食養は、いまや、その名をマクロビオティックと変えて、欧米諸国から日本へ逆輸入されて流行している。
だが、その流行を手放しでは喜んでいられない。
最近、筆者の古い友人で、食養の活動家M・T氏(京都)が、いまのマクロビオティックの流行に、次のような疑問を投げかけた。
M・T氏いわく。「いまのマクロビオティックは、延命マクロだ。延命とは病い治しのことで、いまでは、マクロは、病気治しの術となってしまった。だが、延命マクロは、まだいい。ファッションマクロともなれば、もはやマクロとはいえない代物だ。マクロは、誰でもが、いつでも、どこでも、実行できるものでなければならない」
筆者も、M・T氏のこのような意見に同感である。
食養による病治しにしても、それは、自己変革への前提でしかないはずである。
だが、病人は、おのれの病が治ると、それ以上進んで、ジャンプしようとしない。ごく少数の例外を別にすれば、おおかたは、前提に止まったままである。 これは、食養ではない。つまり、食養は、病気治しのレベルまでダウンしているといってよい。
さて、つぎは、「ホテルマクロ」である。
これは、筆者の体験から命名したものである。
一流ホテルでも、マクロビオティックと称するメニューを掲げるところがあらわれてきた。 筆者も、あるホテルで、いちど頂いたことがある。たしかに、食養料理的に調理されてはいるようである。
だが、遺憾なことだが、肝心の食養の心が失われている。
調理も、雰囲気も、一種のファッションと化していると思われてならない。
食養の核心とでもいうべき、素朴さもなく、質素さもなく、力強さもない。
食養料理が、商業主義にからめとられると、どのように変質するかという見本が、「ホテルマクロ」だといってよい。
食養料理とは、玄米の心を、野菜の心を、そして農民の心を、調理してくださった方々の心を、有難くいただくものである
例えば、タクアン二切れ、梅干一個、少量のおかずで、玄米ご飯一日一食あるいは二食で、健康で過ごす。
こうした少食と質素さに満足することが、食養の極意であろう。
貧乏こそ、食養を行う絶好のチャンスともいえる。
貧乏であることが、健康への途といってもよかろう。
食養の途へ最も遠いのが、金持ちである。
そして、この健康でもって「自由に生きること」が、食養の極意である。
「自由に生きること」とはいっても、それは、「言うは易く行うは難し」である。いろいろな障害が立ちはだかる。
じつは、健康が必要とされるのも、もろもろの苦難を乗り越えるためである。そのためには羅針盤が必要である。その羅針盤が食養である。
食養中興の祖・桜沢如一先生の生涯に示されているように、ときには、困難を乗り越えるために、生命を賭さなければならない。
少食・素食で、苦境に敢然と立ち向かう勇猛心を与えてくれるのが、食養というものであろう。
ところが、現状は、実に、皮肉といわなければなるまい。
これまで、多くの諸先輩が、その人生を賭けて食養の普及に邁進さ れた。 だが、今日、流行っているのは、食養とは似ても似つかない「延命マクロ」「ホテルマクロ」「ファッションマクロ」であるとは・・・。
このような状況を泉下の諸先達は、どのようにみておられるのであろうか。
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追記1: 以上は、このコラムの筆者が、正食協会(大阪)発行の 月刊誌「むすび」2007年10月号に書いた拙文に、いささかの修正を施したものである。
追記2: 多忙、そして、いささか考えるところがあって、今月に入ってから本日まで、このブログへの投稿をストップしていた。本日、いささか時間が取れたので、再開したわけである。
さて、今後であるが、不定期となるが、時間がとれるときに書きたい。以前と同様に、お読みいただければ幸いである。
商業主義に走り、「グルメの一環」として採り上げられていることも少なくありません。
これらの「形骸化」は、「真の権力者」の「洗脳」からもたらされていると考えるのが良いと思います。
彼らは、真実を伝えることはなく、歪められた「真実」しか伝達しません。
この陰謀に多くの人が「乗って」しまっているのでしょう。
私たちが、声を大きくして、立ち向かわなければなりません。