★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

古い機械に新しいことばを

2017-07-19 23:19:14 | 思想


『闘走機械』――なんかこう、中年になっても暴走族をやっている感じがする題名であるが――、原題は「冬の時代」らしい。全然違うではないかっ

わたくしも高校後半あたりから大学にかけて、「ポストモダン」などと騒がれていた書物などを一生懸命読んだ口で、しかし全く分からなかったので結局、様々なものを復習する羽目になったのであるが――、最近あらためて、ドゥルーズ=ガタリを何冊かめくってみると、思ったよりも古風な人たちであるような印象を受ける。要するに、彼らは古い機械と化した思想を組み替える新しい言葉を一生懸命探していたのであろう……。それは、先日のポランニーみたいな人たちの目指す科学と案外近いところにいたのかもしれない――しかし勝ったのは、彼ら思想家ではなくテクノクラートだった。

翻訳しか読めないのであれなのだが、このガタリという人は、こんな風になめた口調でしゃべる人なのであろうか。ドゥルーズとどういう会話をしながら本を書いたか知らないが、全く話が通じない同士が、しばしば「新しい言葉」をむりやりつくりだして意気投合することはよくある話であって、彼らもそうだったのかも知れないと想像した。

雨降ってコンクリートの上を流れ去る

2017-07-18 23:24:48 | 思想


今日は、雷雨が突然やってきた。

雨降って地かたまる、ということが教育現場ではたぶん必要であるが、いまの我々の生活環境と同じく、雨が降るとコンクリートの上を水が流れ去るただの洪水になってしまうことが多い。

我々の社会は、子どもを学校や文化でロマン主義の対象として愛でることで、男女関係はもとより政治的な問題からも逃避してきた面があるが――、そういう我々をくさす言説は、さすがに以前より多くなってきたのではなかろうか。「芽むしり仔撃ち」的な愛で方ならまあ許せたが、AKBや「心のケア」的宗教がここまで猛威を振るうようになると、薄々何かバランスがおかしいなとみんな思い始め……

わたくしも、シャルル=ルイ・フィリップの「アリス」なんかを以て、子どもの純情さを主張することには反対である。ここにでてくる、生まれてきた弟に嫉妬して餓死する女の子をどう考えたらいいのか、これはほぼシャルル・ポヴァリーの頓死みたいなものではないかと思うが、なにが何だか分からないことはどちらも一緒である。確かに、なんとなくしおらしいのも一緒ではある。子どもは生まれてきた姉弟に嫉妬するが、餓死せずに彼らに暴力を振るったりするものであるし、シャルル・ポヴァリーが妻よりもっとすごい浮気をしていた可能性は捨てきれぬ。だからといって、餓死が暴力的ではないというのは的外れだ。

たしか、『〈子ども〉の誕生』のアリエスが紹介していたが、17世紀のどこかの国では、銃や剣を持ってたら校長に預けなさい、という校則まであった。いまだって、教員は、そんな怖れを子どもに感じているのだが、隠しているだけである。特に最近は、子どもの背後にはマスコミや親という怪獣がひかえているからおとなしくする訳である。しかし、教員も子どもと全く同じ人間であり、その状態を続けることは出来ない。

ただ、わたくしは、近代の様々な抑圧によってなかったことになっていた性質が噴出してきたからといって、リセットしてやりなおせとは思わない。ルソーが「子どもの魂のまわりに柵を作れ」といった、その柵の作り方は非常に複雑な工夫が常になされてきた。「雨降って地固まる」方法を誰かが自慢もせずいろいろなかたちで開発してきたのである。ほとんどは失敗するのだが……。

それはすごくゆっくりとした進歩の条件であって、いけないのは、雨を振らせないようにするとか、コンクリを剥がしてしまうことだと思う。子どもが心配なのはわかるが、特に国家、マスコミ、親たち、そして教員達も自重して欲しいと思う。

手に結びつつ

2017-07-18 22:09:50 | 文学


霊山近き所なれば、詣でて拝みたてまつるに、いと苦しければ、山寺なる石井によりて、手にむすびつつ飲みて、「この水のあかずおぼゆるかな」といふ人のあるに、
 奥山の 石間の水を むすびあげて あかぬものとは 今のみや知る
といひたれば、水のむ人、
 山の井の しづくににごる 水よりも こはなほあかぬ 心地こそすれ
帰りて、夕日けざやかにさしたるに、都の方ものこりなく見やらるるに、このしづくににごる人は、京に帰るとて、心苦しげに思ひて、またつとめて、
 山のはに 入日の影は入りはてて 心ぼそくぞ ながめやられし


