『現認報告書 羽田闘争の記録』を観た。10・8というのは山崎博昭氏が亡くなった事件として有名であるが、この事件が有名なのは、氏の孤立においてであって、このあとの運動の性格に決定的な影響を与えているというのが、一般的な見方ではなかろうか。
とはいっても、最近は、運動が、あたかも共産党とか中核派の指導によってのみ展開していたかのような、みずからの奴隷根性を反映させただけの見方が横行しているので、上のような常識的な見解も一応押さえておくべきである。
ドキュメンタリーの中で、学生たちが「貧しい考えかもしれないが」、「人間的にどうなのだ」、「自分はどうなのだ」と自問しているのは印象的で、かれらにとって倫理とは、そういうことを問い返す行為そのものである。
しかも、彼らの感情は、アメリカやソ連共産党の対立ではないものを考えなくてはならなかった新たな事態に対する反応に他ならないから、まったく素直な反応(現認)なのである。
ただ、このような反応は、案外倫理としての効力の方が大きく、八〇年代以降の教育などにかなり役に立っていたのではないかとも思われる。そのかわり、政治的行動や過去の分析など、果ては「作品」を生成させる方向を看過する傾向がより拡大された面は否めないのではないか。
吉本隆明が八〇年代、存在感を増していた蓮實重彦かなにかに、世の中を変えるのはご託じゃなく作品しかないのだ、死ねっ、みたいな悪口をどこかで言っていたように思うが、――蓮實に言うことが妥当かどうかはともかく、確かにそうなのだ。吉本にも責任があったとしても。
そんな「作品」欠乏症によるフラストレーションは、常に敵に対して倫理を問う行動に戻る。これまたネット社会には向いていた。
で、わたくしは、彼らの演説を、「長歌」としてきちんと洗練できないかどうかを考えてみた。
――無理であった。