伏石町にある蓮池であります。私は、水と言えば流れるものをイメージするので、こういう池ですら怖い。
昭和十三年四月の碑
誓約書云々
わたくしは、上のような治水の碑と地蔵菩薩などは一続きのものと考えますね――どう一続きかはこれから考えます。
南方熊楠が激烈に当時批判したように、明治の終わりには、神社の合併が政府によって行われ、各地にあった祠などが神社に押し込められたり、壊されたりしているはずなのです。どれだけの小さな神様や鎮守の森が壊れてしまったことでしょう。それと、この近辺のような水の争いがあったところの関係は……
少し南側には、
いつもの人たちがひっそりといました。
南隣には、
太田幹線水路碑(昭和三四年)
蓮池改修工事記念碑(平成十一年)
上の地蔵菩薩がそうですが、いまでも記念碑をふくめた広義の「祠」は作られ続けていると言ってもみてもいいかもしれません。昨日訪ねた大権現なんか、鳥居の前にスポンサーの創立何周年の碑が建っているのでありまして……これはその成立事情を批判すべきものというより、会社も神社もどちらも神社のみたいなものだということなのです――