「むすぶ手のしずくににごる山の井の あかでも人に別れぬるかな」(紀貫之)。この場面の前提となっているのは、この歌である。紀貫之の歌は、以前、和歌の専門家の先生にお聞きしたのだが、「想像されているよりも優れている歌が多い」そうである。

最初の孝標の娘の歌は賢しらな気がするが、ちょっといい女の子が「この水は恋の水なのよ、しらないのかしら」ととなりで言えば、どきどきしてしまうのは当然である。どうもこの娘、自分が可愛いことを前提で動いており、だから猫まで動員していたのかもしれないのである。

羞恥心のある漢は自分を猫には喩えない。犬どまりである。まあ、おもうのだが、猫も犬も手は可愛い。

B えええ、杖をついてやっと歩く位の年寄だから牛乳壜はもとより、お爺さんはそこへ転んだのですって。Cさんはびっくりして抱起しながら、
「お爺さん怪我はなさらなかって? まあ御免なさいな」
「なんの、お嬢様。すこしも怪我はござりません。こう年をとりましてはねっから身体が不自由であなた」ってそのお爺さんが言うんですって。Cさんは、そのお爺さんを、そのお爺さんの家まで送って、自分でその日の牛乳を配達したんですって。それからずっと今日まで、毎日学校へ来る途次、お爺さんの配達のお手伝をなさるんですって。
A まあねえ。それであんなに足が大きくなったんだわねえ。
B あたしはこう思うの。Cさんはそんな大きな足や手を持っていらっしゃるからこそ、忙しい仕事も出来るし、あんな立派な事が出来たのだと思うわ。
A 全くそうねえ。
B 私達の小さい手でも、私達の手に出来ることは何んでもして好い事だったら為ましょうねえ。
A きっとね。それで美しい手の意味がわかったわ。


――竹久夢二「大きな手」


こういうことを言うておるから、文化からエロティズムがなくなってゆくのだ。

暑いですね3――「カルテット」

2017-07-17 22:09:43 | 日記


書き忘れたので、以前みた「カルテット」の感想…。

「それでも生きてゆく」の脚本家(坂元裕二)の作品で、かちかちっと終末に向かって話を詰めてゆく様が、さすがであった。満島ひかりの複雑な演技が、案外映画よりも連続ドラマでこそじっくり説得力を持つことを証明したのも、彼のここ数本のドラマであったと思う。

感心したのは、だれかを悪役だと視聴者が思いかけるところで次々とそれが覆され、通俗的な和解も離叛も制裁も拒否されていたところである。彼らを結びつけている音楽についてもそうで、彼らはプロでもアマチュアでもないグレーゾーンの実力で、実際聴衆をうならせるほどの演奏は出来ていないようだ。最後のホールでの演奏も、まあ演奏者のスキャンダルがらみでたちの悪い観客が多かったとは言え、たぶん「本当に下手だな」と思った人たちも多かったはずである。だから、藝術としての音楽が、人間関係を救う話では全くない。そのような映画はよくあるが、あれは多分に現実逃避的でありその意味で通俗的である。

面白いのは、嘘をつかなければ世間では生きてゆけないような過去の境遇をもつカルテットのメンバーに対し、お人好しそのものであるようなライブレストランの夫婦とか、そこで働く有朱のようなシニシズムに浸りきって「正直で真っ直ぐ」(主人公の真紀の言葉)みたいな人間たちの人生を崩壊させることに快感を覚えるような人物が、非常に面白く描かれていたことであった。特に有朱の場合、最後のホールでの演奏会の場面で、白人のイケメンとカップルで現れ「人生チョロかった!!」と大見得を切るところがいい。こういうタイプは、自分の人生がうまくいかない時には、たいがい善人を抑圧する側に立ってひどいことをするだけなのであるが、成功してしまうと案外もともと素直でカルテットのメンバーとは全く別種ではあるが「正直で真っ直ぐ」である性格が発揮されるものなのである。最後の場面ではそんなところが垣間見えた。ここで、有朱をドラマが悪人として葬ってしまうと、悪人は磔にせよ、みたいな通俗性に陥る。

