★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

原付的日常

2017-07-04 23:51:30 | 文学

長寿大学の授業を終えて、大雨の中を原付でなんとかかんとか


原付と言っても、スーパーカブに恐ろしくこだわる人がいるのは知っているが、上はたぶん珍しいスーパーカブのライトノベル。

学生が推薦してくるライトノベルを時々読むようにしているが、だいたい三段論法みたいな小説が多く、テーマもなんか、私の確立みたいな、武者小路から変態性と宗教性を取り除いた感じの、いや、那須正幹の作品からやる気を取り去ったような……感じが一見する。しかし、武者小路や那須にあった目的意識とか友情みたいな観念が絶滅した世界で生きるための知恵を探しているのがホントのところだろうと思う。しらんけど。

この小説の構成もあっさりしたもので、弁証法のふりをした正反合みたいな、形式論理みたいな――展開であった。なぜかといえば、肝心なところで絵はがき的な風景が現れて主人公達の思考が止まるからである。それまでの主人公達の日常は非常に悠長としたものでほとんど何もない。この何もない感じが最後に、ぐんとスピードが上がって風景が現れる。それじたい運転のような小説とも言えるのであるが、若者ののぞむ日常の変え方そのものも示しているような気がする。流れているけれども何もない、その川の流れのようなものに比べれば風景は鮮やかに見えるのだ。そのとき、川の流れも実は何もなかったのではないのではないことが分かるという訳で……

バイクを介して仲良くなった二人の女子は――生まれた環境、学校、自分の孤独を突き抜けて、機械みたいにメンテナンスも改良もされうる「私」を得る。物語もそこで終わる。何か、オタク的な自我の確立と思わないではないが、確かに、バイクを盗んで走り出すあほんだらとか、立松和平『光の雨』の、バイクを使って性行為を行うバカップルなんかよりも、この小説の二人の女子の方が人としてまとも、つまり常識にとって改革とは何かという問題が分かっている気がしないでもない。考えてみれば、この小説はある意味で非常に差別的である。主人公二人が賢いという設定になっているからだ。

私は、若者がこのようなゆったりとした、しかもバカではない物事の解決の仕方を求めているのかもしれないことを、軽視すべきではないと思う。

しかし、結局、いま、世の中を変えうるのは、原付やコンテンツなどの「もの」なのかもしれない。彼らはそれだけは直観しているからずっとスマホをいじくっているのであろう。