「食べ処・身土不二」(札幌)は、身土不二を日本と世界へ発信する。食堂ならぬ食堂、啓蒙運動の発信地。日本よ、滅びるな!

「身土不二」は、解放思想であり、危険思想でもある。

 日本から「身土不二」を発信し、日本と世界を救おう。

わが国の高齢者福祉政策の落とし穴

2007-05-31 23:31:28 | Weblog

 わが国の高齢者福祉政策には、大きな欠陥がある。

 わが国の高齢者政策は、福祉のモデルとされる北欧諸国のそれとは、異ならなければならない。

  スエ-デン、デンマ-クと日本とでは、高齢者のおかれている状況がまるで違うからだ。これら諸国は、ほぼ食糧自給ができる。したがって、その高齢者福祉政策には、食糧自給を含めなくても構わない。

 しかし、カロリー換算で40%という食糧自給率しかないわが国では、輸入食糧が途絶すれば、最悪、高齢者からは、餓死者がでるかもしれない。 

 したがって、日本の高齢者福祉対策には、国産食糧の備蓄(最低3年分の穀物)を含めなければならない。            

 いかに、介護保険があろうとも、いったん食糧危機がくれば、現行の高齢者政策はすべて瓦解してしまう。食糧自給ができなく、食糧備蓄へ十分な配慮もない高齢者福祉政策は、高齢者を侮辱するものである。

 日本農業の衰退した今日、輸入食糧がなければ、国民の過半数は生きられない。だが、輸入食糧を食べ続ければ、「身土不二の原則」に反して、多病・短命とならざるを得ない。どちらも、蟻地獄である。

  これまで、いく度か述べたことだが、棡原の高齢者の長寿は、国産農産物による伝統食にある。

 しかし、長寿の郷・棡原にも、芳しくない兆候がないではない。80代・90代の高齢者は元気であるが、40代、50代の息子や娘らが、心臓疾患や脳疾患などで亡くなるのである。親が子供の葬式をだす、いわゆる「逆さ仏」である。

 「逆さ仏」を生じさせているのは、食生活である。
 高齢者は、「身土不二の原則」に適った伝統食(穀菜食)。青壮年は、「身土不二の原則」に反する食生活。つまり、白米・白パンなどの精白食物の常食、肉・乳・卵の多食、食品添加物、輸入農産物を食べているのが、青壮年である。

 ここに、「日本農業と伝統食の衰退」の結果が現れている。輸入農産物を食べざるを得ない日本人は、痴呆と寝たきりを防げない。 農業が再生し、伝統食が復活すれば、棡原の例からも明らかのように、痴呆と寝たきりは激減し、介護費用そして医療費も激減するであろう。

 農業振興には、もっと税金が使われるべきである。農業振興と結びつく高齢者対策があって、はじめて高齢者は安全で健やかな老後をおくれる。


トスカーニ曰く、広告は嘘をつく

2007-05-31 07:24:35 | Weblog

 

 ベネトン社は、社会問題を告発する広告で知られる。

 同社のカメラマン・オリビエーロ・トスカーニは『広告は私たちに微笑みかける死体』岡元麻理恵訳・紀伊国屋書店刊)を著し、広告を告発する。

  「広告は、商品の品質について大衆を欺く」
 
 「広告は、商品を高く買わせるために大衆をあおる」
 
 「広告は、大衆に嘘をつく」
 
 「いずれ大衆が企業に対して、あなたの会社が汚染源ですか。あなた方の社会ルールはどうなっているのですか、と釈明を求める日がくる」

 アメリカのマーケット・コンサルタント、ジョセフ・ジャフィ(アメリカ)は、その著『テレビCM崩壊』(翔泳社刊)において、商品をこう語る。 

 「商品は、価格、質、パフォ-マンスが適性でなければ在    できなくなった」

 「今日の賢い消費者は、本物か、あるいは広告にお踊らされた偽物かを見分ける眼を持っている」

 ようやく、本物が日の目を見るときが、やってきそうだ。            
  だが、ことは、そう簡単ではなさそうである。

 たとえば、食物の場合である。食物、とりわけ加工食品に使われる食品添加物である。ちなみに、このブログの筆者は、食物には、基本的に食品添加物を使うべきではないという意見である。

 はたして、食品添加物は、「正しく表示」したら、それでことが済むのであろうか。たしかに、「正しい表示」は、必要ともいえるし、間違っているわけでもない。

  だが、「正しい表示」を「正しく理解」するには、消費者は、極端にいえば、食品添加物の解説書でも携えて買い物をしなければならなくのではなかろうか。 これでは、実用的ではないこと、おびただしい。

 いちばんわかり易い表示は、「本製品には、食品添加物は、一切使われていません」であるが・・・・。

  この表示にかかわる問題は、いずれ、改めて論じたい。


食物が意識を決定する

2007-05-28 23:32:28 | Weblog
 週刊誌「アエラ」(1996・3・4)には、超少食とでもいうべき、菜食の「現代の仙」が紹介されている。


 「現代の仙人」の1日の食事は、生野菜500グラムの野菜ジュースを飲むだけである。1日の摂取カロリーは約150キロカロリーにすぎない。成人の基礎代謝は、およそ1200キロカロリーといわれる。

