるが、その一つには批判や茶化しの対象があまりにランダムになってしまい、その都度批判や茶化しの対象が何であるのか、どうして批判の対象になっているのかを「読む」必要に迫られているからであると考えている。

  まとめると、1960年代までは決して否定されることのない「真理」が何であるのかを語ること、そのための高度な知識や技能を習得することが「正しさ」の条件であったのに対して、1970年代以降は世間に流布する「真理」の限界や欠陥に対して批判的な目を向け続けることが、人から「正しい」と思われるための条件となったと言うことができる。

 やや忘れ去られた感のある堀江貴文は、いろんなことを饒舌に語ってはいたが、自分で何が「正しい」のかを一切語ることはなく、むしろ「何が悪いのか」という企業家や政治家の薄っぺらで建前的な正義を批判するという態度に終始していた。それがインターネットの世論では大きな支持を得ていたのである。

なんかつまらないことを書きすぎました。今度は中国に復帰します。


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