ここに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉の宿りを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕の繭をいとなむがごとし。これをなかごろの栖にならぶれば、また、百分が一に及ばず。とかくいふほどに齢は歳々にたかく、栖は折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねを掛けたり。そのあらため作る事、いくばくの煩ひかある。積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他のようとういらず。
長明は、その人生の儚さに徹底していない。末葉の宿りとか繭とか言ってみても、安部公房の繭ほどにも物質性に欠け、露にも粟にもまだなりきっていない。その証拠に、建材を二台に積めば運賃以外はかからないとか、どうでもよいことで武装している。おそらく彼は自分の人生に納得していないのだ。
撤退線に於いては、いろいろと理屈を繰り出す人たちが多いが、理屈の一貫性がないと寝覚めが悪かろうというものだ。
ところが、残念なことに、我々は、衰退のさなかにある国家や組織におけるリーダーを、その腐ってゆく体裁に即した腐った人物に任せてしまう性がある。
さいきんの政治家やら何とか長の失言や失策は失言や失策ではなく、その程度の馬鹿がその地位に就いている――というか、我々が腐った肉体は腐った精神とともに葬るほかはないと思っているから、そういうのを戴く選択をしたのだ。それは一種の加速主義ではあるが、腐る速度に合わせているだけだから、むしろ時間がかかっているといってよい。
――長明はその点、本当は世の中が腐っているとは思っていない。河の流れだと思っているわけだ、だから自らを根本的には顧みないのである。我々は河の流れではなく、腐ってそのその腐葉土の中から出てくる芽なのである。我々は鴨長明よりシュペングラーやゲーテに従うべきだ。
ドイツ人は現実に存在するものの複雑なあり方に対して形態(Gestalt)という言葉を用いている。生きて動いているものは、こう表現されることによって抽象化される。言いかえれば、相互に依存しながら一つの全体を形成しているものも、固定され、他とのつながりを失い、一定の性格しか持たなくなってしまうのである。しかしありとあらゆる形態、特に有機体の形態を観察してみると、変化しないもの、静止したもの、他とのつながりを持たないものはどこにも見いだせず、すべてはたえまなく動いて已むことを知らないことがわかる。だからわれわれのドイツ語が、生み出されたものや生み出されつつあるものに対して形成(Bildung)という言葉を普通用いているのは、十分に根拠のあることなのである。
我々はまたビルディングスロマンの時代に帰るであろう。