で、結局メンバー達の紐帯を切れさせなかったのは、彼らの「正直で真っ直ぐ」な感じをお互いに認め合ったからというのもあるけれども、それは彼らがことごとくメンバー同士の片思いの愛を断念したことによるのも面白かった。このドラマで最初に問題になっていたようにみえたのは、嘘や偽善に対する真実とは何かという問題で、ドラマは恋愛感情や夫婦愛、親子の愛情、あるいはそれらの両立が真実性を持てなかった事態を次々に証明していった。その意味で、有朱のような空気の読めない人物が言った「みんな嘘つき」みたいな発言は表面的にはその通りだったのであり、しかし、有朱がリアリストとして嘘にまみれた人生をさしあたり選択するのに対し、嘘や偽善に対しては真実ではなく――なぜなら真実は彼らにとっては残酷すぎたから、「だいたいの真実」が分かったところであとは「正直で真っ直ぐ」という態度を選ばざるをえない事態にメンバー達はおいつめられ、――同時に救済されてゆくのである。確かに、心底の真実性が問題になってしまう恋愛や夫婦愛、親子の愛は彼らの得意分野とも相性が悪かった。彼らは中途半端な音楽家で、――音楽は、愛や真実というより、「正直で真っ直ぐ」にやるしかないものだからである。そこに結局は、落ちついたのである。

ただ、そんな顛末をむかえたのは、カルテットのメンバーのプライベートなトラブルがあまりにも多すぎたという背景を持っていたからに他ならない。普通は、もうちょっと「正直に真っ直ぐ」とか「偽善」とかをおりまぜつつ真実を偽造する努力をする、――誰かが我慢に我慢を重ねるものである。本当はこのドラマでもそうで、結局、かれらが共同性を守れたのは、ライブレストランの仲睦まじい夫婦と、別府司(別荘を貸し食事をつくりごみを出し……)という真面目な世話係がいたからに他ならぬ。調子こいた芸術家もどきや性悪娘に比べて彼らの評価が最後まで低すぎる。かれらが評価されるのはいつの日のことか……

あと、みんなもっと練習した方がいいんでない?

ポランニーのマイケルの方――「暗黙知の次元」

2017-07-16 20:29:16 | 思想


昨日はマイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』の読書会があったので参加してみた。以前、この書は佐藤氏の訳で読んでいたのだが、今回、ちくま学芸文庫の高橋氏の訳で再読できた。

ポランニーが主張しているのは、人間の知的な認識プロセス(つまり暗黙知)に対するある種の信頼である。この本を読んでみると暗黙知とは、自然に自転車に乗れるようになったよおれの暗黙知すごい、といったものにとどまらない。――、むしろ、生物の進化も自転車乗りも量子論の発見も同じように暗黙知に支えられているのであって、更には科学者集団においても、その理想的な――「一貫性が自己調整機能によって確立され、対等な者同士が権威を及ぼしあい、任務はすべて各々が自分自身に課すという、そんなコミュニティ」を、暗黙知への信が支えるはずだというのである。その信がないところでは実は現実問題として人は生きられないし、科学はちゃんと発展しないのである。

つい、文学の徒は、「やった!機械主義的な科学者より、包括的的存在=真実を掴んでいる文学研究の俺様の方がすごい。」とか喜んでしまいがちなのである(実際そういう輩を知っている。過去のわたくしである)が、そんなことはない。ポランニーは、科学的社会主義の国に住むブハーリンに「もうソ連の方針以外の科学はありえない」といわれて衝撃を受ける。ポランニーはそこで、おしなべて科学的と称する精神の運動がかえって科学を迫害し始めていることに気がついた。ブハーリンのような真実を掴んでいると思っている輩からジャまされない優秀な科学者のユートピアはこれからありうるのか。読者会の参加者の一人が言っておられたが、彼は「もう一つのソ連」を夢見ていたのかもしれない。5ヶ年計画とか言っている連中は、既に分かっている成果の拡大、そういう機械的な目標設定しか出来ない。いまの日本もそうだが、中期計画とか科研費の5年計画とかで求められるエビデンス(笑)とは、つまりはノルマ達成の言い換えに過ぎないのである。ポランニーは、このような科学的いや、実証主義的・機械論的な風潮は、暗黙知に対する(科学的)懐疑主義の結果だといいたいのであり、ゆえに、如上の実証主義・機械論と、全てを懐疑した結果、虚無のなかの何かの決断をそそのかす実存主義をともに攻撃することになる。

