其處より發たして、當藝の野の上に到ります時に、詔りたまはくは、「吾が心、恆は虚より翔り行かむと念ひつるを、今吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ」とのりたまひき。かれ其地に名づけて當藝といふ。其地よりややすこし幸でますに、いたく疲れませるに因りて、御杖を衝かして、ややに歩みたまひき。かれ其地に名づけて杖衝坂といふ。
故郷に帰りたいヤマトタケルだが、伊吹山で大変なめにあったので、都とは逆方向に落ちてゆく。足がいたんでいる。軍人としてはもうおわりである。どうしてこんなことになってしまったのか。だいたい、不幸は突然やってくるが、そんなときに、自分の心がどこからかやってくるもので、「吾が心、恆は虚より翔り行かむ」というかんじでやってくるのである。ここでヤマトタケルは、自分の心という存在にそもそも気がついたのではあるまいか。彼が兄の殺害から始まって人を殺め続けてきたのも、「虚より翔り行かむ」という心だったのである。もっとも、こういう天翔る心の人はあまりいない気がする。わたしなんて、心がやってくるときには、だいたい畳の上に身じろぎもせず座っている姿ばかりがみえる。
K君は病と共に精神が鋭く尖り、その夜は影がほんとうに「見えるもの」になったのだと思われます。肩が現われ、頸が顕われ、微かな眩暈のごときものを覚えると共に、「気配」のなかからついに頭が見えはじめ、そしてある瞬間が過ぎて、K君の魂は月光の流れに逆らいながら、徐々に月の方へ登ってゆきます。K君の身体はだんだん意識の支配を失い、無意識な歩みは一歩一歩海へ近づいて行くのです。影の方の彼はついに一箇の人格を持ちました。K君の魂はなお高く昇天してゆきます。そしてその形骸は影の彼に導かれつつ、機械人形のように海へ歩み入ったのではないでしょうか。次いで干潮時の高い浪がK君を海中へ仆します。もしそのとき形骸に感覚が蘇えってくれば、魂はそれと共に元へ帰ったのであります。
――梶井基次郎「Kの昇天――或はKの溺死」
この場合は、心は心身二元論みたいなものにとらわれている。それがまた別の領域をつくって幻想をみせにくる。