2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

それでは集団の中の個人の力

2009年01月08日 | その他のこと
民主主義の世の中では、個性的なばらばらの個人が好きなことを言い合う世の中となっているのだけど、政治ではその最大公約的な政策が実行されているらしい。

その政策が、国民の利益となる政策のために政治家は頑張ってくれているのだけど、話し合って物を決めるのが基本だから、政治家という個人は意見が通らなくても我慢しなくてはいけないこともあるのではないかと思うのだ。

政治家の個人の意見は党内の話し合いの場ではみんなで考えられて取り入れられることもあるかもしれないが、取り入れられないこともあるのだと思う。


一般人の個人の意見というのも、集団の何かを決める時は話し合いの中でみんなで考えられるもので、採用されたり、されなかったりしていると思う。

個人を主張して、気持ちよく実行されると言うのは、そうはないことなのだと思う。

主張を通すためには、集団の中にまずみんなに認められた実績のようなものを築かなければならない。

いつも、集団のために働いて、みんなにとても有能な人物と認められたら主張は通りやすくなるでしょう。

だから、集団を思う通りに動かすなんてことはそうは出来ないので、自分だけは思うどうりに行動すると言う形で個人を主張するしかなくなってしまう。

でも、一般人は自由な世の中で好きに暮らせるだけで、個人の意思決定をしているという満足感は十分に感じていると思う。

私などでも掃除機くらいなら一存で買うことができるのだ。

家のこどもなど、お蕎麦屋で親がざるそばを頼んでいるのに子供のくせに天ざるを頼んだりする。

「舞茸はちょうだいね」と交渉したりするが。




今は、眼先の金融危機の他に、地球温暖化とか、資源の枯渇とか、人類の危機に関係するような問題も起きていて、政治には大きな責任がかかっている。

でもやはり、毎日の生活に関わる経済の問題が一番大事なのは仕方がないことだと思う。

経済をよくするために消費をしましょう、ということと、失業した人を助けましょう、がもっかの緊急課題なわけである。

政治はどうしても経済のことや国民の生活のことに重きを置くので、地球の危機を救う力はないのかもしれないと思うのだ。

ここからは急に地球を救う話になる。

一般の個人というのはたいがい現在の自分の利益のことを考えているもので、全体の利益を考える余裕はないものだ。

テレビのニュースなどで「政治に何を求めますか?」などの街頭インタビューで答えている人はたいがいちゃんと「経済を何とかしてくれ」といっているではないか。

もっとも、「地球温暖化を」とか、「人口が多すぎるのでは」などと言ったら、ニュースに出すのに適切ではないとして編集されると思うけど、時には面白いと思う。

一般人も地球温暖化は大変なことだとテレビで知らされているので、スーパーではレジ袋を貰わないようにしたり、電気をこまめに消したり、いろいろやってはいる。

でも、一般人というのはエネルギーをたくさん使って作ったペットボトルの飲み物を買ったり、とにかく供給されたものを買うしかない存在なのだ。

大量消費できる環境にあって、少しは環境にいいことをして気分がよくなったら、安心して消費活動をできると思う。

一般人というのは、ある意味操られている存在なのだから地球を救うのは難しいと思う。

地球を救うのは世の中を操っている階級の人なのだと思う。

地球を救えるのは、政治家ではなく企業の経営者なのだと思う。

企業の経営者は非常によく世の中を見て勉強をしている。

企業を存続させて発展させるために勉強しているのだけど、だから、世界の様子も、環境のことも経済のことも一番よく知っている。

これからは儲かる仕事は何かと、いつも考えているし。

会社のイメージアップには何をアピールしたらいいのかとかも考えていると思う。

温暖化対策に役立つことが会社の発展になるとしたらやるのではないだろうか。

そして会社は早く動くことができる。

早く動かないとだめなのかもしれない。

派遣切りにも早い対応をした大企業があって、驚いたばかりだ。

教養、経験、モラルなど、人間的にも優れた経営者が大きな視点で世界を見たら、自分の持つ力が世界を救えると気がつくはずだ。

素晴らしい大企業の経営者の力にひそかに期待している。



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