 
現代医学と栄養学の常識では、この基礎代謝をもはるかに下回る摂取カロリーでは、生きることすらできない。


 
野菜だけで生存可能となれば、玄米を食することさえ贅沢となる。このような「現代の仙人」をつくったのは、八尾市(関西)で医院を開業されている甲田光雄医博である。
 同医博は、食医(食物だけで疾病を治す)である。「現代の仙人」たちは、同医博の元患者であった。


 その仙人のひとり森美智代(三十三歳)さんは、つぎのように述べる。「食欲も物欲も薄れたからといって、生きることへの執着までなくなったわけではありません。死ぬまでの時間を、一瞬でも無為にしないで、魂に刻み込める出来事を増やしたい。物を食べないのは、それを、やりやすくする手段だといえるかもしれません」。

  甲田医博のつくりだした「現代の仙人」は、一日三食白米・肉食者とくらべるとき、じつに先鋭的な反体制食哲学の実践者と言わざるを得ない。これは、現代栄養学と医学へのアンチ・テーゼでもある。

  「現代の仙人」は、物欲が希薄となるといわれる。
 物欲のかたまりといってもよい人間が、食物で物欲を減じることができれば、それこそ人間革命である。 

 物欲が少くなれば、人々の生活も変わる。
 政治・経済体制も、変わらざるを得ない。
 こうなれば、食による世界革命である。 

 このような「仙人食」が人類の標準となるとき、人類は新しい段階へいたるであろう。 

 食物が意識を変える。 
 意識が変わると、社会が一変するであろう。

 「社会的存在が意識を決定する」というのは、マルクス主義哲学で言い古されたことであるが、より根源的には、「食物が意識を決定する」と、いわなければなるまい。 

 制度だけ変わっても、それだけでは人間社会は変わらない。このことは、旧ソ連の社会体制の崩壊に明らかである。


食堂・レストランでは、生命が売買される

2007-05-28 13:16:49 | Weblog

 食堂・レストランの話である。
 食物を調理して、それをお客に食べていただくことで、店側は、お客からお金をいただく。

 食事をする場(食物という生命を私たちの生命へ変換させる場)を提供することと引き換えにお金をいただくのが、食堂・レストランというものである。
 
  したがって、料理の金額というものは、「生命転換」(食物から人間へ転換)にかかわる「手数料」とでもいうべきものである。

  さて、この「手数料」というものである。
 「生命とお金」の交換とは、奇妙なことではある。
 生命とは「計算できないもの」だから、お金という「計算できるもの」と交換することは、本来、あり得ないはずである。

  このあり得ないことが、食堂・レストランでは公然と行われている。「生命」と「お金」との交換とは、生命が売買されるということである。つまり、「生命の商品化」に他ならない。  家庭での調理では、食堂・レストランと違って、つくる人と食べる人が同じだから、食物という生命が売買されることはない。

  世界中のすべての富をもってしても、生命は買えない。 にもかかわらず、食堂・レストランでは、その生命が売買されているとは!? この矛盾を、人々は、変だとも何とも思わない。

  ところで、食物の売買(=生命の売買)といえば、別に食堂・レストランに限らない。スーパーでも、デパート地下階でも、コンビにでも、やはり、食物の売買という形で、生命が売買されている。

 市場経済システムでは、もっぱら生命が利潤追求の手段とされる。このようなシステムの下では、生命はおとしめられ、生命の尊厳はあり得ない。 


「大根という生命」から「人間という生命」へ

2007-05-28 09:29:54 | Weblog

 私たちは食物のお化けである。
 人間は、食物(植物・動物・魚貝類など)という生命が人間という生命に転換されたものである。

 私たちの肉体(皮膚・骨・血液・内蔵など身体のすべて)は、もちろんだが、精神でさえも、食物(という生命)が、その姿を変えたものといってよい。

 例えば、大根である。大根は生でも、干しても、煮ても食べられる。いずれの場合でも、「大根という生命」が「人間という生命」に換わるのである。

 大根を調理するということは、「大根という生命」を「人間という生命」に移行しやすいように、人為的に加工することに他ならない。つまり、「生命の存在形態」を変えるのである。生命のありかたが、「大根という植物」から「人間という動物」へと変るのである。

 ところで、 カロリー学説と栄養素還元論である現代栄養学では、この「生命」ということが抜け落ちている。

  最近では、現代栄養学においても、玄米が白米よりもよいとされているようである。
  
 現代栄養学において、玄米のよいとされる理由であるが、栄養素の数と量が、玄米には白米よりも多く含まれているからである。そして、玄米を精白すると失われる諸栄養素を白米に加えれば、白米は玄米と同じと見なされる。

 だが、白米は玄米とは異なる。
 白米に不足する栄養素を加えることで、白米は、栄養素上は玄米と変らなくても、玄米は発芽するが、白米は発芽しない。つまり、玄米は生きているが、白米は死んでいる。


 玄米と白米とでは、「生と死」が歴然としているにもかかわらず、現代栄養学では、この「生と死」の違いが切り捨てられてしまう。現代栄養学には生命というものがない


マクロビオティックで自らの骨髄ガンを治した、アメリカの医学博士

2007-05-27 10:10:53 | Weblog

 
 食養(マクロビオティック)を世界に広める種をまいた桜沢如一は、教育者としても、たいへん優れた方であって、数多くのお弟子さんを残された。その 一人が、アメリカ合衆国でマクロビオティックの普及に当たっている久司道夫氏である。 

