「食べ処・身土不二」(札幌)は、身土不二を日本と世界へ発信する。食堂ならぬ食堂、啓蒙運動の発信地。日本よ、滅びるな!

「身土不二」は、解放思想であり、危険思想でもある。

 日本から「身土不二」を発信し、日本と世界を救おう。

「身土不二」と切腹(1)

2007-07-07 06:44:31 | Weblog

 
 武士の切腹は、すぐれて「身土不二の原則」の表れである。

 明治時代までの日本では、過失などの責任をとるに当たって、武士は切腹をした。 

 この切腹が、なぜ、日本人にあって西洋人にないのか。そのわけを解く鍵のひとつは、「身土不二」にありそうである。 

 日本人の腸は、西洋人のそれより約80センチ長いと、いわれる。 草食動物の腸は肉食動物のそれより長い。草食動物は植物を食べるからである。その食物を消化するために、草食動物の腸は長くなる。 

 ところで、日本人の伝統食は、穀物と野菜を主とする植物食である。

  このような食事が日本人の腸を、肉食の西洋人よりも長くしたのではないかと、日本歴史家・樋口清之が、その著『こめと日本人』(家の光協会)で述べている。 

 そして、日本人の腸が長いことが、切腹を可能にしているという。

 日本人の場合、切腹すれば上の臓器の重さで腸が外にはみでるが、ヨーロッパ人では、かりに切腹しても、腸は外にはみださないと思われる。

 ヨーロッパ人は、腸の長さが日本人の腸よりも短いので、腸の重さが軽いからである。 

 穀菜食を食べる日本人では、その腸が長くなって、その結果、腸の重量が増したことが、切腹という文化のあり方にも及んでいると、樋口清之氏は推測している。  

 「日本人の切腹という自刃の意識まで、日本の米がつくったと思われる」前掲書)

 樋口説は、推測(切腹の実験はできない)とはいえ、 「身土不二の原則」の証であると思われてならない。

 日本列島とヨーロッパ大陸では、「環境」という物理的条件が異なる。その違いが、食物の違い(穀菜食と肉食)となり、その結果、日本人とヨーロッパ人とでは、身体の違い(腸の長短・重量) をつくりあげる。

 そして、それぞれの身体が、意識や、生活様式、文化様式(切腹)を形づくる。
 
 
つまり、「身土不二の原則」は、精神文化にまで及ぶということである。

 なお、「身土不二の原則」について、くわしくは、本ブログ2007・6・28「身土不二」は人体実験から生まれた、を参照されたい。
 

 注記) この続きは、明日、ご覧いただきたい。 


食物には「賞味地域」を記載すべき

2007-07-06 07:48:22 | Weblog

 

  最近、外食産業のメニューにも、食物の栄養成分が表示されているようである。

 この
 栄養成分の表示は、食べる人の健康に対する配慮の表れであろう。

 厚労省や日本栄養士会がいう「栄養成分表示」とは、食物に含まれるカロリーとか、栄養素(たんぱく質・脂質・糖質・ビタミン・ミネラルなど)などである。

  だが、これだけでは、片手落ちである。
 もちろん、
「栄養成分の表示」も大切ではあるが、「質の表示」はいっそう大切であるといわなければならない。

 食物の汚染で、「食物の質」が劣化している。
 例えば、ダイオキシン汚染、いろいろな環境ホルモン、遺伝子組み替え作物、ポストハーベスト、食品添加物・・・。

 とにかく、現代の日本では「食の汚染」がひどい。
 このような現状では、食物の「栄養成分」もさることながら、その「質」の低下も、いっそう憂慮されなければならないのではなかろうか。この「質」については、いっこうに表示されていない。
 もっとも、食品添加物だけは、表示されているようであるが。

 食物の「栄養成分」が重要であるとはいっても、それは「質」がまっとうであってのことである。

 「食物の質」といえば、「身土不二の原則」を抜かすわけにはいかない。この「原則」とは、「季節性と地域性」のことである。 

  最近は、旬(季節性)の無視もはなはだしい。
  真冬にトマト・スイカが販売されるなど、旬が無視される。

  輸入農産物の氾濫も目にあまる。輸入農産物とは、地域性に反する食物である。

  栄養成分の表示だけでは、この「季節性と地域性」という「質」にかかわる問題、つまり「身土不二の原則」が無視されてしまう。

  「身土不二」といえば、かつての棡原村(山梨県)の古老である。古老たちは、「身土不二」にかなう食生活をしているがゆえに、長寿であり、痴呆も寝たきりもない。

  同村の長寿者の類まれな健康の源を調査研究して、それが、「身土不二」に適う生活にあることを証明して、日本医師会の最高優功賞を得たのが、古守豊甫・鷹嘴テル両医博であった。 くわしくは、古守豊甫・鷹嘴テル『長寿村・短命化の教訓』(樹心社)をご覧いただきたい。

