生き霊と言えば、六条御息所がすぐ思い浮かぶけれども――考えてみれば、死霊なんかがこちらに作用を及ぼすのは大変であるに違いなく、むしろ多いのは生き霊ではないかと思うのだ。
「今昔物語集」の「近江國の生靈、京に來たりて人を殺す語」なんか、けっこう整ったストーリー展開であり、男に捨てられた女が旅人に道を聞いてまで相手の男をの呪い殺しに来るのである。で、道を聞かれた男が、その女の家に行ってみると、まだ女は生きていて、
「さる事有るらむ」とて、呼び入れて簾超しに會ひて、「有りし夜の喜びは、何れの世にか忘れ聞えむ」
と言うのであった。男は、食事をおごられた上に土産までもらってしまったという。語り手はわざとらしく、
これを思ふに、さは生靈と云ふは、只魂の入りてする事かと思ひつるに、早ううつつに我も思ゆる事にて有るにこそ。此は、彼の民部大夫が妻にしたりけるが、去りにければ、恨を成して生靈に成りて殺してけるなり。されば女の心は怖しき者なりとなむ、語り傳へたるとや。
とか言っている。女の心は怖いねえ、とあるが、最後に土産などくれるところ、全くこの女は生き霊でもなければ狂ってもいない。思うに、この民部大夫、遊びすぎてどこかで病気でももらってきたに違いない。実際、生き霊とは、かかる人間の生み出すデマがほとんどであろう。ただ、中田考も言うておるように、大概われわれは馬鹿なので、そのことを自覚しているとは限らない。
しかし、世の中、もしかしたら、生き霊みたいなものがあると思われることもある。組織にいると、報復人事みたいな分かりやすいのは生き霊とは見えないが、どうやったかは分からんが、どうみても復讐だろう、みたいな現象が生起することがあるのだ。こういうのは生き霊としか言いようがない。
言霊とはよくいったものである。最近のリベラルの言葉がなぜダメなのかはいろいろ理由があるけれども、まったくの印象でしかないが、言葉が生き霊ではなくなっているというのがある。自民党でも、以前の石破氏には生き霊があったが、最近はない。小沢一郎もそうだ。対して、例の「生産性がない」発言で騒がれている杉田水脈にはいろいろな意味で生き霊が感じられる。やはり、わたくしは、言行一致というのが大事だと思わざるを得ぬ。学者でも、普段からリベラル風なことを言うてる輩でも「論文の生産性」とか言いつつ目立つことばかり考えるやつからは生き霊が徐々に感じられなくなってしまった。杉田や安倍がたいした思想を持っていないのは明らかであるが、問題はそこだけじゃない。
女の怨みはすごかったのであろう。しかし彼女は実際に自分の足で捨てた男の家まで歩いて行った。そして世話になった男にはお礼もした。この態度が物事を成就させたのであった。