 以下、マクロビオティックでもって、あるアメリカ人医学博士が、自らのガンを克服した事例を紹介する。
 
 このアメリカ人医学博士とは、フィラデルフィアにあるメソジスト病院長、アンソニ-・J・サティラロ博士である。   
 同博士は、第四期の前立腺ガンを患っていたが、久司氏と同氏のアメリカ人弟子の指導によってマクロビオティック食事療法で、ガンから生還したのである。

 アンソニ-・J・サティラロ『ガン ある「完全治癒」の記録』(上野圭一訳、日本教文社)には、次のように同院長の病状が記されている。

「1978年6月、私は担当医から癌の宣告を受けた。診断によれば第四期(ステ-ジD)の前立腺癌で、頭蓋骨・肩甲骨・脊椎骨・胸骨・肋骨など、からだの他の部位への転移がみられた。私は四七歳だった。担当医は、多分あと「数」年は生きられると言ったが、私にはその数年が死に向かって崩れ落ちて行く拷問の日々になることは判っていた。すでに激しい背部痛に悩まされ、一時抑えの鎮痛剤を大量に服用していた時期だったのである」 

 前掲書によれば、同博士は、当時、除睾術とエストロゲンによる前立腺癌の標準的な治療(五年生存率は15%から25%)を受けて、ガンの克服を期して悪戦苦闘中であった。 手術でも消えない激痛は、麻酔系のペルコダンでしのいでいた。この鎮痛薬物を服用しながら、生と死のことを考える毎日であったという。

 ところで、同博士のお父様もガン(肺ガン)を患って、亡くった。同博士は、ご尊父の葬儀へ出席しての帰り道、二十歳くらいの二人のヒッチハイカ-を自分の車に乗せ、たまたま話題がガンのことになったという。

  同博士が、ご自身もガンに侵されていて、死にそうだという。すると、この二人の若者はガンは不治の病ではないこと、ガンは間違った食事の結果なのだから、食事をただしさえすれば、ガンは消えると主張したのである。

  しかし、同博士は、現代医学の総力をあげても、治すことが難しいガンを、食事療法などで治るはずがないと考えて、若者の話しを聞き流した. しかし運命の導きとでもいうのであろうか、このヒッチハイカ-との数奇な出会いが(普段は、ヒッチハイカ-は拾わない)、同博士をガンから生還させるキッカケになった。 

 アメリカ人で、久司氏の弟子であるデニ-ワックスマン氏の指導のもとで、同博士はガンの克服を目指す。

 [マクロビオティックって何なのですか?」

「ものの考えかたと、ものの食べかたをひとつにした、基本的には、ある生きかたのことです。健康と幸福の実現に役立てるためです。その人の状態、季節、その人の住む所によって、食べるものもいろいろ変わります」

「でも、あなたの場合は、完全穀類、とくに玄米を五0から六0パ-セント、その地方でとれて火を通した野菜を25パ-セント、豆類と海藻類を十五パ-セント、残りをス-プといろいろな薬味(ごま塩・鉄火味噌・梅干しなど-訳注)という割合で食べる必要があります」

 このような食事を実行中、同博士は、深刻に悩んだという。膨大な費用と現代の最新の科学技術をつかっても、克服できないガンを、このような食事で、はたして克服できるものだろうかという疑問にさいなまされた。

 心中、このように葛藤しながらも、マクロビオティック食事法を続けると、ある朝、背中の痛みが消えていることに気づく。最初は、錯覚ではないかと思ったと、同博士はいう。
 
「疑う余地はなかったのだ。痛みがとれたのだ。何が原因なのか、見当もつかなかった。奇跡だ。しかし、何が?なぜ?二年近くも、大量の麻酔薬だけで一時抑えしてきた恐るべき背部痛が、突然消えた。」

  こうして、背部痛が消えただけでなく、体調もじょじょに良くなっていく。ある日、ワックスマン氏の紹介で、サティラロ博士は、アメリカ合衆国におけるマクロビオティックの指導者、久司道夫氏に会う。同院長は、久司道夫氏から、望診と触診による「診断」を受ける。

「すべて順調です。標準食でいいでしょう。ただし、魚は駄目。粉製品も一切駄目。果物、油、全部駄目です。(中略)多分六か月で、全快しますよ。本当です」と告げられた。 

 こうして、久司氏とワックスマン氏の指導によって、1年足らずで、同院長の腫瘍は消えてしまったのである。

  蛇足ながら、マクロビオティック(食養の欧米名)についてあまりご存じない方のために、マクロビオティック「食箋」(食事の処方箋)について、いささか解説しておく。 
 

 マクロビオティックによるガン治療は、極めて単純明解である。陰性(*1)と陽性(*2)の食物で身体生理のバランスを回復させると、ガンは自ずと消える、というものである。

