わたしが好きな本の一冊が、アメリカ環境史研究の第一人者、ウィリアム・クロノン教授が著した『Nature’s Metropolis(自然のメトロポリス)』(1991年)。中西部の大都市、シカゴが19世紀、周辺地域から穀物や木材、それに家畜などを集め、それらを基盤として産業の中心地となっていった過程を克明に描いています。
この本の中に、食肉生産の産業化とその影響に関する章があります。クロノン教授が指摘する影響の一つが、"殺"や"死"が多くの市民から遠い行為になった、ということ。19世紀中旬頃までは各個人、または各コミュニティで動物を殺して肉を得ていたのが、食肉工場がシカゴに集中するようになると、"殺"や"死"という行為を実際に見たり意識したりする機会がなくなったそうです。それに、シカゴで動物から食肉へと"変身"し、冷蔵されて汽車で各地に運ばれて店頭に整然と並べられても、「この商品はかつて、自分のように息をしていたんだな~」などと消費者が思い起こすことはない。つまり、食肉生産の近代化において消費者は、"食べる"というのは"死"が絡む道徳的行為だということを忘れてしまった、とクロノン教授は述べています。
えっ?自分はプランタン/ベジタリアンだから殺した生き物は食べていない?動物の死体を直接自分の口に入れなくても、機械を使用して穀物の収穫をしているとモグラなどの生物を知らずに殺しているらしいので、間接的とはいえ、他の生き物の命を奪う上で自分の命を支えていることには変わりがない。そういう意味で、日本語の「(命を)いただきます」は理にかなっているのでしょうか?
マーフィーさんがオートメーション化された犬猫の殺処分について書いていたように、近代化に伴って「死」という行為に対する意識が薄くなったのは、19世紀のアメリカ中西部だけではなく21世紀の日本も同じようですね。日本社会における肉食の繁栄とオートメーション化された犬猫の殺処分というのは、リンクしていると思います。どちらも、「殺」や「死」が物理的にも意識の上でも遠い。動物の「殺」や「死」が多くの人間から遠い現代社会で、人間と動物の関係に疑問を投げ掛けているという点では、アニマル・ライツという概念や活動は評価できると思います。そこで思い出したのが、ある作家の"子猫殺し"。誤解を恐れずに言えば、マーフィーさんの記事に出ていた行政に”処分”を任せた人よりもその作家のほうが、動物の"死"を意識して自ら"殺"に直面したという点で評価できるのかもしれません。
人間界と自然界だけではなく、人間と動物も明確に分離する現代社会。肉の需要が高まれば高まるほど比例して殺される動物は多くなるけれど、皮肉なことに、そんな動物が直面する「殺」や「死」に対する意識が消費者には皆無・・・。と言うより、そんな意識がないから肉食が繁栄する?やっぱりこの現代社会って、摩訶不思議。
(上の写真は、丁度半年前に訪れたマサチューセッツ州にあるシェーカーズ・ビレッジ内で撮影。肉を食べる是非を巡って、シェーカーズ教徒の間でちょっとした論争があったとか。ちなみに、写真のような牛を自らの手で殺してまでその肉を食べたい消費者って、どのくらいいるんだろう?)
人気blogランキングへ
この本の中に、食肉生産の産業化とその影響に関する章があります。クロノン教授が指摘する影響の一つが、"殺"や"死"が多くの市民から遠い行為になった、ということ。19世紀中旬頃までは各個人、または各コミュニティで動物を殺して肉を得ていたのが、食肉工場がシカゴに集中するようになると、"殺"や"死"という行為を実際に見たり意識したりする機会がなくなったそうです。それに、シカゴで動物から食肉へと"変身"し、冷蔵されて汽車で各地に運ばれて店頭に整然と並べられても、「この商品はかつて、自分のように息をしていたんだな~」などと消費者が思い起こすことはない。つまり、食肉生産の近代化において消費者は、"食べる"というのは"死"が絡む道徳的行為だということを忘れてしまった、とクロノン教授は述べています。
えっ?自分はプランタン/ベジタリアンだから殺した生き物は食べていない?動物の死体を直接自分の口に入れなくても、機械を使用して穀物の収穫をしているとモグラなどの生物を知らずに殺しているらしいので、間接的とはいえ、他の生き物の命を奪う上で自分の命を支えていることには変わりがない。そういう意味で、日本語の「(命を)いただきます」は理にかなっているのでしょうか?
マーフィーさんがオートメーション化された犬猫の殺処分について書いていたように、近代化に伴って「死」という行為に対する意識が薄くなったのは、19世紀のアメリカ中西部だけではなく21世紀の日本も同じようですね。日本社会における肉食の繁栄とオートメーション化された犬猫の殺処分というのは、リンクしていると思います。どちらも、「殺」や「死」が物理的にも意識の上でも遠い。動物の「殺」や「死」が多くの人間から遠い現代社会で、人間と動物の関係に疑問を投げ掛けているという点では、アニマル・ライツという概念や活動は評価できると思います。そこで思い出したのが、ある作家の"子猫殺し"。誤解を恐れずに言えば、マーフィーさんの記事に出ていた行政に”処分”を任せた人よりもその作家のほうが、動物の"死"を意識して自ら"殺"に直面したという点で評価できるのかもしれません。
人間界と自然界だけではなく、人間と動物も明確に分離する現代社会。肉の需要が高まれば高まるほど比例して殺される動物は多くなるけれど、皮肉なことに、そんな動物が直面する「殺」や「死」に対する意識が消費者には皆無・・・。と言うより、そんな意識がないから肉食が繁栄する?やっぱりこの現代社会って、摩訶不思議。
(上の写真は、丁度半年前に訪れたマサチューセッツ州にあるシェーカーズ・ビレッジ内で撮影。肉を食べる是非を巡って、シェーカーズ教徒の間でちょっとした論争があったとか。ちなみに、写真のような牛を自らの手で殺してまでその肉を食べたい消費者って、どのくらいいるんだろう?)
人気blogランキングへ
だから、食肉処理場(動物の処刑場)は山奥にあるんだと思います。
マッカートニーじゃ無いですが、食肉処理場がスーパーの店頭にあれば…と考えたりします。
日本の場合、畜産は同和対策事業のひとつで、発展してきた経緯もありますから、深く広い問題がありますね。
つまり、被差別や在日コリアンの雇用促進にも渡りに船だったのでしょう。最近では、刑務所から出てきた人の就職先にもなってます。
ですから、雇用問題も平行して制作立案されないと、畜産業界の主張は曲がらないな~と感じます。