「食べ処・身土不二」(札幌)は、身土不二を日本と世界へ発信する。食堂ならぬ食堂、啓蒙運動の発信地。日本よ、滅びるな!

「身土不二」は、解放思想であり、危険思想でもある。

 日本から「身土不二」を発信し、日本と世界を救おう。

日本の生んだ偉大な国際人、桜沢如一

2007-09-28 18:28:14 | Weblog

 

 海外諸国で有名な桜沢如一(1893~1966)は、いまだに、日本では知る人が多くはない。

  もっとも、最近、ホテルでも「食養のメニュー」をおくようになったことにも見られるように、桜沢の名は、「食養」(しょくよう・欧米名マクロビオティック)の中興の祖として、日本でもいささか知られるようになっているようだが。

 桜沢の唱えた「食養」(マクロビオティック)は、海外諸国では認められるようになって、イギリス・フランスで発行される英語辞典・仏語辞典にも掲載されている 。

 この「食養」は、英和辞典に掲載されているが、国語辞典には載っていないようである。

 マクロビオティックとは、桜沢によってなされた「食養」の仏語からの日本語訳である。英語では、マクロバイオティック(macro・biotic)ということになる。

 研究社「新英和大辞典」(第五版)には、形容詞としては(禅式)正食法の(に関する)とあって、名詞としては禅式正食法実践者(信奉者)と解説されている。研究社「リ-ダ-ス英和辞典」にも、ほぼ同様の訳語がみられる。

 日本では桜沢如一という名前が、あまり知られてないことに、日本人の欧米崇拝というか、事大主義があらわれている。

 これまでも、しばしばあったことだが、海外諸国で有名になって、はじめて、日本でもその名前が知られるようになる事例がある。やはり、桜沢も、そのような例になるのであろうか。

 ◆人類に貢献した偉大なる日本人
 ともあれ、「食養」を世界に広めた桜沢は、日本の生んだ偉才な人物である。

 桜沢は愛国者でもあったが、「食養」を世界に広める種子を播いて、国際人としても不朽の業績を残した。桜沢は、おのれを生み育んだ大和民族の名を人類史上に残した偉大な人物である。

 ところで、マクロビオティックであるが、長生術という意味である。このマクロビオティックは、元来、日本では「食養」という名称で呼ばれているものである。

 「食養」とは、食事による人間革命法である。 このような食事を「正食」とも呼ばれている。食物によって「人間変革が可能」であるという哲学が、「食養」の核心である。

 「食養」を、最初、健康法として唱えたのは、明治時代の日本陸軍の薬監・石塚左玄である。この「食養」を、桜沢は思想的、哲学的、生物学的、生理的、環境的な視点から、再編成し体系化・原理化(無双原理)した。

 桜沢は、人を病気にするのも、人を病気から回復させ健康にするのも、食事次第だという。

 桜沢は、「食事を正す」ことによって得られる「真の健康」を「人間革命の礎石」として位置づけた。人類の幸せも、世界平和も、この「人間革命」なくして有り得ないとした。

 このような哲学・思想・主義に基づく「食養」を、桜沢はマクロビオティックと命名し、欧米に伝えたのである。

 アメリカ人やヨ-ロッパ人に、玄米・味噌・醤油・ごま・野菜などを中心にした「食養」、つまり「穀菜食による人間変革の方法」を提唱したのは、桜沢であった。
 

 桜沢のヨ-ロッパ人の信奉者たちによって、ベルギ-に醤油と味噌の工場ができ、パリに「食養」のレストランができたのも、すべて桜沢の欧米伝道の成果である。

 ちなみに、この「食養」とは、主として、温帯・亜寒帯にあっては、穀物と野菜を中心にした食事である。

 「食養」は、欧米の菜食主義とは異なる。「食養」は原理と技術があるが、欧米の菜食主義には、原理も技術もない。 

 シュバイツア-博士は、日本の学校の教科書にも取り上げられているが、桜沢如一の名は見当たらない。

 これまで、欧米人に知られている日本人といえば、岡倉天心、内村鑑三、新渡戸稲造、鈴木大拙などであろう。これらの先覚のひとりに、桜沢如一は加えられてしかるべきだと、筆者は思うのだが。