  食物の表示というからには、この「身土不二の原則」および「安全性」も、表示されなければならないのではなかろうか。

  
国産なのか、外国産農産物なのか。農薬栽培か無農薬栽培なのか。有機栽培か否か。残留農薬の有無。
  
 表示といえば、このブログの筆者の友人、内山英郎氏はうがったことを語っている。「食品には賞味期限が記載されているが、それと同じように賞味地域を記載すべきである」と。

 この賞味地域とは、いってみれば「身土不二」の表示ということに他ならない。

 


朝食は、食べなくても、大丈夫である

2007-07-05 04:44:26 | Weblog

 
 1日3食は、多すぎるともいえる。
 とりわけ、朝食は不要なのではなかろうか。

 2007年6月10日「プラスの栄養学」と「マイナスの栄養学」で紹介したことだが、「現代の仙人」は、1日1食で、しかも野菜ジュースを飲むだけである。
 
 
飽飲・飽食に慣れた人々にとって、「現代の仙人」の食事は、無理であろう。
 
 だが、1日1食は無理でも、1日2食は、このブログの筆者の経験からも、それほど我慢しなくてもできる。
 

 ところで、1日2食の人は、朝食を取らないことが多い。   
 とりわけ、西式健康法を実行されている人々は、朝食をとらない。 

  
栄養士と医師は朝食をすすめるが、朝食は身体に有害という論者が、甲田光雄医博(八尾市)である。

  甲田光雄監修・東茂由著『長生きしたければ朝食は抜きなさい』(KAWADE夢新書)には、朝食不要論が紹介されている。

 同書35ページには、朝食必要論の根拠が挙げられているが、それを要約すると次のようになる。
 
 脳はたいへんエネルギーを消費する器官である。
 そのエネルギーは、すべて(100%)ブドウ糖を使って生みだされる。そのブドウ糖が、睡眠中に消費されてしまう。それを補うのが、朝食である。したがって、朝食をとらないと、思考力や活動が鈍ることになる。

 たしかに、朝食をとっていると、脳はブドウ糖を消費するが、朝食をとらないと、脳はブドウ糖だけでなく別の物質を使うことが、カナダのオーエンス博士によって明らかにされた。前掲書には、次のように紹介されている。

  断食中(朝食抜きは一種の断食)に、エネルギーとして脳が使う諸物質の中で、ブドウ糖はたった30%にすぎない。だから、脳にはブドウ糖が100%必要という医学者・栄養学者の見解は、オーエンス博士の発見に反することになる。

「朝食を食べないとスタミナがでないという考えも、朝食抜きを実践したことがないゆえです。慣れないうちは体に力がでないように感じるでしょうが、1~2か月もつづけて慣れてくると、朝食を食べていたころよりもスタミナがついてくることを実感します」(前掲書38ページ)

 ちなみに、このブログの筆者は、このところ1日1食で過ごすことが多い。この30年間、朝食を食べずにきたが、これまでのところ支障なく生活している。 
  
 いまひとつ、朝食は不要というよりは、朝食は有害であるという甲田医博の見解を挙げておこう。

 午前中は、体内の老廃物を排泄する時間なはずなのに、朝食をとると、その排泄作用が止まってしまう。

「空腹になると、腸は蠕動運動を亢進させて,モチリンと呼ばれる消化管ホルモンがでてきます。この物質は、腸の運動を活発にして、腸管内に残っている内容物を排泄するために分泌されるものです。(中略)モチリンは通常、空腹が8時間つづくとでてきます・・・」(前掲書41ページ)

 朝食をとって空腹でなくなると、このモチリンの分泌が止まってしまい、排泄が止まってしまう。このことは、カナダのブラウン博士が発見し、群馬大学の伊藤漸教授が内視鏡で確認されていると、前掲書41ページは述べている。

 排泄が止まるということは、便秘の原因になりかねない。
 
 
ところで、1日3食は、必然ではなくて、政策的な要素がからんでいる。
 
 米を増産するため、新田開発が戦国時代から始まった。
 江戸幕府の奨励もあって、各藩はさかんに新田開発を行った。

 その結果、江戸中期ともなると、米が余るようになった。その米余りを解消するための米消費拡大が、1日3食の素地となった。ちなみに、江戸時代の中頃までは、朝食抜きの1日2食であった。


