史報

中国史・現代中国関係のブログ

チベット史

2008-03-16 22:02:30 | Weblog
これまで不勉強だったチベットについてのノート。

【古代】
古代チベット王国はインドからの移民と伝えられる。この王国は歴史上「吐蕃」と呼ばれる。7世紀のソンツェンガムポ王は、臣下に命じてチベット文字を作らせ、インドのサンスクリット文字の仏教経典をチベット文字に翻訳すると同時に、唐とも交流をもって文成公主を妻に迎えた。唐とインドの影響でチベットは仏教国となっていく。安史の乱ではウィグルとともに長安を占領するなど、中国王朝を脅かすほどの強勢を誇る。

【中世】
チベット王国は一時期混乱して仏教は衰えた。インドとカシュミールに17年留学したリンチェンサンポ(958-1055)は仏教を再興させたが、統一政権が不在であったこともあって様々な宗派が形成されていく。1239年にモンゴル帝国がチベットに侵攻して属国としたが、フビライ=ハンはチベットの仏教に深く傾倒し、「パスパ文字」で知られる帝師パスパを輩出するなど、宗教的な師弟関係を形成する。

【近世】
チベット仏教にはモンゴルと結びついたサキャ派、密教的なカギュ派、復古主義的なニンマ派などがあったが、現在のチベット問題にとって重要なのはツォンカパ(1357-1491)が創始したゲルク派である。ゲルク派は菩薩の生まれ変わりとされる子供に英才教育を施す「活仏」の制度を確立し、16世紀にはモンゴルの庇護を得て指導者は「ダライラマ」(モンゴル語の「海=ダライ」とチベット語の「師=ラマ」)と呼ばれるようになる。チベットに再び統一政権ができるにつれて、ダライラマは王権と宗教を一身に体現する「僧王」となり、ダライラマ5世の時代の1696年には有名なポタラ宮が完成する。1720年に清朝軍がラサに侵攻してダライラマ7世を即位させると軍事的な庇護関係に入ったが、すぐに軍を撤退させるなど清朝はチベットの習俗を尊重し、乾隆帝などは深くチベット仏教に傾倒した。

【近代】
また次回。

最新の画像もっと見る