 最後に、申し上げておきたいことがある。 

 食養は、貧乏人が、もっともよく実践できる食生活である。貧乏人は、この食養でもって健康でいきられる。お金なくても、簡素で健康になれる食生活が、「食養」の原点である。

 ホテルの「マクロビオティック・メニュー」は、一種のファッショとなって、食養の核心である「簡素性」が失われている。

 なお、このブログの筆者は、桜沢の形骸に接する機会がなかったが、病弱な筆者が健康を取り戻し、今日まで生き長らえてきたのは、同氏の直弟子たちから教えられた「食養」のお陰である。ここに、その有り難いご縁を記し、感謝の意を表したい。

 追記;食養について詳しく知りたい方は、次の機関へ連絡されたい。これらの団体は、機関紙などを発行して、食養の普及に向けて活発な啓蒙運動を行っている。

   *日本CI(シ-アイ)協会

  〒151東京都渋谷区大山町11-5
  電話 (03)3469-7631
  FAX(03)3469-7635

   *正食協会

  〒540ー0021大阪市中央区大手通二丁目二番七号
  電話 (06)6941-7506
 
 FAX(06)6941-7039

  


ビル・トッテン社長の日本へのアドバイス:農業を再生せよ

2007-09-26 11:12:55 | Weblog

 

 やや旧聞に属するが、週刊誌「サンデー毎日」(2004年9月19日号)に載った、(株)アシストのビル・トッテン社長の日本へのアドバイスを紹介しよう。

 トッテン社長は、わが国の食糧自給率の低さに警告を発する。

 「今、日本の国を守るために憲法改正すべきだという話がありますが、いくら武器を用意しても日本の食糧自給率はカロリーで40%、穀物で30%以下」

 「だから、経済封鎖を突きつけられる国に完全に負ける。もし、国を守ろうとまじめに考える人がいれば、まず食物とエネルギーの自給率を高めることです」 

 トッテン社長の指摘する、わが国の食糧自給率の低さは、いってみれば、日本農業の衰退状況に他ならない。

 食糧の外国依存は、わが国の生命を外国に握られることである。したがって、わが国農業の復活を抜きにしては、国防にしても独立国家の体をなさない。

 産業先進国にあって、わが国の食糧自給率は最低である。日本農業は衰退というよりも「事実上」の崩壊というべきであろう 

 ◆わが国農業の崩壊は、わが国のアキレス腱

 私たちの社会には、じつにいろいろな矛盾がある。
 政治、経済、教育、文化、生活一般には、それぞれ解決しなければならない問題がある。

 だが、これらの諸問題は、その深刻さにおいて、わが国の農業の抱える問題に勝るものではない。

 なぜだろうか。
 農業は、私たちの「生命を直接的に支える」ものだからである。「身土不二の原則」に適う食物なくしては、健康で天寿をまっとうすることは、不可能である。

(「身土不二の原則」などについては、これまでこのブログで再三述べてきたから、ここでは繰り返さない。くわしく知りたい方は、このブログの履歴一覧をご覧になられて、適当なものをお読みいただきたい)

 「生命を直接的に支える」農業の衰退は、わが国では、個人にとっても社会にとっても、速やかな解決を迫られる「主要矛盾」であると言わざるを得ない。

 その他の諸分野の問題は、農業ほどに「直接に生死を左右しない」という意味で、すべて「副次的矛盾」といってよい。

  農業問題といっても、さまざまある。
 その核心は、トッテン社長の指摘にもあるように、あまりにも低い食糧自給率である。カロリー換算で40%であった自給率も、いまでは39%である。  