 さて、周知のように、わが国の食糧自給率はカロリー換算で40%である。
 
 1日3食から(朝食抜きの)2食になっただけでも、食糧自給率は、大きく向上する。

 さらには、レスター・ブラウンが言うように、世界的規模で予想される食糧不足に備えるにも、1日2食は、全人類へ貢献するに違いない。

食物の生産量を増やすこと」だけでなく「食物の消費量を減らすこと」も、食糧自給率の向上策となる。

 


アメリカ政府は「一物全体食」を取り入れ始めた

2007-07-04 10:49:45 | Weblog

 

  病を克服できるのは、食事に含まれる個々の栄養素によるのではなくて、食事全体(一物全体食)の効果であると、2007年6月25日「まるごとの食事で高血圧を治す」で、述べた。

 食物をまるごと食べる「一物全体食」(米で言えば、玄米)と、部分しか食べない「部分食」(米で言えば、白米)については、昨日(2007年7月3日)、「氣を認めない現代栄養学」で論じた。

 

 さて、その「一物全体食」を、アメリカ農務省が、アメリカ国民にすすめている。

 同農務省は、2005年1月、「食事ガイドライン」を改定した。 その改定では、玄麦・玄米などの未精白穀物(一物全体食)を食べるようにと、アメリカ国民にすすめている。

  これまでの「食事ガイドライン」でも、肉と脂肪を減らして、穀物と野菜と果物を増やしなさい、と述べてはいた。

  だが、その勧める穀物は、「部分食」である精白(白米・白パン)したものでも、「一物全体食」である未精白(玄米・全粒粉パン)であっても、いずれでもよかった。 

 さきの改訂では、「一物全体食」である「全粒穀物」を勧めだした。穀物の半分以上を、未精白穀物(全粒穀物)にしなさいという。

 この勧告は、お米でいえば、白米ご飯の半分は、玄米ご飯にしなさいということである。

  この新食事ガイドラインは、じつに大変なものである。
 明治時代、石塚左玄が唱え、そして後輩らによって受け継がれてきた食養(マクロビオティック)で勧められる食事を、アメリカ政府がその政策に取り入れるとは、画期的といわなければならない。

 改めて、このブログの筆者は、 伝統食を捨て去った日本政府の愚かさを感じる。

  石塚左玄の「一物全体食」は、その提唱からおよそ1世紀をへて、日本政府に先駆けて、アメリカ政府が取り入れたのである。

  このアメリカ政府の決定は、穀物を食べる全世界の人々へ対して、この上ない貢献をするに違いない。

 

 


「氣」を認めない現代栄養学

2007-07-03 04:15:40 | Weblog

 食物から「生命力」を得る。
 ここに、食べることの本質がある。

 食べるということは、単に栄養素とカロリーを摂るだけはなく、「食物という生命力」をいただくことなのかも知れない。

 現代栄養学では、この「生命力」というものが認められていない。

 「生命力」というものが、食物にはある。
 例えば、玄米と白米を比べてみよう。

 玄米は発芽するが、白米は発芽しない。
 玄米には、発芽するという「生命力」があるが、白米にはその「生命力」がない。つまり、玄米は生きているが、白米は死んでいる。

  現代栄養学では、この「生きていること」と「死んでいること」の違いが無視される。

 生きている玄米は「一物全体食」であるが、死んでいる白米は「部分食」である。

 「一物全体食」が推奨されるのは、栄養素が豊富であるだけでなく、人を生かすパワー(生命力)がある、からといってよい。 
 
 「一物全体食」とは、たとえば、大根ならば,葉も、皮も、根も、すべて食べることである。
 (なお、「一物全体食」については、2007年6月25日「丸ごとの食事で高血圧を治す」を参照されたい)

 ところで、「生命力」とは、いったい何であろうか。
 東洋医学でいう「気」(一種のエネルギー)であると、    
 仙頭正四郎『読体術ー体質判別・養生編』(農文協)には書かれている。

 「私たち人間が口にする食べ物は、形を変えたり、加工されてはいますが、もとの姿をたどれば、一部のミネラルを除いて、すべてが動物や植物です。もし、私たちが食べ物として摂取しなければ、まだまだ成長を続け、新たな生命を生む力さえ秘めていた生き物です。その“生命力”を途中で摘んでいるのです」

 「つまり、私たちが、“食べる”という行為によって食べ物から取り入れているのは、体に必要な成分や栄養と同時に、食べ物のなかに秘められた“生命力”だといえます。この“生命力”は東洋医学でいう「気」のこと」。 

