「食べ処・身土不二」(札幌)は、身土不二を日本と世界へ発信する。食堂ならぬ食堂、啓蒙運動の発信地。日本よ、滅びるな!

「身土不二」は、解放思想であり、危険思想でもある。

 日本から「身土不二」を発信し、日本と世界を救おう。

 穀菜食は、馬も敵わない凄い体力を与えた

2007-04-30 01:54:16 | Weblog

http://www3.plala.or.jp/shindofuji/

 明治時代、わが国の庶民の体力は凄かった。

 当時は、食汚染がなく「身土不二」に適った「穀菜食」であった。

  明治時代、ドイツから来日、東京大学で医学を教えたベルツは、人力車夫の体力に驚いたという。そんなエピソードが、島田彰夫『身土不二を考える』(無明舎出版)にある。 http://www.bk1.co.jp/author.asp?authorid=110000495420000

 「(ベルツ博士は)22歳と25歳の人力車夫を雇い、その飲食物を調べながら、80キロの男子を人力車に乗せて、3週間の間、1日40キロずつ走らせたのである。(中略)東京から日光までの110キロの道を、馬車で走ったときは、馬を6回取り替えて14時間かかったが、同じ道を54キロの男子を乗せた人力車は、車夫一人で14時間半で走ったというエピソードを紹介し、日本の植物性の食物が、素晴らしい能力を発揮させることを述べている」。

 人力車夫が、日ごろ食べていたのは、米、大麦、ジャガイモ、栗、百合根などである。炭水化物中心の食事が、頑張りのきく体力と気力を生みだした。米といっても、白米ではなく、玄米に近いもので、しかも無農薬・有機栽培であった。当然のことながら、化学調味料・食品添加物などはない。

 さて、いま、コンビとス-パ-などで売られている食物は、どうだろうか。 農薬・化学肥料・食品添加物が用いられ、「身体不二の原則」に反し、しかもパワーのいない代物である。このようなジャンク・フーヅを食べる現代の肉体労働者に、ベルツ博士を驚かせた人力車夫のような体力を望むのは、無理であろう。


桜沢語録:病気になったら喜べ

2007-04-30 01:17:53 | Weblog

 http://www3.plala.or.jp/shindofuji/index2.html

  桜沢如一・・・http://www.ci-kyokai.jp/Sakurazawa/sakurazawa_info.htm は、食養(欧米名・マクロビオティック)を世界に説いた、偉大なる日本人故・桜沢如一は、その著『新食養療法』(財団法人日本CI協会刊)で「病気になったら喜べ」といい、そのわけを次のように語る。 

  「自分が知らずに恐ろしい罪を数々重ねて来たことを今教えられているのである。この病気がなかったら、自分はいつまでも知らずに罪を作って行くのである。何と云う感謝すべきことであるか!」

  先の引用には「自分が知らずに恐ろしい罪・・・」とあるが、この「罪」という意味は、筆者(石沢)なりの解釈は、次の通りである。

  「罪」とは、正しい食物をとらず、正しく調理せず、正しくとらない結果、病に倒れることを指す。 生物としての人間は、本来、健康であるべきものであって、その人間が病気になるということ、つまり自らの怠慢で己の生命と生存を危うくするとは、愚行の最たるもの、万物の霊長としてあってはならないのである。

  細菌やビールスで病に倒れるのは、生物進化の頂点に立つ人間にとっての退化現象であり、万物の霊長として恥ともいえる。  

  野生の動物のほうが、人間よりはるかに健康である。彼らの世界には、医師もいなければ病院もない。スズメが具合が悪いといって道端で休んでいることもない。
 
 なぜか。彼らは、食べるべきものと食べてはいけないものを本能で区別して、害になるものは食べないからである。さらに、食べる量もわきまえていて、食べ過ぎということもない。人間は、食べるべきものでないものを、しかも大量に食べて、病に倒れる。判断力の狂いが病気のもととなる。  
  
