マーフィーさんとKuramaponさんの間で活発な議論が交わされている、キリスト教と肉食の関係。そのテーマについて書かれている一冊の本が、『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見』(鯖田豊之著、中公新書92)。1966年に初版が出版され、30年後には52版が出ています。この本の第3章、キリスト教と肉食の関係について議論しています。ヨーロッパ人にしろ、キリスト教の元になったユダヤ教を信仰していたヘブライ人にしろ、元は牧畜民族。家畜が身近にいたヨーロッパでは、自分たちで育てた家畜を、自分たちで殺して自分たちで食べていました。と聞くと、現代の日本人だったら、そこまでして肉を食べたくない、と思う人も多いのでは。でも、なぜヨーロッパ人は平気でそんなことができていたのでしょう?
キリスト教(カトリック)は、人間と動物の間にはっきりと一線を引き、人間をあらゆるものの上位においたから、と鯖田さんは主張しています。旧約聖書には、人間は「神の似姿」であり、他の動物を殺して食べる権利があることが、はっきりと記されているとか。日本の神話の中で、大国主命が白兎となごやかに話す、つまり、人間と動物が対話する場面は、旧約聖書にはほとんどないそうです。戦後、あるフランス人がある日本人に、「牛や豚は人間が食べられるために神さまがつくってくださった」と言ったのも、「人間と動物は別物」という見方が根付いていたからだそうです。こんな考え方をしていたヨーロッパ人の多くが、進化論を信じたくなかったのも頷けます。人間は猿から進化した、つまり、人間が猿とつながっているなどという考えは、人間と動物の間に一線を画していたキリスト教信者には受け入れ難かったでしょう。
ちなみに、第3章の第1サブタイトルは「動物を殺す動物愛護運動」。一見すると矛盾語法(oxymoron)的なこのタイトル。昔は自分たちで育てた家畜を殺して食べ、現代でも家畜の頭だって平気で食べるヨーロッパ人。そんなヨーロッパ人が動物愛護運動に熱心なのはなぜか、という疑問に答えています。
鯖田さんによると、「残酷」という意味が、日本人とヨーロッパ人の間では異なるのだとか。日本人にとっての動物愛護とは、動物を人間と同様に扱い、動物を絶対殺さないこと。よって、動物愛護を実践するには菜食でなければ、と考える日本人が多数派。しかし、欧米諸国の動物愛護運動は、動物を殺すこと自体は決して残酷ではない、と考えるそうです。ヨーロッパ人は、飼い犬の面倒をみきれなくなるとあっさりと殺してしまうけれど、日本では殺したりせず、生かしたまま捨てます。ヨーロッパ人からみたら、犬を捨てて、その犬が野犬化したりするほうが残酷なのだとか。欧米諸国の動物愛護協会が、動物を殺すことを必ずしも残酷視しないのも、「人間と動物の断絶」、つまり両者を同一視しないことに原因がある、と鯖田さんは言っています。
1966年に書かれたこの本。その後ヨーロッパにおける肉食に対する考え方は、変わってきているのかもしれません。ヨーロッパの事情はわたしは知りませんが、少なくともアメリカでは、60年代以降多くの若者が、体制派のバックボーンになっていたキリスト教に反旗を翻し、仏教などに帰依していったのも事実。欧米のビーガンが、「動物に対しても『compassion(思いやり)』を」と言っているということは、人間と動物を同一視している証拠だと思いますし。けれど、ヨーロッパ人の肉食の歴史や、肉食を容易にしていたキリスト教の役割などに興味のある方、この本の一読をお勧めします。
キリスト教(カトリック)は、人間と動物の間にはっきりと一線を引き、人間をあらゆるものの上位においたから、と鯖田さんは主張しています。旧約聖書には、人間は「神の似姿」であり、他の動物を殺して食べる権利があることが、はっきりと記されているとか。日本の神話の中で、大国主命が白兎となごやかに話す、つまり、人間と動物が対話する場面は、旧約聖書にはほとんどないそうです。戦後、あるフランス人がある日本人に、「牛や豚は人間が食べられるために神さまがつくってくださった」と言ったのも、「人間と動物は別物」という見方が根付いていたからだそうです。こんな考え方をしていたヨーロッパ人の多くが、進化論を信じたくなかったのも頷けます。人間は猿から進化した、つまり、人間が猿とつながっているなどという考えは、人間と動物の間に一線を画していたキリスト教信者には受け入れ難かったでしょう。
ちなみに、第3章の第1サブタイトルは「動物を殺す動物愛護運動」。一見すると矛盾語法(oxymoron)的なこのタイトル。昔は自分たちで育てた家畜を殺して食べ、現代でも家畜の頭だって平気で食べるヨーロッパ人。そんなヨーロッパ人が動物愛護運動に熱心なのはなぜか、という疑問に答えています。
鯖田さんによると、「残酷」という意味が、日本人とヨーロッパ人の間では異なるのだとか。日本人にとっての動物愛護とは、動物を人間と同様に扱い、動物を絶対殺さないこと。よって、動物愛護を実践するには菜食でなければ、と考える日本人が多数派。しかし、欧米諸国の動物愛護運動は、動物を殺すこと自体は決して残酷ではない、と考えるそうです。ヨーロッパ人は、飼い犬の面倒をみきれなくなるとあっさりと殺してしまうけれど、日本では殺したりせず、生かしたまま捨てます。ヨーロッパ人からみたら、犬を捨てて、その犬が野犬化したりするほうが残酷なのだとか。欧米諸国の動物愛護協会が、動物を殺すことを必ずしも残酷視しないのも、「人間と動物の断絶」、つまり両者を同一視しないことに原因がある、と鯖田さんは言っています。
1966年に書かれたこの本。その後ヨーロッパにおける肉食に対する考え方は、変わってきているのかもしれません。ヨーロッパの事情はわたしは知りませんが、少なくともアメリカでは、60年代以降多くの若者が、体制派のバックボーンになっていたキリスト教に反旗を翻し、仏教などに帰依していったのも事実。欧米のビーガンが、「動物に対しても『compassion(思いやり)』を」と言っているということは、人間と動物を同一視している証拠だと思いますし。けれど、ヨーロッパ人の肉食の歴史や、肉食を容易にしていたキリスト教の役割などに興味のある方、この本の一読をお勧めします。
それを認めないと
争いが起こるのは当然かもしれません。
「認め合って、歩み寄ること」
個人的な人づき合いから
世界的なコトまで
全部の中の基本であって一番重要なことですよね。
東南アジア地域は、農業中心で生きていける温暖な気候だったから、動物にも優しい宗教が生まれたのでしょうね。(今の日本は動物に優しいとは言えないのが悲しいですが・・・)
作家の曽野綾子さん(カトリック教徒)が好きなので、キリスト教には、以前から興味があります。教えていただいた本、さっそく読んでみますね。
世界中の人がみな蘭丸さんのような考えてあれば、世界は平和でしょうね。そういかないところが、問題なんですが・・・。
ikuraさん、
牧畜民族が置かれていた状況がどうだったのか、わたしは分からないので何とも言えませんが、実際、動物を殺して食うしか、生きていく道がなかったのかもしれません。今の日本やアメリカがそうだとは思いませんけど。
Kuramponさん、
この本によると、動物に対する考え方が、ヨーロッパ人と日本人では根本的に違うようですね。キリスト教に限らず、宗教と食の関係は、調べてみるとおもしろそうですね。
マーフィーさん、
おもしろそうですね。『ダ・ビンチ・コード』に続いてこの謎解きをすると、キリスト教についておもしろい発見があるかもしれません。