ただ、どちらかというと、わたくしは、科学者というより実存主義からも更に堕落した文学の徒なので――、むしろ、ポランニーが攻撃している、ソビエト帝国主義(科学者は5ヶ年計画に従ってればいいんだよ)と、実存主義(世の中は糞、控えめに言って虚無である。そのなかで何かを決断しよう、あとは知ったことか)の気分がなぜ生じるかということにより興味がある。ポランニーは研究には、「問題の孤独な予知」みたいなものがあるのだと言っているが、――確かにある。それは学者にもあるが、たとえば巷では、「局長としての立場でがんばるわたくし」とか「ヒトラーのTシャツを着ているすごいおれ」みたいな「孤独な予知」があるから、これは普遍的なものだ。わたくしは、ポランニーと違って、このような愚劣な人間達の思考過程も含めて、暗知の導くプロセスのうちにあると考えている。なにしろ、本人としては、ポランニーがいうところの「創発」であり「不意の確証」なんだから――、違うか。やつらの場合は暗黙知ではなく、暗知みたいなものであろうが、要するにその差違はを連れている(ポランニーみたいに動物に興味があるかどうか)かいないかに過ぎないのだ。しかたがない、自分がの場合は暗知は他の人間、いや主人が担っている訳である。

ちなみに、ポランニーは、道徳感覚は人間の「個性」のレベルとして出現するという非常によいことを言っていた。科学者には道徳は宗教みたいに見えるかも知れないが、そうではないのである。個性そのものが道徳であり、つまりは暗黙知をドクマでねじ伏せたりしない、「任務は全て各々が自分自身に課す」状態が自然に出来る状態そのもののことである。親や友と仲良くいざとなりゃ陛下の云々みたいなものは全てがその正反対であり、5ヶ年計画、いや皇紀二六〇〇年計画に過ぎない。

だから、ポランニーは、戦後文学でいえば、小田切秀雄と大江健三郎に対する、無頼派みたいなものであろう、とわたくしには思われた。チャランポランニーみたいな

You're in such good shape.She's in such good physical shape. Beautiful!

2017-07-16 17:13:34 | ニュース

●You're in such good shape

"You're in such good shape. She's in such good physical shape. Beautiful," Trump told the French President's wife, who was standing next to first lady Melania Trump. (http://edition.cnn.com/2017/07/13/politics/trump-brigitte-macron-handshake/index.html)

……今さら驚くまでもなく、寅んぷというのはこういう男→https://www.youtube.com/watch?v=KMwMZ2nOd7E

http://digital.asahi.com/articles/ASK776SQ8K77UZOB00W.html?rm=268

週末も返上の厳しい部活でしたが、吹奏楽は大好きでした。練習がなくても親友とふたりで楽器を吹いていたくらい。なのに、最上級生になってまもなく、一時的に部を離れることになってしまいました。
部のルールを守らない新入生を、友達と一緒に注意したら「部活が怖い」と。注意したのは、その子たちが好きだからで、きつく言ったつもりもなかったけれど、先生に怒られ、退部しなければならなくなった。
でも、どうしても続けたかった。後輩に謝り、部員全員にお願いしました。そんな私たちに、みんなは言ってくれました。「一緒にコンクールに出よう」


……不気味なエピソードである。私も吹奏楽部にいたから、未熟な集団のなかに「理不尽に威張り腐る(しかも下手な)先輩」というものが出現することは知っているしあれな場合があることは分かる。上の場合も、吉岡氏がどのような人間なのか知らないし、どのような部活だったか分からないのでなんともいえない。中学高校に限らず、仲が悪くても何があっても、音楽だけに真実があることをわからない人間は多い。吉岡氏の上の記事では「まわりの音を聴け」というありがちな主張になってしまっているが、もっと言えば「音楽をしろ」が重要なのである。(吉岡氏は、出演したドラマ「カルテット」でそれを自覚したはずである)――それにしても、結局、いちばんダメな奴に勇気を出して注意した人間が逆に謝るしかないという、信じがたいが、あちこちで起こっている出来事が、ついに美談として語られ始めたのだ。教員の皆さんには、こういう出来事によって、子どもが、日本語や心を真実より嘘の側に乗せる癖をつけていることを自覚してもらいたい。確かに部活の場合目指されているのは、藝術よりも音楽、いやもっといえば仲間をつくる練習なのかもしれないが、そして学校制度のなかでは、部活のなかにしかそれが可能ではない事情があることは知っているが、――それが音楽である限り、全ての人間が無条件に共有できる可能性はないのである。