  桜沢は「病気は治してやってはいけない。治す方法を教えてやるコトだけが許されるのだ」と語っている。

 これは、冷たい仕打ちであろうか。そうではない。自力更生の勧めなのであるから、これは、病人という不健康人が更生する最もよい方法に他ならない。

  病人は、自力で己の病気を克服してこそ、病気にならない人間に生まれ変わる。生涯健康人への途といってもよい。生涯、健康人でなければ、真の幸福はない。


松の「身土不二」

2007-04-28 23:55:39 | Weblog

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  「身土不二」を最初に唱えたのは、明治時代の石塚左玄(陸軍薬剤)である。
http://info.pref.fukui.jp/hanbai/shokuikuou/ishizuka.html

  左玄は、郷に入っては郷に従えと述べて、三里四方(12キロ四方)でとれる旬の農産物を、正しく調理して食べることで、健康を保てると説いた。

  左玄の訓えで開眼した故桜沢如一は、『生命現象と環境-身土不二の原則-』を著した。
http://www.ci-kyokai.jp/Sakurazawa/sakurazawa_info.htm

 「日本の海岸の松は黒松、信州(長野県)の山の中の松は赤松、シベリヤのは黄松です。・・・この3種の松は、同じ松でも色ばかりか形態まで違っています。 黒松は太く短く曲がりくねっているのが多く、黄松は細く長く、高くすっきりしているし、赤松はその中間です」。 そして、三つの松の色がそれぞれ違うわけを、こう説明する。「総合的に見れば、周囲の環境が相違するからで、分析的に見れば、それぞれ成分が違っているからでしょう」。 

  ところで、この「身土不二」の出所だが、その初出は、山下惣一著『身土不二の探求』創森社)によれば、中国の仏教書・普度法師編『廬山蓮宗寶鑑』(1305年)である。


食糧自給なくしては、生理的に自滅

2007-04-28 23:29:44 | Weblog
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 輸入農産物を食べることは、食物の環境拘束性(つぎの項目で説明されている)に反する。食物の環境拘束性は、食物の本質にかかわることである。 

 この食物の環境拘束性に反すると、身体は「生理的な不調和」に襲われる。輸入農産物を食すると、輸出国の「生理的奴隷」とならざるを得ない。 

 わが国の民衆が「生理的奴隷」でありつづければ、「生理的に滅びる」と、こう予言したのは、故桜沢如一http://www.ci-kyokai.jp/Sakurazawa/sakurazawa_info.htmであった。
  
 桜沢は、「食養」(食物による人間革命のこと・欧米名マクロビオティック)を諸外国に広めた、日本の生んだ偉才である。この「食養」の世界への普及なくして、世界平和はないと説いた、日本でよりも欧米で著名な日本人である。
 
 山口卓三著『陰陽による健康法』(柏樹社)には、桜沢如一著『日本を亡ぼすもの』からの、日本人滅亡の予言が引かれている。
 
「日本を亡ぼすものは外敵ではない。それは西洋を知らず、また日本そのものをもみずからよく知らず、日本びいきのくせに、内実は西洋文明にあこがれて、ことにその食生活を喜ぶ傾向にあるのは、西洋に身を売って生理的に西洋の植民地化をはかって亡びに至らしめる日本人自身がその元凶であることになる」。

 
日本人自滅の原因は「西欧の食生活を喜ぶ」生理的奴隷にあるという桜沢の予言は、いまや見事に的中している。ファミリ-レストランにみる欧米食の隆盛ひとつをみても、その正確な読みには驚かざるを得ない。

「身土不二」とは環境拘束性のこと

2007-04-28 23:24:43 | Weblog

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 人間だけでなく、いかなる生物といえども「特定の環境」に支配される。これが自然の秩序というものである。
 
 日本にいれば、すべては、その特定の環境に支配される。 日本にいる限り、その空気を吸い、水を飲み、日光を浴び、日本産の農産物を食べる。これが、日本という特定の環境での正しい生き方(自然の秩序)である。

 日本で生まれ育った日本人はもとより、日本に滞在する外国人も、この自然の秩序から外れては、身体的・精神的にも好ましくない影響に見舞われる。

 ある特定の環境の支配下にあることが、その特定の環境の下で産みだされた食物(環境の食物化)を摂取することを、私たちに強制する。これが「身土不二の原則」というものである。この原則は、自然の掟であって生存の法則である。 