 マクロビオティックでは、この「陰と陽のバランス」に加えて、「一物全体食」「身土不二」「穀物菜食」などが、重要視される。

「一物全体食」とは、その全体を食べること。野菜は皮をむかず、アク抜きやゆでこぼしをせず、葉も根の部分も調理して、全体を食べる。こうして、栄養学的にいえば、よりよく栄養を摂取する。だが、このブログの筆者の見方では、「一物全体」の大切さは、生命そのものである食物を生かしている「氣」(一種のエネルギー)を取り入れることにある。

「身土不二」とは、身体と大地は一元一体であり、人間も環境の産物であること。その土地、その季節の食物を食べることで、自ずと身体は環境と調和し、健康となる。

「穀物食」でなければならない訳は、次の通りである。
 人間の歯は、穀物をかみ砕くのに適した臼歯が32本中20本あって、歯全体の約60%を占めている。 この歯の割合から、穀物を主食とすべきことになる。また、穀物(未精白穀物)は、中庸の性質なので、陰陽のバランス上も、主食は穀物でなければならない。

 さらには、穀物の消化の関連する酵素(アミラーゼ)が、唾液と膵液に含まれていること、つまり、穀物の消化が二段構えがになっていることも、穀物主食論の論拠となっている。

 サティラロ博士に与えられた食事は、「一物全体」と「身土不二」の原則にのっとった「陰と陽の調和のとれた穀物食」であった。陽性過多である動物性食品(肉・卵・バタ-・チ-ズ)などは禁忌である。

 (*1)陰性とは、遠心・拡散・寒冷・カリュウムの多いもの。           
     。

 (*2)陽性とは、求心・収縮・暖熱・ナトリウムの多いもの。  


すべては、金に呪縛されて・・・

2007-05-26 08:37:13 | Weblog


 食物の生産者も食物の消費者も、ともども、拝金というか、金に支配されて生きている。もちろん、例外がないわけではない。 
 

 「週刊金曜日」(1997・8・22)には、西村満「もう一つの食糧危機」という一文がある。

 「農家の人達が自ら作って食べている農作物は、見栄や日持ちは期待できませんが、昔ながらの美味い品種で、昔ながらの金肥等を使った堆肥栽培によるものです。少しばかり衛生面に問題があっても見栄えが悪くても、その味はとくかく絶品です」 

 「お米にしても同様で、皆がご飯を食べなくなったのは、化学依存農法による土壌破壊にも適用できて収穫量が多い、まずいお米が大量に栽培されているからです」

 「農家にはその安全な農作物を栽培するノウハウが、すでに失われているのです。その原因は優れた品質の堆肥が手に入らなくなっているからです」

 「農作業を真面目に行う農家の主人ほど肝臓障害(ガンなど)を起こして早死にするから、危なくて息子には継がせられないよ」 

  先の一文は、米をはじめ、農産物が美味しくなくなったのは、農産物の栽培方法つまり、農薬・化学肥料栽培にあると指摘している。

  美味しさ・安全性よりも、食べる人の健康が損なわれても、とにかく、お金さえ儲かればよい。金儲けのためならば、農薬を使おうと化学肥料を使おうと、いっこうに構わない。これが、おおかたの農業者の実態であると、先の文の筆者は嘆いている。

 先に引用した一文は、いまから10年前のものであるが、今日でも、そのまま当てはまる。

 本来、生命を養うべき農業が「生命・健康を損なう農業」「金儲け農業」に堕落してしまっている。無(減)農薬・有機栽培農業もないではないが、それは少数である。主流は、相変わらず、慣行農業(農薬・化学肥料農業)である。

  
  不味くて不健康な農産物がはびこるのは、農民だけでなく都会の人々にも、その原因があるといわなければならない。

  都会の人々の多くは、ただただ、安く買えればよい。
  農民の多くは、ただただ、高く売れればよい。

  都市の人々も農民も、その圧倒的多数にとって、すべてはお金である。生命と健康は大切だと思っているはずだが、結局、拝金に流される。その報いは、てきめんで、膨大な医療費となって現われる。

 「生命・健康志向農業」が必要と考える人々は、増えてはいるのだが・・・。がしかし、「まっとうな農業」が実現するのは、人が変わり、世の中が変わらなければダメ。農業だけ変えようとしても、それは不可能である。


「身土不二」の国・日本を闘いとらなければ

2007-05-19 03:26:11 | Weblog

  
  つぎは、このブログの筆者の年賀状(2004年元旦)である。 若干の修正を加えて、以下、紹介する。 


         私説私語:原点回帰04・01
        「身土不二」の国・日本を闘いとらなければ  

 78年前、藤井武は、その主宰誌「旧約と新訳」第57号で、当時の日本人を軟体動物と酷評する。
 
  「現代日本人に意思はあるのであるか。私はしばしばこれを疑ふ。意思は人格の脊椎骨である。併し、今の日本人は軟体動物に近い。 確かに彼らに道徳的脊椎はない。儒教も廃れた。武士道も亡びた。(中略)」

 彼らに死を以て守る主義もなければ理想もない。 從って彼らは心より怒る事を知らず、また深く悲しむ事を知らない」

  78年前、日本は独立国であった。
 外国の軍事基地もなく、北方領土も強奪されてなかった。
 
 敗戦後の日本は、アメリカへ隷属、中国へ拝跪、旧ソ連へ迎合を繰り返して、今日に至っている。

 先の敗戦を境に、日本人の多くは、独立心、義侠心、正義心、志、質実剛健の気風などを失った。 藤井ならば、いまの日本人を何と言うだろうか。おそらく、評価する言葉がないであろう。