 いまの日本人のほとんどは、「部分食」である。
 街の食堂・レストランの食事もそうだが、デパートの地下食品売り場、コンビニ、スーパーなどで売られている食物も、ほとんど「部分食」である。

 「部分食」では、「一物全体食」がもつ「食物の生命力」(食物パワー)が減っているか、あるいは、まったくない。だから、「部分食」では、疾病にかかりやすいのは、何ら不思議ではない。

 現代栄養学は「健康は全体食にあり」ということを無視してきた。この結果が、一億総半病人という惨状である。

 

  


あなたに運動を頼んだ覚えはない

2007-07-01 20:44:32 | Weblog

 

 「身土不二」を広める啓蒙運動にかかわっている。
 このブログを書き続けているのも、ひとえに、
「身土不二」を広めたいがためである。

 身土不二」を広める運動にかかわってきたことから感じていることを述べたい。

 世人には、運動というものについて、錯誤があるようである。

 啓蒙運動にかかわる者(以下、運動者)は、誰からも頼まれないのにかかわらず、自ら好んで運動にかかわっている。だから、お金に困っても、それは自業自得である、というものである。

 このような見方には、運動(者)に対する無知・曲解・錯誤があらわれている。こうしたことも、自分にはかかわりがないと考える近視眼的思考から生まれてくるのであろう。

 運動に無理解な人々からは「誰も、あなたに運動をやって欲しいと頼んだ覚えはないというセリフが聞こえる。そのようなセリフへの回答は、こうである。
 
 「例えば、明治維新である。幕末の動乱を戦い抜き、明治維新実現の原動力となった志士たちは、誰かに頼まれて、明治維新を実現しようとしたわけではなかった。政治運動であろうと、社会啓蒙運動であろうと、運動というものは,頼まれて行うものではない」

 「志士らの倒幕運動が失敗すれば、当時の国際状況からいって、かつてのアジア・アフリカ諸国民のごとく、当時の日本人は、欧米人に支配されたに違いない」

  「そうであれば、今日のような工業国家日本はなく、今日のようなあなたも存在していないかもしれない。あなただって明治維新の恩恵に浴しているではないか。将来の世代に対して、すこしはお返しをするのが、人としての務めであろう

 明治維新とは、欧米諸国からの侵略を防ぐための、国内体制の刷新であった。 だが、その明治維新を経た日本が、いまでは、アメリカに支配され、中国に叩頭し、ロシアにへつらう、情けない国になりはてている。今日の日本は、明治維新を裏切るともいえる。

 

 

 


明治維新の値段は、一体いくらであろうか

2007-07-01 07:38:43 | Weblog
  

 啓蒙運動とは、本来、巨費を要するものである。
 例えば、明治維新である。
 倒幕運動にかかわった薩摩藩・長州藩だけに限っても、巨費が費やされた。いまの貨幣価値に換算すると、何十兆円、何百兆円あるいは何千兆円にもなるであろう。

 高杉晋作とて、下関の豪商・白石から金銭上の支援があったればこそ、あの回天の事業をやりおおせたのである。
 その額は、今のお金にすれば何億にもなろうという金額ではなかろうか。 

 倒幕運動に要したのは、費やされた金銭だけにとどまらない。失われた人命がある。それは金銭に換算するといくらであろうか。

  吉田松陰などの有名な志士だけでなく、多くの「無名な俊英」が悲命に倒れた。これら志士の生命は、金銭という尺度でははかりきれないものではあるが、計算できると仮定すれば、一体いくらになるであろうか。

  現代では、交通事故で殺されても、任意保険から何億円もの補償がある。倒幕という大義に倒れたおびただしい人命は、今日の金銭に換算すれば、それこそ天文学的巨額になることは間違いない。

 啓蒙運動とは、実に金のかかるものである。
 しかも、運動は、その過程では金銭的赤字の連続である。 しかし、累積赤字の彼方には「天文学的黒字」がある。

  いかなる運動も、お金なくてはできない。
  だが、運動は金銭を越えた価値をもつ。
  金銭でもって、金銭では推し量れない価           
 値を造りだす。これが、啓蒙運動というものである。

 幕末の動乱と変革運動が明治維新を生みだした。
 もしも、明治維新がなかったならば、今日、世界に冠たる日本工業はない。いま、わが国の工業全体の資産の金銭的評価となれば、膨大すぎて金銭換算は不能であろう。  

 わが国の工業資産の金銭的評価が、膨大すぎて計算不能ならば、その工業資産の源となった明治維新は、これまた、「天文学的黒字」でなくて何であろうか。