この物語に出てくる、もう90歳にもなる老人の大審問官は、今ではキリストにそむき、悪魔の側について民衆から自由を預かり、民衆を支配しているようにみえるが、最初若いころはキリストと同じ理想に燃えて、荒野でイナゴと草の根で命をつないだことがある(修行した)、と言っている。
皆で理想の自由な世界を創ろうと努力したこともあったのですね。
でも、民衆は天井のパン(自由や理想)を拒否し、地上のパン(現世利益)をもとめて右往左往するものであったのです。
あーこれって、思い当たる物語がありますね。
宮崎アニメ「風の谷のナウシカ」の原作のアニメ本には、シュワの皇弟が最初の何十年だったかは民衆とともにある良い王様だったこと、そのうちにいつまでたっても賢くならない民衆に失望して専制的になっていったことが語られています。
シュワの皇弟は愚民を軽蔑して支配するタイプの指導者であったようです。
空想科学アニメにはよくこのタイプの指導者がでできます。
簡単なストーリーのレンジャーものでは正義の味方があらわれて悪者をやっつけて終わるのです。
ナウシカの風の谷では、王様は民衆とともにある人類愛にあふれたタイプの指導者に描かれています。
不思議の海ののナディアではガーゴイルという悪役が人間を愚かであると決めつけて世界征服をたくらみますが、最後にナディアの父のネモ船長は地球は人間のものだ、と言います。
やはり長い物語の中では愛をテーマにして、よい終わり方をしています。
人間同士、片方を一方的に愚民と決めつけて支配するのはよくないようです。
そういうことをしてきた歴史は滅亡や、革命や、悪い終わり方をしているのではないでしょうか。
植民地政策もそれほど長く続きませんでした。
作者のドストエフスキーは大審問官の落ちをどうつけるつもりだったのでしょう。
私にはよくわかりません。
世の中に出ているよい物語の落ちは、愚民を支配するというスタンスの集団は負けて、みんなで仲良くやっていこう、という落ちになっています。
それではこの法則にしたがうと、ドストエフスキーの大審問官も、大審問官はあんなに悪口を言っている民衆を、キリストとは違う思いで愛していて、愛で支配しているということになります。
本を読んだ感じではそういう風には取れません。
ものすごく民衆をけなしているのです。
ここまで書くか、というけなしようです。
単に現実的な対応をしたのだ、と言えば、そうか、と思うのに。
一応宗教者としての皮をかぶっているから、後ろめたさがあるのかもしれません。
それでは実際の世の中ではどうなっているかというと、
社会主義の国というのは、指導者と、民衆の関係は、愚民支配に見えます。
人権がないのですから、人間扱いされない場合があることが想像されます。
歴史的には愚民支配の思想が垣間見えるのではないでしょうか。
人間というのは、ドストエフスキーが大審問官で指摘したような考えに陥りやすいということかもしれません。
いや、大審問官にはまだ民衆は自由を使いこなせないから、代わりに引き受けてやったのだという理屈がありますが、本来の人間は単に、自分の方が人より偉くなりたいからというシンプルな動物の本能のようなもので動いているようにも見える。
それを言っちゃあおしまいですね。
皆で理想の自由な世界を創ろうと努力したこともあったのですね。
でも、民衆は天井のパン(自由や理想)を拒否し、地上のパン(現世利益)をもとめて右往左往するものであったのです。
あーこれって、思い当たる物語がありますね。
宮崎アニメ「風の谷のナウシカ」の原作のアニメ本には、シュワの皇弟が最初の何十年だったかは民衆とともにある良い王様だったこと、そのうちにいつまでたっても賢くならない民衆に失望して専制的になっていったことが語られています。
シュワの皇弟は愚民を軽蔑して支配するタイプの指導者であったようです。
空想科学アニメにはよくこのタイプの指導者がでできます。
簡単なストーリーのレンジャーものでは正義の味方があらわれて悪者をやっつけて終わるのです。
ナウシカの風の谷では、王様は民衆とともにある人類愛にあふれたタイプの指導者に描かれています。
不思議の海ののナディアではガーゴイルという悪役が人間を愚かであると決めつけて世界征服をたくらみますが、最後にナディアの父のネモ船長は地球は人間のものだ、と言います。
やはり長い物語の中では愛をテーマにして、よい終わり方をしています。
人間同士、片方を一方的に愚民と決めつけて支配するのはよくないようです。
そういうことをしてきた歴史は滅亡や、革命や、悪い終わり方をしているのではないでしょうか。
植民地政策もそれほど長く続きませんでした。
作者のドストエフスキーは大審問官の落ちをどうつけるつもりだったのでしょう。
私にはよくわかりません。
世の中に出ているよい物語の落ちは、愚民を支配するというスタンスの集団は負けて、みんなで仲良くやっていこう、という落ちになっています。
それではこの法則にしたがうと、ドストエフスキーの大審問官も、大審問官はあんなに悪口を言っている民衆を、キリストとは違う思いで愛していて、愛で支配しているということになります。
本を読んだ感じではそういう風には取れません。
ものすごく民衆をけなしているのです。
ここまで書くか、というけなしようです。
単に現実的な対応をしたのだ、と言えば、そうか、と思うのに。
一応宗教者としての皮をかぶっているから、後ろめたさがあるのかもしれません。
それでは実際の世の中ではどうなっているかというと、
社会主義の国というのは、指導者と、民衆の関係は、愚民支配に見えます。
人権がないのですから、人間扱いされない場合があることが想像されます。
歴史的には愚民支配の思想が垣間見えるのではないでしょうか。
人間というのは、ドストエフスキーが大審問官で指摘したような考えに陥りやすいということかもしれません。
いや、大審問官にはまだ民衆は自由を使いこなせないから、代わりに引き受けてやったのだという理屈がありますが、本来の人間は単に、自分の方が人より偉くなりたいからというシンプルな動物の本能のようなもので動いているようにも見える。
それを言っちゃあおしまいですね。