★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2021-05-09 23:09:25 | 文学


つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りて、拝みたてまつる。石上もまことに古りにけること、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。その夜、山辺といふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、経すこし読みたてまつりて、うちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らかなる女のおはするに参りたれば、風いみじう吹く。見つけて、うち笑みて、「何しにおはしつるぞ」と問ひたまえば、「いかでかは参らざらむ」と申せば、「そこは内裏にこそあらむとすれ。博士の命婦をこそよく語らはめ」とのたまふと思ひて、うれしく頼もしくて、いよいよ念じたてまつりて、初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺に詣で着きぬ。祓へなどして上る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稲荷より賜はる験の杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり

夢は現実に起こっていないことを経験する怖ろしいものであって、しかも、見ていたけれども忘れてしまった、ということが屡々起こる。我々はこんなことが、夢でなくとも起こることを次第に発見する。更級日記のお嬢さんの夢はわりと現実的なかんじであるが、本当はどんな夢をみていたのかかなり怪しいと言わざるを得ぬ。「風いみじう吹く」こととか、「物を投げ出づるやうにする」といったイメージが不安というより何かを振り払う様なイメージであらわれる。悪夢でも見ていたのかも知れない。

しかしまあ、こんなかんじで、自分のことで精一杯のいい歳のお嬢さんに好感がもてるのは、大概のいい歳の人は、もっと他人への敵意でどうにもならなくっていることが多いからである。彼女は宮仕えへの迷いのごとき、かなり若いときに経験する悩みを延長させているのだが、これは文化を扱う人間にとっては別に悪い事ではなく、必然だとも言えるのである。彼女は、大して人生を経験せずに仏道にのめり込んでいるが、源氏物語がお経になっただけで、文学者のよくある変遷みたいではないか。

さしあたり自由だから、こんな変遷をたどれるのである。普通は人間関係で煮えたぎるボイラーみたくなってきて、テキストどころではなくなってくる。

グローバル資本主義の陰謀で、あらたな虚礼が沢山でてきる昨今であり、まわりをみていると、日本の家父長制度?みたいなものや虚礼にたいして反抗するそぶりで、勝手に自分を評価しない人間を既得権益と決めつけて、自由人を気取っていた連中がいまや、なにか贈与みたいなものにたよって人間関係の確保に躍起になっている例がかなりあるが、――一種の転向である。むかしのマルクス主義者にも、転向、いや本当は学習過程にすぎないようなことを深刻にとらえて人生を感じていた連中がおおくいたが、――彼らといまの転向者は異なる。彼らはリベラルみたいな改革者の言の口まねをしていたが、どちらかというと、本質的に成金やヤクザまがいが方便を使っていたみてよい。本人たちは、どちらかというと、自分の尊厳とかコンプレックスのせいにするかも知れないが、原因ということで言えば、自分以外を勝手に軽蔑してしまうタチの悪さにそれはある。

すなわち、もともと虚礼なんか自分が負けるわけにゆかない人間に対してしていなかっただけで、やっと最近は権力までたどりついたので、選択的に敵意を創出していたのが、選択的に好意を振りまけばいいだけになっただけかも知れないわけである。なぜ、このような輩に我々が下手に出なければいけないのか意味が分からない。

――こんなかんじで、現実を地道につくり良心的に行動してきたつもりの人間もよけい心を静める必要性から、宗教書などをひっくり返し始めることも屡々あるのだが、たいがい宗教書というのは、人の心を鎮めるよりも、この世の仕組みの解明に向かっている。だから、そういうものでは人生は終わらなくなってしまうのが、凡夫の悲しさだ。

もしかしたら、お嬢さんもそんな悲しさから、風を吹かせたり、稲荷からもらった杉をなげたがったりしたのかもしれない。

藤の森が男で、稲荷が女であると言ふ事は、よく聞いた話である。後の社の鑰取りとも、奏者とも言ふべき狐を、命婦と言うたことも、神にあやかつての性的称呼と見るべきで、後三条の延久三年、雌雄両狐に命婦の名を授けられたなど言ふ話は、こじつけとは言へ、あまりに不細工な出来である。

――折口信夫「狐の田舎わたらひ」


更級日記のお嬢さんも考えてみると、女の人によりひきつけられているといえるかもしれない。それとも、光源氏をあまりに面白がったために、女への眼差しを体得したのか?


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