どうして僕に指名したりなどしたのだろう。ぎょっとした。立って行って、黒板に書いた。両辺を二乗すれば、わけがないのだ。答は0だ。答、0、と書いたが、若し間違っていたら、またこないだみたいに侮辱されると思ったから、答、0デショウ、と書いた。すると、たぬきは、わははと笑った。
「芹川には、実際かなわんなあ。」と首を振り振り言って、僕が自席にかえってからも、僕の顔を、しげしげ眺めて、「教員室でも、みんなお前を可愛いと言ってるぜ。」と無遠慮な事を言った。クラス全体が、どっと笑った。
――太宰治「正義と微笑」
昨日「開目抄」を読んでいたから、つい「二乗」と聞いて「二乗作仏」のことを思い出してしまった。二乗とは縁覚と声聞で、どちらも自分が悟ることだけに興味がないために成仏しないという見方があるが、日蓮はどちらも本来菩薩なり、といういうわけで、成仏を認めるのであった。上の人物にしたところで、二乗したらいいじゃんかと問題を解いたら、みんなに笑われたのであった。
それにしても、教えに乗るという感覚はおもしろいものだ。帰依とも信奉とも違う。教えに乗ると、電車からの眺めのように、世界が斜めに倒れて動いてゆく。
今日学会で話題になっていたカーライルの「英雄崇拝論」のなかのムハンマドなんか自らが乗り物という感じであり、自分がゲームの主体みたいな感じなのではないだろうか。「怪傑マホメット」なんかは読んでなかったので、今度読んでみたい。末尾にカーライルが引いてあったような気がする。