 この「原則」は、経験に基づく生活原理として、世代から世代へと伝えられてきた、いわば、先祖の知恵である。この原則は、別名、環境拘束性といってよい。

 食物の生産地は、私たちの住むところと「環境的に一致」しなければならない。
 
さもなければ、身体の生理(吸収・消化・排泄)は円滑さを欠いて、それが疾病を呼びこむ。食糧自給ができなくては生理的に自滅することになる。 


鉄砲だけはなく、食物も人を殺す

2007-04-28 01:11:26 | Weblog

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 統計はないけれども、「戦死」よりも「食死」の方が、多いのではなかろうか

  「食死」(筆者の造語)とは、「身土不二」に反する「食」で奪われる生命のことである。
 
  輸入食糧は、「身土不二」に反するので、一種の
民族殺戮(ジェノサイド)を引き起こす。 「身土不二」に反する農産物貿易とは、平和を装った静かなる「戦争」に他ならない。
 
  平和とは幻想であって、世界各国は、食糧貿易を通して、たえず「戦争」が続いている。


石原東京都知事は、農業を擁護しなければ

2007-04-27 01:25:39 | Weblog

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日本農業が壊滅状態にある今日、日本人は生理的、生物的に生態的に溶解している。

農滅べば、人滅び、国滅ぶ」状況にあって、日本の民を救うには、北海道と東北の連合が必要と思われてならない。 

 北海道と東北は、わが国の食糧基地である
 食糧輸出国の兵糧攻めにあっても、日本の農民は大丈夫である。この兵糧攻めに最も弱いのは、日本の都市の人々である。とりわけ、東京都民、大阪府民、名古屋市民である。
これらの人々は、それぞれの周辺府県から食糧の供給を仰げない。そもそも、それらの府県自体が食糧自給100%でないのだから、他に食糧を供給するのは不可能である。 

 つまり、輸入食糧の途絶など、最悪の事態となれば、大都市の人々には飢え死にする自由しか残されていない。万が一の際、食糧自給率100パーセントを越える北海道、東北諸県、そして佐賀県と鹿児島県だけが、東京、大阪、名古屋の大都市を救援できる。 

  とりわけ北海道は都道府県別食糧自給率ではトップである。
 東京都民の生命と健康を守る責務がある
石原東京都知事は、都民の生命と健康を守るために、北海道と東北・九州諸県の農業を擁護しなければならないのではなかろうか。大金が必要なわけではない。知事は、都民に次のように呼びかけるだけでよい。 

「都民の皆さん、北海道と東北諸県と新潟県の農産物を買いましょう」「できるだけ国内で生産された農産物を買いましょう」。

 このような都知事の鶴の一声は、疲弊している北海道・東北・北陸の農業を振興させる力強い支援となる。これらの地域の農業が立ち直れば、万が一の時、相当数の都民が救われるのも確かである。

    このような声明と行動をとる石原都知事は、日本中の全農民から拍手喝采が寄せられるに違いない。都知事は、総理大臣を超えて日本農民を励ます救世主となる。


農滅べば、人滅び、国亡ぶ

2007-04-27 01:17:45 | Weblog


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  日本は自滅への道を驀進している。

 
 日本農業が壊滅している。壊滅の証拠は二つある。
 ひとつは、わが国の食糧自給率低下の問題である。 その自給率は、たかだかカロリー換算で40パーセントである。つまり、国民の3分の2は外国の輸入農産物に頼っていることになる。


 わが国は「工重農軽」の国である。このようなアンバランスな国は、危ういといわなければならない。

 アメリカもフランスも「工重農重」の国である。食糧輸出国の兵糧攻めにあえば、日本国民の過半数は餓死の危機にさらされる。 
 
  いま一つの理由は、食物の質である。
 わが国の農産物のほとんどは、農薬・化学肥料を使って栽培される。このような農産物は、栄養価の少ない「氣」の抜けた質の低いものとなる。 
 