  マレーシアのマハティール前首相は「アメリカに盲従するな」「中国に怯えるな」と日本人に忠告する。

 「他国の言いなりになるのではなく、自分の考えで行動してほしい」(マハティール著『立ち上がれ 日本人』新潮新書)。

  台湾の李登輝前総統は、その著『武士道の解題』(小学館)を著した動機を「もっと単刀直入にいえば『武士道』について声を大にして大覚醒を呼びかけ、この書を世に問わねばならなかったのです」と述べる。

 いまや、外国の政治家が日本民族の遺産を惜しむ。
 外国の政治家に指摘される、わが日本の亡民・亡国のもとはいえば、先の大戦での敗戦にある。あの敗戦を契機に、わが日本民族は、諸外国に生理的・生物的・生態的に支配されたこと
である。しかも、その支配が今日まで続いている。つまり、「身土不二の原則」に基づく独立が、いまだ回復されていない。
 

 世界に向けての「身土不二」運動は、まず日本人自らが「身土不二日本」を実現しなければならない。それは、隷属日本を解放する闘いでもある。

 その闘いの過程そのものが、人類への貢献である。     
 隷属も、また平和である。


「臆面のなさ」「破廉恥」「無節操」は、商人の宿命 

2007-05-13 14:27:13 | Weblog

 ある醤油メーカーのことである。
 そのメーカは、数年前、新聞に逸品と称する醤油を宣伝したことがあった。「国産大豆・小麦・塩」を使って「杉桶で一年寝かせる」「天然醸造」・・・。このような言葉が並んでいる。この広告をみて、私(本ブログの作成者)は呆れてしまった。「いまさら何をいうか」という気持である。

 この広告を打ったメ-カ-は、かつて丸大豆を原料とする醤油を醸造していたが、昭和三十年代半ばから脱脂加工大豆と輸入小麦・食品添加物を使うようになった(「速成醸造」)。  

 なぜ、醸造方法を変えたのか。このほうが、コストダウンできて、利益が多くなるからに他ならない。もっとも、このメーカーに限られず、ほとんどの醤油メーカ-が、こうした「速成醸造」に切り替えたのだが。

 このようにして、輸入大豆と小麦という「身土不二」に反する原料を使い、保存料添加、熟成期間の短縮といった「速成醸造」の醤油が登場する。そして、このメーカーは大きく成長してきた。それが、いまや醤油の逸品をつくろうというのである。

 醤油とは、本来、無農薬・有機栽培の国産丸大豆だけを原料として、食品添加物を使わず、最低2年間の熟成期間をおくものである。これが私の言う「本物醤油」とは、こうしたものである。「速成醤油」などは、ニセもの醤油とか、まがいもの醤油としか、他に呼びようもない代物である。 

 ところで、さきの広告には、原料の大豆・小麦については、無農薬・有機栽培とはいっていない。にもかかわらず、ぬけぬけと、そのような醤油を逸品などと自賛してはばからない。  

 しかし、そのような醤油は、本物とはいいがたい。
 外国産原料を避けているだけ、いくらか「本物醤油」に近づいているといえなくもないが。強いていえば、「本物志向の醤油」とでもいうべきか。その一方で、相変わらず「速成醤油」を大量につくって売っている。ニセものと本物という二本立てを平然と行う。   

  そもそも、醤油に本物とニセものがあること自体、尋常でない。 醤油に限らず、すべて食物は本物でなければならない。その理由は、簡単明瞭である。私たちは食物の変身したものであるからである。食物は、私たちの生命に変わる。厳密にいえば、食物イコール私たちなのである。

 ニセものは、生命をまっとうに養わない。ニセもの食べると、ニセ人間となる。これは、生命に対するボウトクに他ならない。

 この生命を養うか否か。この一点に、食物(農産物・農産加工品)と工業製品の違いがある。工業製品は食べられない。生命を養うのは、食物であって工業製品ではない。

 ところで、つぎのような本物醤油メーカーがある。
 
このメーカについては、すでに本ブログでも、本物醤油は「良心の物質化」(2007-05-03)で紹介したことがあるが、いま一度取り上げてみる。
 このメーカーは、本物づくりに徹してきた。規模は小さいが、その経営理念と方針には、なるほどと、うなずかせるものがある。

 「わたしのところでは、品質を落としてまで利潤を増やしたいとは思いません。品質を落すくらいなら、工場をたたんで廃業します。できる限り品質のよいものをつくるのが、食品製造業の使命です。コストもさることながら、品質が第一です。食品製造業者には、他人様の健康にかかわるという、天与の使命がありますから。ここが他の分野のメ-カ-と違うところです。このような使命に反してまで、コストダウンで儲けなくともいいのです」

  この言葉は、商人というよりも職人を感じさせる。 職人かたぎといってよい。醤油メーカーとしての矜持が、本物をつくり続けさせたのであろう。この矜持とは、言い換えれば、良心の現われである。
本物醤油は「良心の物質化」である。

