「食べ処・身土不二」(札幌)は、身土不二を日本と世界へ発信する。食堂ならぬ食堂、啓蒙運動の発信地。日本よ、滅びるな!

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子どもに、砂糖ぬきの食事を与えると、・・・

2007-07-27 08:40:39 | Weblog


       (前回からの続き)    

 前回、K・Yさんの砂糖なしに育てられたお子さんの「抗しがたい魅力」について語った。

 本日は、アメリカ人ジャーナリスト、ウイリアム・ダフティが語ることを紹介しよう。 
 
 ウイリアム・ダフティ『砂糖病』(日貿出版)
には、ダフティの一族、その4世代が一堂に会したときのエピソードがある。砂糖を食べないで育った曾孫2歳のマークは、次のように紹介されている。

 

 わたしたちの家族では、曾孫は珍しい存在ではない。マークは12人目のでし曾孫でしかないのだ。マークには可愛い兄と姉がいるし、たくさんの従兄姉たちがいる。ところが、このマークには彼らにはない何か特別なところがあった。私はこの子供から目を離すことができなかったこの子供には何か抵抗しがたい絶対的な魅力があったのだ」(前掲書5~6ページ)

 そして、マークの「絶対的な魅力」の原因が明かにされる。 

「私は、二世代の祖母たちに、私のように感じたか、どうしてあの子は異星人のように見えるのだろうか、と聞いてみた。すると、マークの祖母がこともなげに答えた。砂糖を食べていないのよ中略)。彼女は続けた。『マークは生まれてこのかた砂糖を食べたことがないのよ。私たちの家族ではこんな子初めてだわ。グラシーは、マークを身籠る以前も長い間砂糖を全く摂らなかったし、妊娠中も授乳期も砂糖を全く口にしなかったのよ。あなた、知らなかったの?』(後略)」

 前回、本ブログの筆者は、K・Yさんのお子さんに「いわく言いがたい魅力」を感じる、と述べた。ウイリアム・ダフティは、筆者の印象に共通するものを、曾孫マークに感じたのだ。

  印象とは、漠然としたものである。
  印象というものは、人によって千差万別である。
  きわめて主観的なものが、印象だといってよい。
  砂糖を摂らない子どもが、砂糖を摂る子どもとは「際立    って異なる」印象を与えるわけを、「学術的」に説明できないものであろうか、と思わざるを得ない。

 だが、印象は、バカにできない。
  職業によって、人に与える印象が異なるのは、珍しくない。例えば、学校の教師である。ながく教師をやっていると、やはり「いかにも教師の雰囲気」がある。農民ならば、いかにも農民らしい雰囲気を漂わしている。したがって、初対面の人の職業を当てることは、そう珍しいことでない。

 職業によって印象が異なるのは、それぞれの職業の違いが、心理的・精神的な影響を及ぼすのであろう。

 ところで、「心身一如」(「身心一如」が正しいのかも)といわれるように、
肉体と精神(心理)は、密接につながっている。だから、印象が異なることは、生理的な相違があることを、否定しがたいともいえる。つまり、砂糖ぬきの食事は、
生理的な違いを産みだすということか。


     この続きは、7月30日(月曜日)に。