  さらには、輸入食糧と質との関係も見逃せない。
 輸入食糧は、ポストハーベストの危険性だけでなく、次ぎに述べる「身土不二の原則」に反するのである。このような農産物では、生命と健康が脅かされる。この「原則」と輸入農産物との関係である。

 輸入農産物は、その生産地の地域性と気候性のかたまりである。日本に住む我々は、日本列島という地域性とその季候の下で、暮らしている。日本の空気を吸い、日本の水を飲み、日本の土壌でとれた農産物で生きるというのが、その本来の生き方である。こうしてこそ、私たちの生理機能は、日本という環境と調和によってできる。このような生き方は、「身土不二の原則」に適った生き方である。

 「身土不二」とは、身体と環境は不分離であることを表わす。ところが、先に述べたようが、わが国の食糧自給率40%である。国民の過半数が輸入農産物を食べているとなると、これは「身土不二の原則」に反する生き方といわなければならない。この「原則」はいう、我々の食べるものは国産でなければならないと。
 

  輸入農産物を食することは、外国の環境が体内に入ることであって、それは生理的不調和を引き起こす。「身土不二の原則」に反しては、健康で長寿をまっとうすることができない。 

 安いといわれる輸入農産物であるが、はたして本当に安いのだろうか。輸入農産物を、わたしたちが食するとどうなるのか。「身土不二」の原則から言えば、私たちは、地元の農産物のお化けである。輸入農産物(「身土不二の原則」に反する)が、その私たちの体内に入ってくると、それは、健康障害を引き起こすことになる。 

  私たちの人生、すべては健康と生命にかかっている。
 政治も経済も文化も歴史も、生命と健康がなければ、意味がない。家にたとえれば、生命と健康は土台であり、政治と経済その他は屋根であり、柱や壁である。土台が崩れれば、屋根も柱も壁も崩れ落ちてしまう。 
 したがって農業が崩壊すれば、すべてが崩壊する。日本人は、肉体的・精神的に溶け始めているのである。

  まっとうな農業を復活させなければ、日本の将来はない。


自由人と健康

2007-04-27 00:57:35 | Weblog

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 食糧を外国に依存する国は、食糧輸出国の奴隷とならざるを得ない。

 食糧輸入大国日本は、食糧輸出国の支配下にある。
 健康志向が最新のトレンドとなっている。個人の健康と国の自立との関係について述べよう。
 
 いかに、個々人が健康を獲得しようとも、日本という国が、食糧輸出国の支配下にあっては、個人もその支配下にあることになる。これでは、真の意味で健康を獲得したとはいえない。

 真の健康とは肉体の健康だけではなく、精神の健康を含む。精神の健康とは、自立、自活、自由であることである。人類史は、この自由を獲得する歴史であったといっても過言ではない。

 肉体と精神が健康ならば、個人としての自由だけでなく、国としての自由をも求めざるを得ないはずである。ひいては人類の自由を求めるところまでいかなければなるまい。

 政治的、経済的、文化的にも外国に支配(米軍基地・北方領土)されている日本は、自立を志向してきた人類史への冒涜である。

 糖尿病が治るのもよし、ガンが治るのもよい。だが、肉体の病を治すのは、真の自由人になるための前提でしかない。

 己の属する国の自立と自由を、政治的、経済的、文化的自由を求めない「健康人」は、自由人ではない。このような自由人を育まない健康運動は、それ自体が堕落であり、頽廃である。


日本のニンジンとアメリカのニンジン

2007-04-24 23:08:33 | Weblog

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日本のニンジンとアメリカのニンジン

  「環境拘束性」と農作物(食物)との関係について考えてみrる。

 ところで「環境拘束性」とは、筆者の造語であって、「身土不二」の別名といってよい。つまり、私たちは、環境に支配される存在ということである。
 

 食糧(=農産物)といえば、ともすれば「量」に偏りがちな議論が多いようである。「量」もさることながら「質」もないがしろにできないのが、食物というものである。したがって、食糧を論じるにあたっては、「量」と「質」の両面にわたってみなければならない
 