で、こんな集団づくりばかりやっていると、こういう人が目立とうとしてしまいます。明らかに被害者です。
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12122-99757/

……NHKも塀江もなぜそんな中学生の妄想のなかの糞壺みたいなレベルでしゃべりあっているのであろうか?どこが「平和を祈念するTシャツ」だ。急に思ってもゐないこと言いおって、そしてわたくしの同じような体型しやがって。最近はアーレントを相対的に批判する流れであーだこーだ頑張ってる人たちがいるというのに……。

https://news.nifty.com/article/domestic/government/12136-403360/

……She's in such ************

暑いですね2

2017-07-14 22:57:19 | 大学


その時窓の前の長屋の方で、豊々と云う声がした。その声が調子と云い、音色といい、優しい故郷の母に少しも違わない。豊三郎はたちまち窓の障子をがらりと開けた。すると昨日見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻えして下から豊三郎を見上げた。

――漱石「声」


今日は、漱石の「声」(「永日小品」)の演習。漱石が面白くなってきました……

暑いですね

2017-07-13 23:44:47 | 大学


自分の杯に親しまないのを知ったお兼さんは、ある時こういう述懐を、さも羨ましそうに洩らした事さえある。それでも岡田が顔を赤くして、「二郎さん久しぶりに相撲でも取りましょうか」と野蛮な声を出すと、お兼さんは眉をひそめながら、嬉しそうな眼つきをするのが常であったから、お兼さんは旦那の酔うのが嫌いなのではなくって、酒に費用のかかるのが嫌いなのだろうと、自分は推察していた。
 自分はせっかくの好意だけれども宝塚行を断った。そうして腹の中で、あしたの朝岡田の留守に、ちょっと電車に乗って一人で行って様子を見て来ようと取りきめた。岡田は「そうですか。文楽だと好いんだけれどもあいにく暑いんで休んでいるもんだから」と気の毒そうに云った。

――漱石「行人」

恋する四月物語

2017-07-11 20:05:50 | 映画


松たか子が松本幸四郎の娘だと最近知ったわたくしですが、この調子だと、他にもいろいろと有名な人は有名な人の子どもなのかもしれないと思い、調べてみたところ、重要な人物を一人二人発見したのですが、忘れました。

この「四月物語」は、大学院の頃上映されていたのは知っていたのですが、松たか子は、何とか言うトレンディドラマで、木村拓哉とラブホテルでカラオケしている映像が何か猛烈にいやで(特に、木村拓哉の長髪があまりにミットもなくて、ブラウン管の前ではさみを構えてしまいました。噂によると、第一話の最後に松たか子が勝手にそのロン毛を切り落とすそうです。わたくしはそこまで耐えきれなかった模様。)、松たか子がアナ雪で大ヒットをとばしている時も、ラブホテルで長髪のイメージから抜けきれないまま今にいたっていたのですが、一部授業で問題にせねばならぬため「四月物語」を観てみました。

監督は、岩井俊二。わたくしの世代は、「Love Letter」や「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」で、岩井俊二みときゃ女子の心がわかるとか言っているバカが大量にわいたセンスがよくなった気になった経験を持つ世代(違うと思う)で、岩井俊二は文学よりすごいかなどの議論を部室でした者も多いに違いない。岩井俊二、妙な生々しさで青少年の心を拐かす、かつあげ系の監督と言って良かろう。

「四月物語」は、北海道の風景を武蔵野にも当てはめたら文学的になったという柄谷理論をそのままやったような作品であった。実際に、主人公は訳あって独歩の「武蔵野」を高校時代に愛読(でも、読みながら電車で爆睡。難しすぎたのだ)

北海道のクラシック少女が、バンドをやっていた先輩を追いかけて東京の同じ大学に入ってしまい、先輩のバイト先(武蔵野堂)でついに再会する(ここまでだいたい1時間)。と、雨が降り出し、傘を貸してやるよ、いや近所なのでいいです、貸してやるよ、失礼します、と逃げ出したら、豪雨になってしまい、美術館の前で雨宿りしていると、美術関係のおじさんが傘を貸してくれたので、「傘買ってきます」という見え見えの嘘をついて先輩のもとにトンボ帰り。そして、先輩から借りた壊れた赤い傘から弾けおちる雨粒のなかでなんだか満足そうでかわいい主人公→終わり。

なんだこれ、松たか子のプロモーションビデオではないか。(と思ったら、本当にもともと彼女のミュージックビデオをつくるつもりだったらしいのだ)感動したので、正気を保つため批判を加えておこう。