 いっぽう、利益を求めるため、敢えて偽物でもつくるという商人が多い。品物の高い・安いは、生命に悪影響を及ぼさない。かりに、詐欺まがいのものを買わされても、それは、金銭上の損に過ぎない。だが、食物の質の低下(まがいもの)となれば、それは、買う人の健康・寿命を損なう。これは生命を冒涜する「犯罪」といってよい。  
 


続・臆面のなさ・破廉恥・無節操は、商人の宿命

2007-05-13 14:25:44 | Weblog

 商人のもつ性格に触れておく。 

 商人を誹謗する意図はない。商人とは、そのような存在であると指摘するだけであって他意はない。

 商人には、金儲けのために手段を選ばぬ、えげつない体質がある。こうした体質は、商業という性格が作り上げる。誰しも、商人となれば、そうした属性の虜になっていく。

 商業は、人を腐食させる。 
 だが、いまの経済システムでは、商人なくしては、企業活動にしても、人々の日常生活も、すべてが成り立たない。健康と生命が、商人に握られるという矛盾を肯定しなければ、一日たりとも生きられないとは・・・。

 金儲けにつながらない倫理・道徳・社会正義などに、商人は関心がない。社会正義など唱えていたら、金は儲かるものでないからだ。  

 有機農産物のブ-ムが到来すれば、目敏い商人たちは、その時流にのって有機農産物で金儲けをはかろうとする。当然のことながら、より利益の多い方へとなびく。

 たとえば、外国産の有機栽培ホウレン草の方が、日本産有機栽培ホウレン草より儲かるとなると、日本産はやめて外国産を売る。当然のことながら、「身土不二」は無視される。「身土不二」にしても、金儲けに連ならない限り、彼らは無関心である。  

 もっとも、商人たちには、国民の健康を守ろうという意識などない。彼らの関心事は、金儲けのために健康を利用するだけである。これまで「身土不二」に反する食物を売ったことを棚に上げて、「臆面もなく」有機農産物を売るのが、商人根性なのである。

 ちなみに、ヨ-ロッパ中世では、都市住民へ食べ物を製造・供給する者が、品質をごまかしたり、異物を混入したり、量を偽ったり、食物を操作したりすると、ときには死刑にされる重罪を課せられた。これが、中世ヨ-ロッパの都市の掟であった。  このように、ヨ-ロッパの場合、法律でもって食物のごまかしを防ごうとした。

 日本の場合はどうか。不文律でもって、悪事の抑止力としたのである。 むかし、わが国には「ご先祖さまが草葉の陰で見ている」という観念があった。だから、悪事をはたらくことは、亡くなったご先祖さまの遺徳を汚すことになる。法律ではなくて、こうした観念が悪事の抑止力になったのである。


続々・臆面のなさ・破廉恥・無節操は、商人の宿命

2007-05-13 14:23:53 | Weblog

 商人だけを責めてもしかたがない。 
 
 商人は、「臆面もなく」といわれようと、「破廉恥」と非難されようと、「無節操」と叩かれようとも、誓って金を儲けなければならない宿命を背負っている。  

 商人のこのような要素は、商人の性格の一部なのであるから、彼らのそうした属性を指弾しても仕方がない。 

 商人・会社の目的は、経済的利益の追求にある。
 利益をあげることが、(株式会社などでは)株主からの至上命令である。利益から、従業員への給料を支払い、必要な経費を生みだし、株主への配当もし、さらに内部留保もしなければならない。

 したがって、商人と会社というものは、絶対に間違いなく利益をあげることが宿命づけられている。だが、この宿命こそ、商人を人間として限り無く堕落させるもとであるのだが・・・。

 たとえ、「健康に害を及ぼすもの」でも、それが利益を生みだすならば、それを売らなければならないのが、商人というものである。
 また、「よい物」であろうとも、それが利益につながらない限り無視せざるを得ないのも、商人である。


 利益は多いが「悪い物」と、利益は少ないが「よい物」があれば、商人は、前者を選択せざるを得ない。このように、商人・会社とは、その目的と仕組みからいって「破廉恥」「臆面のなさ」「無節操」にならざるを得ない性格を、もともと持っている。
 
 昔人、曰く「屏風と商人は真っ直ぐだと立たない」と。商業とは、まことに因業なものといわなければならない。

 江戸時代、あるべき商人道を説いた石田梅岩は、その著『都鄙問答』において、利益が多いからといって、品質の悪いものを言葉巧み、嘘をついてまで売るのは正しい商人の途でないと述べている。

 江戸時代は、あこぎな商売はダメという諫めがあった。     現代では、ばれなければ、否、ばれても構わないとばかりに、悪事につながる金儲けが横行して止まない。

 現代という時代が、いかに道徳的・倫理的に頽廃しているか、こうした悲しむべき様相が見えてくる。

 商人独特の反社会性は、教育にも悪影響を与えると言わなければならない。義務教育では道徳教育が行われている。
 
 学校では、「人間尊重の精神」「生命に対する畏敬の念」などが説かれる。だが、学校から一歩外にでると、商人の諸悪徳がまかり通っている。学校教育とは、なんという矛盾の中におかれていることであろうか。