  食物が安全でなのか不安全なのか、そのいずれかを決定するものが「質」である。この「質」は、いいかえると、食物が身体になじむかどうかということでもある。身体になじむ食物は安全であって、身体になじまない食物は安全でない。
 

  ところで、世界各地は、空気、水、土壌、温度、湿度、気流、海流など、地域によって、すべてが異なっている。したがって、同じ品種のニンジンを、同じように栽培しても、日本列島と北アメリカで収穫されたニンジンは、似てはいるが同じではない。
 
  この二つのニンジンを比べると、味が微妙に、あるいは相当に異なる。味の異なるのは、それぞれのニンジン成分の割合が異なるからである。このように成分比率が異なるのは、栽培条件の相違、つまり、環境(空気、水、土壌、温度、湿度他)が異なるからである。
 
  ニンジンは、環境によって異なる。つまり、日本ならば日本という「ある特定の環境」は、その環境に拘束されるニンジンを生みだすのである。このことは、ニンジンだけでなく、あらゆる農産物に当てはまる。 

  すべての農産物には、例外なく「ある特定の環境」の影響が刻まれている。この「特定の環境」の下で産みだされた「特定の農産物」を食する人間とは、「特定の環境の人間化」である。

 「ある食物の栽培環境」と「その食物を食べる人が住む環境」が同じであれば、その食物は、身体になじみ安全であり、健康をもたらしてくれる。

 このふたつの環境が不一致であれば、その食物は、身体になじまず、安全さも損なわれ健康も損なわれる。(文責 石澤文規)


         
バナナとリンゴ 
 
 
さきに、ニンジンでもって「環境拘束性」を説明した。いま一度、バナナとリンゴでもって、この「環境拘束性」を考えてみよう。

 バナナは、フィリッピン・台湾など、熱帯という環境(地域性・気候性)でのみ育つもので、日本のような温帯の環境では育たない。

 リンゴは、北海道・東北北部・長野県など寒冷な地で育つが、フィリッピン・台湾などの熱帯地域では育たない。このように、作物は、その生育環境に支配されるものである。よく、適地適作とはいわれるが、これなども、環境による農作物への拘束性を示している。

 このように「環境拘束性」が、作物の「種類」と「質」と「量」を決定する。

 
 
岩田進午『土は生命の源』(創森社)には、次のような指摘がある。
 
「現代農業の最大の思想的弱点は、人間の健康とのかかわりで、農業をみていない点にあります。食料は、健康によく、安全でなければならないという、しごく当たり前の論理が欠如しているのです」(194頁)

  ところで、食物の「質」といえば、残留農薬禍とか、化学肥料で栽培される「水ぶくれの栄養価の少ない農産物」がとりあげられる。だが、この食物の「質」は、それだけに止どまるものではない。先に触れた「環境質」も含まれるのである。この「質」は、あまり論じられることが少ないが、きわめて重要なので、抜かすわけにいかない。

 いかなる農作物も、この「環境質」の拘束から逃れられない。岩田進午氏の指摘「食料は、健康によく、安全でなければならない」には、当然のことながら、この「環境拘束性」「環境質」が含まれると考えるべきであろう。

 「環境と食物と人間」は、環境的に一致していなければ、生命と健康を損ねるということを、「身土不二の原則」が教えてくれる。

 日本列島という「特定の環境」にいれば、その環境で取れた特定の農産物(国産農産物)を食することが、「身土不二の原則」に適うことになる。
 したがって、輸入農産物(外国の環境の産物)を食すると、「農産物の生育環境」と「食する人の環境」とが不一致となる。この不一致は、生理機能に負担をかけ、疾病が悪化したり、新たな疾病を呼び込む。

 輸入農産物は、「身土不二の原則」からは「不適食」である。もちろん、輸入農産物が悪いのではない。輸入農産物は、その原産地では、「身土不二の原則」に適う「適食」なのだから。(文責 石澤文規)


身土不二の原則とは

2007-04-23 09:47:20 | Weblog

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    「身土不二の原則」とは

 