・高校時代、オーケストラの少女がバンドのギタリストに恋をする(……ありがちな話であるが、実際は、クラシックの教育を受けたものは、バンドのギター男などゴキブリだと思っている可能性の方が高い)

・男がバンドをやる理由→モテるため(真実)なのである。こんなこともしらんのか松たか子は。

・そのゴキブリギタリスト、大学に入ってギターやめてるみたいだよ。はやく目を覚ませ松たか子。オーケストラに入って、クラシック好きと恋愛せよ。

・90年代に大学に入ったわたくしの経験をふり返ってみるに――、松たか子が入居したようなワンルームも多かったが、わたくしは共同下宿賄い付きに入ったぞ。こっちの方がいいぞ、寂しくないから、お隣の人にいきなりカレーをつくってやるという恐ろしいことをしなくてもいい。その代わり、生きよ堕ちた、みたいな先輩と友達になったりして、人間仲良くすればいいというものではないという自明の理を学び自立に向かって歩み出すのである。

・松たか子の入学した武蔵野大学ってなかなかおしゃれじゃないか。「米帝粉砕」の立て看がない。90年代のチャラ男ども死にさらせ。我が青春の蹉跌に呪いあれ。

・松たか子は、関東に引っ越してきたのに、なぜ傘をいつも持ち歩いてないの?バカじゃないの?

……わたくしのシニシズムに詛いあれ。しかし、このドラマにはあまりにも葛藤以前的であって、恋ではなく信頼とか真実とかは、葛藤の末に現れるものであろう。我々はそのことを忘れがちである。

吾輩は猫である。名前はまだ無である。

2017-07-09 18:56:10 | 文学


小林敏明氏は、ほとんど木曽と言ってよい中津川の出身なので、勝手に親近感があったが、廣松渉の弟子にしてはあんまり師匠に似ていない気がする。ただ、あの凶悪な木刀みたいな文体を持つ師匠の弟子だけに、これまた漱石的に言えば、凶悪なとぐろを巻く文体の持ち主である西田幾多郎論をいっぱい出していて、わたくしもだいたい読んでいる気がする。ただ、西田の方にまじめにシンクロしているのは最近では清水高×氏の論(結構これがおもしろい)などであって、小林氏はどことなく荒正人とか佐々木基一を思わせるところがある。

いま演習で漱石をやっているから――、個々の作品が全くよく分からないのによく漱石論を書いてしまうよな、という思いはするのであるが、――前にも言ったけれども、漱石を読んでいると何か深遠なことを語りたくなってしまい、実際様々な論者が漱石以上に哲学的になり煩悶し始めるのだからすごい。その意味で、確かに漱石と西田幾多郎は同じ薫りがする。

本書の内容は、何かいろいろな研究のエッセンスをくっつけた感じがするのであるが、よく分からん。漱石論の歴史はよく知らないのだ、もうね、スカした論文が星の数ほどあってね、それぞれが漱石が岩崎の野郎を罵倒するみたいに「筆誅!」という意気込みで書いているのだから、ある意味怖いわ。というわけで、ちゃんと一冊まるまる読んだのは、『アンチ漱石』と『漱石私論』と『漱石序説』とあと一〇冊ぐらいか……ああ、みんな漱石好きだなあ…………まあ、柄谷×人の漱石論なんかも、木村敏の西田解釈を使っているから、漱石と西田みたいな感じになってますしね……

私の思春期の自慢は、湾岸戦争の頃、「再度、西田がクルね」と予言してしたことである。やっぱりキテいる。当たり前である。有名なのに訳分からないのは必ず定期的にクル。

しかし、最近の鬱病アスペルガーの流行は、ほぼ「煩悶の否認」みたいなところがあって、小林氏が、漱石や西田にメランコリーの泥沼をことさら見いだしているのは、激烈なその「否認」に対する批判なのである。メランコリーに対する否認は権威や敗残への屈服であるからだ。最近は、「ポスト真実」を批判したり、嘘つきを批判することでそんな否認へと至っている人々がたくさん出てきている。

カブトムシ

2017-07-08 23:31:46 | 日記


丈夫な中型のがよし。なぜか、大型のは、空洞がある気がしてしまう。

それはともかく、わたくしはカブトムシをみると漱石を思い出すのである。――「漱石子の事業はこれらの敗徳漢を筆誅するにあり」という漱石。