oregonian way of life. 

オレゴンでの学生生活から南下して社会人生活へ。IT産業でホットなサンフランシスコ・ベイエリアで地味~に文系の仕事してます

人間と動物の関係はどう変遷したか?

2007-04-02 | 動物の死体
わたしがずっと疑問に思っていたのが、肉食に対する現代人と古代人の考え方の違い。で、本棚を昨日整理していたら『Beyond Beef』(1992年)という本が目に付き、その中にわたしの疑問に答える記述がありました。あるジャーナリストが牛肉の歴史とその文化的&社会的な意味について考察した本で、その本の重要性はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年)に匹敵する、と評価する方もいます。

で、その『Beyond Beef』の主張の一つが、現代社会においては機械などのテクノロジーが人間と動物の関係を仲介しているのとは対照的に、古代社会では人間と動物はパーソナルな関係だった、ということ。古代の人間にとって動物は、家畜、野生に関わらず身近な存在。狩猟社会における儀式を含めた社会生活は、野生動物との関係が中心になっていたとか。一方、牧畜社会においては人間と家畜は共存し、日々の仕事を手分けしてこなしていたそうです。このような社会においては人間は、人間と動物との間には大きな違いがないと思っていたとか。人間も動物も同じような身体構造をし、取る行動も同じ。人間だけではなく動物だって考えるし、愛情を示したり子どもを守ったり。それに、将来子どもが独立して生きていけるように知恵を授けたりもする。

人間と動物の間に類似性を見い出した人間にとって、動物を殺してその肉を食べるのは罪の意識を生み出すもの。古代の人間は、殺傷に対する罪滅ぼしの手段として様々な儀式を執り行ったのだそうです。ある文化圏においては、狩猟者は殺傷に対して動物の許しを請い、復讐しないように懇願していたのだとか。ある狩猟社会では、肉を食べた後にその動物の骨を集めて元の形に復元したり、フォーマルな埋葬を行って殺した動物に対して恩義や感謝の念を表したりしたそうです。

時代を下ってメソポタミアやギリシャなどの初期の文明社会においては、寺院は崇拝の場所であっただけではなく、「食肉処理場」。寺院において聖職者が儀式の最中に牛などを殺傷し、殺した動物の心臓などを神に捧げていたのだとか。このような儀式を行うことによって罪の意識を和らげ、殺傷に対する罪滅ぼしができるようにしていたそうです。つまり、動物の命を奪ったのは人間ではなく神である、ということ。古代バビロニアの文書(?)によると、動物を殺した聖職者がその動物の耳に、「この行為は神によってなされた。わたしはやっていない」とささやいていたとか。

しかし、ユダヤ教や後のキリスト教は、神への犠牲や生贄という考えを削除。殺傷による罪滅ぼしをしたり神に生贄を捧げたりする必要はなく、自分を「万物を創造した神」と同一視、というか神に近い存在だとすることで、動物を殺傷してその肉を食べることを正当化したのだとか。つまり、古代では多少なりとも「人間と動物は同じ」と見なしていたとするならば、キリスト教においては、「人間は動物よりも神に近い」という考え方をしていたようです。17世紀以降啓蒙思想が発達すると、「動物を含めた自然は人間の実用本位のために存在する」という考え方が出てきたうえ、19世紀中旬にダーウィンが進化論を唱えると、動物よりも「進化」した人間が他の動物を食べるのはある意味当然、というような考え方も出てきたそうです。同時期にアメリカなどでは畜産業の工業化が進み、「死」や「殺」が精神的にも物理的にも遠くなったのは先日述べたとおり。マーフィーさんが先日、「人間の潜在意識には、殺業は悪いことというのがあると思うんです。だから、食肉処理場(動物の処刑場)は山奥にあるんだと思います」とおっしゃられていたように、殺傷に対する罪の意識は完全に消滅しないので、食肉処理場を大勢の目に触れない僻地に移したり、「牛の死体」などと呼ばずに「牛肉」と呼ぶことで消費者の食欲をそそっていることは、これまでこのブログで述べたとおりです。

ちなみに、『Beyond Beef』には日本における人間と動物の関係に関する記述はないけれど、わたしが以前読んだロハスに関する本によると、日本には江戸時代まで「自然」という概念や言葉がなかったとか。少なくとも現在のように、人間界と自然界をきっちり分けていなかったのです。そんな社会においては他の社会と同じように、人間と動物はパーソナルな関係を持っていたのではないでしょうか。

人間と動物の関係が古代からこのように変遷してきたというのは、肉食の是非を別にして、食によって自分の生命を支えている人は知っておくべきことじゃないかな。現代の先進国においては、「肉は心臓病や癌の原因」など、人間(の肉体)中心的な考えだけで「肉」を判断することが多いけれど、肉の生産や消費というのは倫理や環境などにも関わってくること。何事にも部分的ではなく全体論的な見方をすることがこれからの時代は必要だとするならば、人間や動物&自然との関係も人間中心的に見るのではなく、生命体中心的な見方が望ましいのかも。

(写真は、いつものようにわたしのベッドで昼寝中のDinky。わたしよりもよっぽど寝相がいいし、確かに人間と動物の違いってそんなにないのかも。映っている手は、撮影を邪魔して遊んでいた下宿先のお子チャマのです)

人気blogランキングへ

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。