★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「死に至る病」音楽篇

2018-04-04 23:26:04 | 映画
録画していた「四月は君の嘘」をご飯を食べながら観た。主演は、広瀬すずと眼鏡のひょろっとした男(誰?)。ともに中学生?。

男の方は、幼児の頃から天才ピアニスト・人間メトロノームと言われたやつ。コンクールで優勝したのに先生(=実のお母さん)は褒めてくれないどころか、ミスが多すぎと平手打ち。で、「おまえなんか死んでしまえ」と言い放ってしまった結果、病気のお母さんは本当に死んでしまった。――それがトラウマで、ピアノを弾いていると途中で音が聞こえなくなるという得意技の持ち主。で、ピアノは休養中。

広瀬すずはバイオリン弾きで、ほんとは不治の病なのであるが、上の人間メトロノームに憧れて、同じ中学に入ったのを契機にうまいこと接近して伴奏者にしてしまう。病気を隠しながら二人で、「人生には自由はないが音楽には自由がある」という、芸術家特有の不治の病的哲学を実現、――コンクールで曲をやり直すという自由を実現したりする。二人は、芸術家特有の不治の病的勘違いで相思相愛に――二人で、橋の上から川に飛び込んだりして、もはや完全に発狂状態である。しかし、彼女の死に至る病気が判明して、人間メトロノームは「また自分が人を殺そうとしている」と想到し、またまた弾けなくなってしまう。

一方、こういう芸術家特有の不治の病が全く理解できないところの、人間メトロノームの幼なじみの女子(←こっちも結構かわいい。というか、こっちの方がかわいいような気がしないでもなし)は、普通の……と思いきや、中学になっても、自分の恋愛感情に気づかないという――スポーツをやりすぎてこれまたなにか狂っている。人間メトロノームに告白したがフラれて大泣き(←わしゃ、ここが一番泣けたね)

人間メトロノームがピアノの音が聞こえなくなるのは、音楽が母親という存在そのものであったからであって、彼女がいない以上、音も消えてしまっていたのであった。しかし、広瀬すずへの恋情(自由な音楽への恋である)によって母親=トラウマを、心の中の「音楽」として揚棄して乗り越え、本物のピアニストに成長。ピアニストは、音楽をただやればいいというもんではなく、心に「音楽」を持っていなくてはならないのであった。というわけで、母親も広瀬すず(もう少しで死にます)ももう現実には存在する必要がない、というよりむしろ、存在してもらっては、トラウマになってしまうので、消えていただくしかない。

というわけで、母親につづいて、広瀬すずも消えてしまった。コワッ



確かに、「不如帰」や「せかちゅう」など、ただの病妻ものよりは、殺人テクニックとしては筋が通っているとは思うが、広瀬すずを病死させたのはいかん。だいたい、何で死ぬのがいつも女子なのであろうか。どっちかというと、死ぬのは男であるべきだ。男は芸術家として死ぬべし。

まあ、この映画は広瀬すずのプロモーションビデオなので、最後に地味な女の子時代の広瀬すずを眼鏡をかけさせて映してたけど、これがいい。このキャラで、人間メトロノームを病死に追い込む映画を撮ってほしい。


結論1、クラシック音楽の映画なのに、BGMが連ドラ風の劇伴、しかもエンディングテーマが生物班長なのはどういうことであるか。
結論2、要するに、この映画は、音楽を心の表出ではなく、心そのものとしての存在として崇高化しているのであるが、それはあまりにも自由主義=個人主義的な芸術観である。上のわたくしの戯文のように、どちらかを殺すしかなくなるわけである。音楽にそういう側面があることはまあ否定できないが、……しかし、まあ、音楽はそこまで思い詰めなくても出来上がるような気がしないでもないし、クソみたいな人間ともアンサンブルはできるし、基礎練習は大変だよ……。