  身体と環境とは不可分であることを表わす「身土不二」(しんどふじ)は、健康と疾病に深いかかわりがある。
 
  
後木クリニック( 北海道苫小牧市 )にみてみよう。後木建一院長は、次のように語る。 

  「(
アトピ-性皮膚炎の治療において)アレルギ-患者は、不要な物やあわない物を排泄するので、食の適、不適がよく見える。外国米を食すると、それまで落ち着いていたアトピ-が悪化してしまうのである。同じ穀物でも、関西産が東北産より症状がでやすい」。

  「ジャガイモの方が、サツマイモより出にくい。九州では、その逆だという。果物で最も良くないのがバナナである。アトピ-には、
ユキヒカリが適している。北海道の気候、風土に適しているのか、消化しやすく余剰物として溜まりずらいのであろう」(北海道有機農業研究協議会編『北海道有機農業技術研究年報』1994年度版)。 
 

  地域(環境)が異なれば、ジャガイモとサツマイモは、疾病へ与える影響が異なる。同院長の報告から、「身土不二の原則」は、食物を介して健康と疾病と深いかかわりがあることがわかる。

  苫小牧と福岡での臨床例は、明らかに「身土不二の原則」を証明していると考えられる。「甲の薬は乙の毒」という諺のとおりである。要するに、私たちの周りの環境で採れた食物を食すれば健康になれるが、遠隔地のものを食べると、疾病におかされるということである。
 
  ましてや、日本とは環境の異なる外国でとれた輸入農産物では、「栽培環境」と「食べる人の環境」との間に不一致が生じるので、この「環境的不一致」、つまり「身土不二の原則」に反する食生活では、疾病にかかりやすくなる。

  
このことは、病人だけでなく健康人にも当てはまる。ただ、健康人は病人ほど影響が顕著に現われないだけで、悪影響がないということではない。(文責 石澤文規)                     
   

        続「身土不二の原則」とは

  「身土不二の原則」の別名は、「環境拘束性」(筆者の造語)のことである。 私たちは環境の産物である。環境がその姿形を変えたものが、私たちである。したがって、環境が異なれば人間も異なる。
 
  寒冷の地に住む北欧人は大柄で色白であるが、熱帯の地の人々は小柄で色黒であることは、環境の違いがもたらしたものである
ベルクマンの法則)。
 

  
人種・民族にこのような違いがあるのは、環境が、生物的・生態的・生理的に生物を拘束するからである。北極周辺の白熊が、他の地域の熊よりも大きいこと(ベルクマンの法則)も、また、北極圏のホッキョクギツネは、その耳が他の地域のキツネのそれよりも小さいこと
アレンの法則も、「日本大百科全書」では、生物の環境への「適応」であると解説されている。
 
  「適応」とは、生物の側が環境に順応しようとする営みであって、この「適応」は、環境の側からいえば、環境が生物を拘束することといってよい。
 
   いま、このような環境の作用を「環境拘束性」と名づけることにする。「適応」と「環境拘束性」とは、コインの表裏の関係にあって、同じ現象を別々の角度からみているのである。(文責 石澤文規)


ヨーロッパの宣教師を驚かした日本の伝統食

2007-04-23 09:38:45 | Weblog

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     ヨー ロッパの宣教師を驚かした日本の伝統食

  『日本型食生活の歴史』(新泉社刊)には、戦国時代に来日した宣教師、
フランシスコ・ザビエルから本国へ宛てた通信文が紹介されている。
 
 
 「日本人は自分たちが飼う家畜をすることもせず、またこれを食べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、ほとんど米麦飯のみをたべるが、これも意外に少量である。ただし彼等が食べる野草(野菜)は豊富にあり、また僅かではあるが、果物もある。それでいて日本人はふしぎなほど達者であり、稀な高齢に達する者も多い(後略)」(227ページ)

  玄米菜食・玄麦菜食に代表される伝統食が、戦国時代の日本の食事であった。この穀物菜食でもって、ザビエルに「ふしぎなほど達者」といわせるほど、当時の日本人は、健康で長生きした。

