獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その10

2024-01-28 01:32:42 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

 

2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
□親子関係編
□恋愛、友人関係編
□進学、就職、転職編
■信仰活動編
□信仰活動離脱後編


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

信仰活動編


Q:教団の布教活動が、 人に迷惑をかけているようで、やりたくありません。

A:自分がされたくないことは、人にもしないようにしましょう。 


特定の教団を名指しはしませんが、たとえば、親子で連れだって、学校のクラス名簿を片手に、同級生の家々を戸別訪問し、布教に歩く宗教があります。
そういった布教活動に抵抗感を抱く宗教2世も、少なくありません。
布教から帰ったあと、その宗教2世は「友だちに迷惑かけちゃったな……」と思うわけです。
布教は、いいと思う。でも、相手がイヤがることはしたくない。
こういったジレンマを抱える宗教2世も、少なからず存在します。
ぼく自身が、まさにそうでした。

学会活動をしていても、創価学会員ではない人(ここでは「外部の友人」と表記します)がイヤがることをせざるを得ないときがありました。
ぼくが昔付き合っていた彼女に折伏をしてイヤがられたことは先にのべました。
それ以外にも、公明党支援のために外部の友人に電話をかけたり、「聖教新聞を購読してくれないか?」と頼んだりしたとき、やはりイヤがられたことが多々ありました。
人間関係がそこまで深くない人もふくめて、わずかでもつながりのある外部の友人に総当たりをすることが、学会組織では行われていました。
それこそ、卒業アルバムの名簿に載っている同学年の全員にアポイントをとるような感じです。
これで、だれにもイヤがられない、なんてことはまずあり得ません(学会員でない読者のみなさんから「そりゃそうだ」という声が聞こえてきそう……)。
ぼくは、なるべく相手にイヤな思いをさせないよう、せめて信頼関係をしっかりつくってから、折伏や公明党支援の依頼をしようと努めてきました。そのほうが相手からの反発も少ないのです。
しかし、活動の現場は「成果主義」に追われています。外部の友人との信頼関係の構築は、まったく間に合いません。
ぼくはジレンマを抱えつづけました。
また、たとえば創価学会のリーダーは、自分が担当する組織の所属メンバーの家々をまわる「家庭訪問」という活動をしています。仲間のお宅を訪問して近況を語ったり、会合に誘ったりするのです。
その際、相手が学会の信仰に消極的なメンバーだった場合には、アポイントなしで相手の家を訪問することがあります。事前にアポイントをとってしまうと、相手が(学会のリーダーと会いたくないので)外出してしまう可能性があるからです。こうしたアポイントなしの訪問も、メンバーからイヤがられました。


自分がされたくないことは、相手にもしてはいけない

中国の有名な古典『論語』(岩波書店)には「己れの欲せざる所、人に施すこと勿かれ」という有名な句があります。ここではシンプルに「自分がされたくないことは、人にもしてはならない」という意味でとらえてください。
ぼくは、これは真理だと思っています。というか、こんなことはわざわざ書くまでもないレベルの話でしょう。
それだけに、そうできない自分に悩みました。だから、その都度、ぼくは懺悔しました。
学会員のなかには、「いや、折伏という正しい行為をしてあげている」んだから、いつか相手はその真心に気づくよ」という人もいましたが、ぼくにはそういった自己正当化が肌に合いませんでした。
信仰活動から離れたいまも、ぼくは懺悔しつづけています。

 

 

Q:教団の過度な成果主義に身も心も疲れ果ててしまいました。

A:過度な成果主義に疲れ果てたとしても、慣れてはいけません。 


創価学会では、地区や支部、本部といった組織単位ごとに目標を立てて活動を行います。折伏の数や、外部の友人が聖教新聞を購読してくれた数、公明党への支援を外部の友人にお願いした数、実際に投票してくれた数といったものを、「成果」として追いかけるのです。
それが過剰な成果主義となって、少なくともぼくの知る地域では、学会員をかなり悩ませていました。
宗教2世である菊池真理子さんが書いた『「神様」のいる家で育ちました』(文藝春秋)という本には、創価学会員と思われる女性(著者のお母さん=菊池さん)が、ま さに聖教新聞の購読依頼の数に追われる姿が描写されています。
菊池さんが所属していた組織は、その月の目標が未達だったのでしょう。
「数を出さなければ」と焦る2人の学会員の横で、菊池さんが新聞の依頼を4件達成してみせました。
すると、2人の学会員は安堵。「またよろしくね」といいながら、すぐにその場を立ち去りました。
その直後、菊池さんは叫びます。
「私がどんな思いで頭を下げてると思ってるのよ!!」
そう、本の中の菊池さんは目標を達成するために、「なんとか1ヵ月だけでも……」と新聞をとってもらうよう、何度も頭を下げて、お願いしていたのです。
成果主義が苛烈になると、そういったプロセスはあまりかえりみられず、数字だけが注目されたりします。菊池さんは、精神的に不安定になっていきました。
これが、成果主義の弊害です。


過度な成果主義がみんなを不幸にしている

このような状況を、いったいだれが望んでいるのでしょう?
たとえば、創価学会の幹部で集まって飲み会をしたときのこと。
ざっくばらんにみんなで盛り上がるなか、ぼくは「学会の成果主義って行き過ぎだよな」といいました。
すると、その場にいた全員が同意してきます。
つづけてぼくが、「成果主義で数字ばかり追って、外部の友人にはイヤな思いをさせて、創価学会も嫌われて、学会員自身も苦しい思いをして。こんなの、早くやめたほうがいいよ」と語ると、みんなはやはり「そうだよな」「俺もそう思う」と賛同してきました。
多くの幹部は、成果主義に辟易していたのです。

でも、そうはいっても、みんなが「そういうものだからさ」といって済ませてしまう。
「成果主義、変えていこうぜ」というふうにはならない。
多くの人が望んでいない成果主義が、だれも反対しないがゆえに、現場に横行していたのです。
ぼくはそういった現状を見るにつけ、「このままではいけない」と思うようになりました。
少なくとも、この現状に「慣れて」はいけないと感じました。
そう、慣れてはいけないんです。絶対に。

(つづく)

 


解説
活動の現場は「成果主義」に追われています。外部の友人との信頼関係の構築は、まったく間に合いません。
ぼくはジレンマを抱えつづけました。(中略)

信仰活動から離れたいまも、ぼくは懺悔しつづけています。

過度の成果主義が創価学会組織のガンですね。
この体制を作り上げたのが池田大作氏である以上、私は池田氏を手放しで賞賛することはできません。


獅子風蓮



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