★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

せめて比較

2022-05-23 23:11:08 | 思想


慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云はく「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す。同三年河北の節度使忽ち乱を起こす。其の後大蕃国更た命を拒み、回鶻国重ねて地を奪ふ。凡そ兵乱は秦項の代に同じく、災火邑里の際に起こる。何に況んや、武宗大いに仏法を破し多く寺塔を滅す。乱を撥むること能はずして遂に以て事有り」〈已上取意〉。此を以て之を惟ふに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事既に眼前に在り。然れば則ち、大唐に例を残し、吾が朝に証を顕はす。

思うに、我々は自分の国が失策を行っているときに、このように中国でも同じような場合があって、なぜなのかは分からないがこういうのはたぶん因果がありますよ、という単純なことすら出来なくなっている。これは、自分の失策だけをみつめて、自分の失策の原因だけに集中するような行き方を強いられていることと関係がある。だから、自分に対しては異常に神経質だが、外側で起こる単純な出来事がわからなくなっているのである。わたくしもそういうところがあるから危機感は常にあった。

そういう閉じ方をすると我々の世界はホームドラマとなってゆく。日本の大河ドラマはなぜかずっと日本の時代劇なわけだが、まあ閉じてるっちゃとじてるわけで、リアルだなと感じれば感じるほど我々は自分の顔を覗き込んでいる。今回の「鎌倉殿の13人」なんかがそうだが、二葉亭の「浮雲」を殺し合いにした感じである(違うか)。わたしはいままで大河ドラマはほとんど見てきていないんだが、たぶん歴史ドラマが写実主義的にホームドラマ化してきててあれなので、とりあえず八犬伝に帰るという手があると思う。いまのCGならイケル。

昨今の大河ドラマは、平家物語以来の殺し合いをPDCAサイクルみたいになんかいも修正しながら自意識過剰に陥っているのではなかろうか。我々のブリコラージュの本能は、かくして我々をつくりあげている。

最后に善財は彌勒を訪ねる。彌勒は永久の次代の王者を意味し、彼の前に未来の国家を展開する。その中には河脈をめぐる共同体の連結による無数の国家群が入り重って、複雑なアジア的生産様式の純粋な型をしめしている。いつでも純粋生産ののぞきからくりを重たげにかついでくる彌勒は、しかし純粋王者のこの青年を内陣え入れてくれない。彼を導くのは仏母文珠の外にはない。アジア的生産の典型的な表現であるこの母なる男性は、普賢すなはち「貴族の常識」に彼を紹介する。普賢は裏切りを繰り返すたびに、自ら万有の推移力と自称する。彼はアジア的な微積分の重複し合った前期封建の宝城の中に、善財を見出させる。

――槇村浩「華厳経と法華経」


だからといって、危機感をこう説明してしまうと、これはこれで元気になりすぎる輩が出てくる。

日蓮にもおそらく危機感はあったのだ。そのとき彼の基礎教養が、原因はここにありと告げた。間違っているかもしれないが、こういうアクションを起こさなくてはならないことがある。それはお告げのような、韻律のような何かである。空海は歌ったが、日蓮は怒ったのである。


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