 もっとも、商人らの「破廉恥」「臆面のなさ」「無節操」が横行しているからこそ、道徳教育が必要ともいえるのだが。         
 商人たちも、かつて、学校で道徳教育を受けた。だが、商人らは、その教えに反することを平然と行って恥じるところがない。学校教育は、無力ということか。


啓蒙運動としての食堂「食べ処・身土不二」

2007-05-07 22:57:13 | Weblog

 

  啓蒙運動としての食堂「食べ処・身土不二」は、JR札幌駅北口、徒歩2分のところにある。住所は、札幌市北区北7条西4丁目3番地宮澤ビル地下一階(ヨドバシカメラ斜め向かい・℡011-708-1510)である。
 
 交通の便がよいこと、健康志向の風潮、そして玄米菜食を提供している珍しさも手伝ってか、政党にかかわる人々も「来店」される。

 「店内」の壁という壁には、このブログの筆者が寄稿した新聞と雑誌のコピーが、ところ狭しとばかり張られてある。
 
  コピーには、「身土不二の原則」そして「農業と食物と健康の一体性」について、筆者なりの意見が示されている。必要とあらば、コピー(一部20円)は持ち帰りもできる。

 筆者の見るところ、この「店」の啓蒙的性格に関心を示す政党関係者は少ない。ほとんどは、変わった玄米食堂という程度の認識である。
 

 我田引水であるが、「食べ処・身土不二」のスタイルは、全国的にも稀であろう。つまり、食堂という機能を社会啓蒙運動の媒体として使っているのである。

 この食堂の狙いは、「身土不二の原則」そして「農業と食物と健康」の一体性を訴えて、都市の人々に、農業がすべての原点であることを理解してもらい、わが国の農業の支援者になってもらうことにある。

  この「身土不二」は、食糧の自給自足ができるアメリカ・フランスのような食糧輸出大国では、健康問題にも,政治経済問題にもなり難い。
  
  だが、食糧自給が脆弱(食糧自給率、カロリー換算で40%)な食糧輸入大国・日本では、「身土不二」は、健康にかかわるだけでなく、すぐれて政治と経済の問題である。

 わが国では、その過半数の人々が、「身土不二の原則」に適う食生活ができない。これは、わが国の民が、食糧輸出国に生理的・生物的・生態的に支配されている」ということである。これは滅びへの確実な途である。政治的・経済的に支配されるだけならば、滅びることはない。

 わが国の民が生き残るには、わが国が生理的・生物的・生態的に独立するしか、他に方法がない。そのためには、日本の農業を復活させなければならない。

 
 政党人こそ、こうしたことに関心を示して欲しいというのが、筆者の願いなのだか・・・。


ある国会議員の秘書の健康

2007-05-07 22:57:12 | Weblog

 ある国会議員の秘書の話である。
 この国会議員は、ある政党の幹部である。
 
 その秘書は、長年、アトピー皮膚炎で悩んでいた。
 
いろいろと治療を試みたが思わしくない。たまたま、運動としての玄米菜食食堂「食べ処・身土不二」(札幌市)で使っている玄米が、アトピー皮膚炎に効くという話を聞き及んで、半信半疑ながら、その米を買って食べた。

 しばらくすると、アトピー皮膚炎は、ほとんど治ってしまった。だが、その秘書は、このような治癒結果は、はたして、この米のせいかどうかと疑った。その真偽を確かめるために、以前、食べていた米に戻してみた。
 
 すると、アトピーが再発してきた。そこで、再び「食べ処・身土不二米」(玄米)に切り換えてみると、アトピーが消えていった。

 ちなみに、この米は、在野の農学者・佐々木健人先生(在東京)が創造した「有氣農法」(有機農法に非ず)によって生産されたものである。

 また、アトピーといえば、毎日のように来店して、玄米定食を食べているうちに、持病のアトピーがよくなるケースも現われている。アトピーだけでなく、糖尿病の血糖値が下がるという報告も寄せられ、慢性腎不全にもよい影響があるようである。

 当店で、ご飯を食べられた方々のなかには、ご自宅でも「食べ処・身土不二米」を食べたいと、この米を持ち帰るケースが増えている。医食同源とはいわれるが、このは、まさしく、その恰好な例であるといってよい。

 さきの秘書は、このようなエピソードを、このブログの筆者の講演会に出席した折、聴衆へ語ってくれた。

 さて、講演後、先の秘書としばらく話し合った。
 秘書は雇用主である某国会議員にその体験を報告したところ、たいへん驚いたそうである。そこで、筆者は「あなたのアトピー治癒体験を、個人のレベルに止どめておくには惜しい。さらに、この米をいろいろな人に食べてもらい。アトピーに効果のあることが証明されたならば、貴党の農業政策にとり入れたら、どうだろうか」と述べ、さらに次のような提案をした。

 「このような米が、全国規模で生産されて多くの日本人が   食べるようになれば、日本人の疾病と医療費の減少に貢献するに違いない

 「医食同源に適う米でもって、安さで勝負してくる輸入米を迎え撃つことができるのではなかろうか

 「このような米の生産拡大を貴党の農業政策に取り入れて、わが国米作の革新を促してはどうだろうか

 このような話をして、筆者は件の秘書と別れた。
 別れ際に、つぎのように語っておいた。この米について、くわしい説明が必要とあれば、筆者は、あなた(秘書)を雇用している国会議員と会って説明したいと述べた。そのために、いつでも、どこへでも赴くこと、旅費は、一切筆者自身が負担すると。その時から2年が過ぎたが、いまだに音沙汰がない。