 いま、伝統食を捨てた日本人の多くは、白米・肉乳卵食でもって、介護保険を必要とする危うい人生を送っている。

  ◆食物が犯罪を防ぐ 
 

 
カギの国から来日した宣教師・ザビエルは、日本家屋にカギのないことに驚いた。
 
  穀物菜食は、当時、長寿をもたらすだけでなく、犯罪を少なくしていたと考えられる。
 
  家にも部屋にもカギがなかった。カギを必要としないほど、当時の社会には犯罪が少なかった。犯罪の少なさは、一つには、当時の閉鎖社会おいては住民同士の相互監視が働いていたこと、二つには、当時の食物が未精白穀物と野菜の伝統食であったことを抜きにできない。

  アメリカの犯罪研究学者
A・Gシャウスが、その著『栄養と犯罪行動』(ブレーン出版)で述べているように、未精白でもって、非行少年・服役囚が変わることを証明した。

 そもそも、犯罪とは、肉体の不健康さが心へ反映した結果である。肉体の生理的不調和が心理的不調を招く。

 
ここに犯罪発生の素地がある。犯罪者は、精白穀物・食品添加物、白砂糖などの不健全な食物によって、肉体的・心理的不健康にさいなまされている。犯罪の発生と抑止にも、食物がかかわっているといってよい。

 いまや、伝統食がすたれ、欧米流の肉・乳・卵食が隆盛を極めている。このような食事の誤りが、今日の犯罪の凶悪さと激増を招いたと考えられる。警察が裁判が犯罪を防ぐことはできない。犯罪を防ぐ根本は、食物である。

 ◆食膳は食禅である

 禅寺での食事は、穀物菜食である。
  悟りをうることにも、食物がかかわっている。
 
 本来、玄米であったが、いつの頃からか白米になってしまった。ともあれ、玄米であろうと白米であろうと、禅寺では、肉・卵・魚などの動物性食物は供されない。

 なぜか・・・。これらの食物は、修行の妨げになるからである。動物食は、生理的に血を騒がせて、心理的安定を損ねる。 

 生理と心理が不安定では、とうてい修行にはならず、悟りを得ることもでき難い。当時の宗教者は、食物と悟りの関係を心得ていたのである。




身土不二の原則

2007-04-22 00:35:48 | Weblog

             私説私語:原点回帰2001・01号          http://www3.plala.or.jp/shindofuji/

       身土不二の原則」とは何か

 「身」とは身体、「土」は環境のことを、それぞれ表わす。                  私たちはその住んでいる環境と切り離せない関係にある。

 この原則は、衣食住すべてにわたる。健康(疾病)との関係でいえば、外国の環境の産物、輸入農産物を日本で食すると、消化・吸収・排泄の生理機能に負担をかけて、健康障害を引き起こす。これが「身土不二」というものである。

      「身土不二」は、

  解放思想であリ危険思想である。

 商業主義の呪縛から農業と食物を解放し、民衆に生命の躍動と真の健康を取り戻させてくれる意味で「身土不二」は解放に他ならない。

  農業と食物を通して、はじめて「身土不二」は、私たちの血肉となる。そのためには、世界各国の農業の自立が必要である。

    「身土不二」は、危険である。
 
農産物を転がして利益をもくろむ者にとっては、身土不二」によって、彼らの望む経済的利益は否定されてしまう。

 農産物貿易それ自体、「身土不二」に反する。いまの農産物貿易を変えなければ、世界の民衆の健康はない。農産物貿易を変えることは、工業製品貿易に影響を与えずにはおかない。

 「身土不二」が世界に広まれば、それは、全世界の産業構造の転換への引き金となる。

   「身土不二」を無視しては、健康になれない

 健康雑誌をはじめ、新聞・ラジオ・テレビなどが「身土不二」を避けて健康を説くほど、私たちを愚弄するものはない。健康になれないことを前提にして、健康を説く健康雑誌・マスメディアは、一種の「詐欺」である。

 「身土不二」をぬきにして、食事療法など「技術的な対応」に終始するならば、それは人々を惑わすだけである。

  原理・原則を踏みにじって生じた不都合を、技術で解決しようとするとは、天に唾する類いの愚行である
。(文責 石澤文規)