救農・救民・救国政党をつくらなければ

2007-05-07 22:57:11 | Weblog

 日本農業の擁護を語らない政党はないのだが・・・ 
 
 筆者のみるところ、どの政党にしても、紙に書いた政策だけであって、実践に裏打ちされたものはなさそうである。日常的にできることさえも行わない、口先だけの政策になっていると思われてならない。
 
 たとえば、ある政党は、有機農業の重要性を訴える。だが、その政党は、党員そして支持者に対して、国産有機農産物を購入して、国産有機農産物生産者を支援しようとはしない。つまり、党員自らでさえも実行しないことを、有権者に訴えているのである。

  このような有言不実行は、ほとんどの、否、すべての政党に当てはまるといってよい。これは、政党の堕落というべきであろう。ただ、選挙のときだけ、党の農業政策を訴えるだけでは、真の支持は得られないと思うのだが。

 「食べ処・身土不二」を通して筆者がかい間見たところでは、政党のメンバー(オルグ)たちは、固定観念でがんじがらめのようである。彼らは「身土不二の原則」もよくしらないし、「身土不二の原則」と「地産地消」の違いも知らない。  
 
  ましてや、これら党員は、「農業と食物と健康」を「一体として」捉えなければならないとは、モウトウ思っていない。「農業の衰退」と「食物の荒廃」と「健康危機」は、相互に関連するものとして、つまり「一体として」捉えなければならないのだが、こうした視点はなさそうである。したがって、こうしたことを政治理念として、また政策化しようとする識見もない。  

 筆者は、現在の諸政党にはまったく期待していない。
 では、どうすればよいのか。新しい政党をつくって、日本を救わなければならない。 
 


桜沢如一、シュバイツァーと決対(1)

2007-05-07 22:57:10 | Weblog

 桜沢如一(ゆきかず・故人)は、食養(欧米名マクロビォティック *1)の提唱者として、日本国内よりも海外諸国で知られている。

 桜沢は、自ら提唱する食養(マクロビォティック)と「無双原理」(*2)を世界に伝えるために、世界旅行に出かけた。   

 桜沢は、1955年(昭和30年)10月、アフリカ・ランバレ-ネにシュバイツア-博士を訪ねた。そこには、同博士の開設した病院がある。  

 その地で食養による病人指導中に、桜沢、熱帯性潰瘍(スピロヘ-タと桿菌の混合)に冒された。この熱帯性潰瘍は、風土病である。
 
 砂ノミなどに噛まれた傷跡に菌がもぐりこみ、そこで繁殖して水腫となる。水腫が大きくなって深い穴となって、患部に20センチ平方くらいの大きさにまで広がる。この病が肺血症にまですすむと、関節硬直のために不具者となって働けなくなる。

 松本一朗『食生活の革命児』-桜沢如一の思想と生涯-(竹井出版)によれば、桜沢の発病は、1月11日の夜であった。 
 
  その夜、シュバイツア-博士に贈呈するために、同博士の誕生日1月14日に間に合わせようとして、『東洋医学の哲学』を仏文タイプで打っていた。
 
 この本でもって、シュバイツア-博士を開眼させて、「マクロビオティック」と「無双原理」を世界に広めたいと、桜沢は意図していた。 
 
  ところで、発病の原因だが、ランバレ-ネに着いて以来の食事にあると前掲書の著者はいう。桜沢は、人体実験の意味で、意図的に病院のスタッフと同じ食事(ヨーロッパ゜から取り寄せた動物性食品、乳製品、砂糖など)をしていた。

 以下、前掲書によって、桜沢とシュバイツアーの対決の模様を紹介する。  

 桜沢の発病を聞き及んで、シュバイツア-博士が、見舞いにやってきた。 

 「や-、これはひどい。たいへんだ。すぐに病院へ帰って
 手当てをしよう」  

 しかし、桜沢は、はっきり断った。
 「いや、私は私の方法でやります」
 「ノ-。絶対これは治らない」 シュワイツア-は机をたたいていった。

 「あなたの方法なら治りますか」
 「いや、だめだ。わたしもずいぶん苦しんだ。これを見      
 たまえ」
 
 シュワイツア-は、ズボンをまくり上げ、長靴下をおろして、ふくらはぎを見せた。そこには、9センチものなまなましい傷あとがあった。

 「手術でえぐり取ったのでやっと治った。しかし君のは大小、多すぎる。ひとつの傷なら手術で何とかなるが、こんなに多くてはどうにもならない。ああ、君は死んでしまう」 

 「絶対に治りませんか」 
 「絶対だめだ」 (以上、前掲書)  

 (*1)原義は「長生術、長生き法」だが、桜沢先生の提唱                   
     に拠る正食法の意味で使われている。宇宙の秩    
      序、法則にのっとった人生の道のこと。大自然とと    
     も に生きる生活法

 (*2)「無双原理」はPU(ピ-ユ-) と表記される。仏語 Le                           Principe Unique の省略形。意味はただ一つの原                理 宇宙をつらぬく根本法則のこと。