 だから、他にいかなる問題があろうとも、農業問題、つまり食糧自給率の100%の達成こそ、最優先課題とならなければならない。

 ことは、食糧自給率だけに止どまらない。
 食糧備蓄という問題がある。食糧自給率が低いということは、それだけ食糧備蓄がいっそう重要になる。
 
 最低でも、3か年の食糧備蓄が、できれば、5か年程度の食糧備蓄が望ましい。

 農業が「事実上」崩壊している日本では、国家としての将来も、そして民衆の生存も、危ぶまれている。わが国農業の再生なくして、わが国の将来はない。 

 


生命は、不確実な農業にかかっている

2007-09-24 13:28:18 | Weblog

 

 誰でも、「明日も、確実に生きていたい」と願うものであろう。これは、生物としての本能である。

 ところで、この「確実であって欲しい生命」であるが、それは、食物を抜きにしてはありえない。

 その食物を産みだすものが、農業である(ここでは、漁業・他については論じない)。つまり、生命を確実に維持する術は、農業にかかっているのである。
 しかも、その農業は、「身土不二の原則」から云えば、自国の農業でなければならない。

 だが、農業ほど、不確実なものはない。
 料飲店、バー、スナックなどは、水商売といわれる。水商売とは、人気によって存続が左右される不安定な商売のことである。

 農業は、この水商売よりも、いっそう不安定である。
 雨水が多すぎても、少なすぎてもダメ。日照も少なくてはダメ。暑すぎても寒すぎてもダメ。
 
 天候も順調であって、今年は豊作に違いないと皮算用していても、台風一過で、農作物が壊滅的打撃を受けることもある。

 天候は気まぐれであり、人間の力では如何ともしがたい。この気まぐれな天候に左右されるのが、農業である。農業の性格を、ひとことでいえば、「不確実」に尽きる。

  さきに、誰しも、「生命は確実であって欲しい」と願うと述べた。

 この「確実であって欲しい生命」が、「不確実きわまる農業」に頼らざるを得ないとは、大いなる矛盾と言わなければなるまい。

  この「矛盾」に思いをはせると、あらゆる方策を尽くしても、日本の農業を擁護しなければならないはずである。

 食糧自給率100%では,まだ、安心できない。少なくても、200%程度は確保すべきである。

 さらに、不作に備えて、米などの備蓄を、最低3年分は用意しなければなるまい。

 そのため、国家予算で許せる限りの税金を、他の分野の費用を削ってでも、農業へまわさなければならない。

 なぜ、これほど農業を重視しなければならないのであろうか。先に述べたが、「生命は農業に担保」されているからである。

 生命あっての、政治と経済である。
 政治にしても経済にしても、「生命が安んじられる」ためにこそ、必要となる。

 このように考えると、わが国の食糧自給率がカロリー換算で40%(最近では39%)とは、気違い沙汰である。 

 この数字は、政治と経済が「生命をないがしろ」にしていることを雄弁に物語っている。

 ◆レスターブラウンの警告
 食糧の基本である穀物の需給が、世界的に逼迫しているといわれている。

  レスターブラウン『フード・セキュリィティ』によると、この4年間で、世界の穀物生産量は、その生産量が消費量を下回った。その結果、穀物の備蓄は、ここ30年間の最低水準まで落ち込み、穀物の価格の高騰も予想される。

  ところで、わが国の穀物自給率は、およそ20%である。     1950年代、わが国は穀物はほぼ自給できていたが、いまでは、米を除けば、その穀物自給率は危うい状況にある。その米でさえ、減反政策という悪政で、国民の必要量を賄えない。

 レスターブラウンは、前掲書で、食物争奪戦争もありうるとつぎのようにいう。

 「土地の生産性の伸びが鈍化し続け、一方で、人口が毎年七000万人以上増えつづけるなら、各国政府はナショナル・セキュリティ(国家安全保障)を、食糧不足と食糧価格の高騰、そして「不足の時代」に対応する政治という観点から構想するようになるだろう」。

 さらに、同氏は「フード・インセキュリティ(食糧不安)は、各国政府の最大の懸念材料として、近いうちにテロリズムより重視されるかもしれない」(前掲書11ページ)という。

 このような国際状況にあって、食糧輸入大国、つまり農業小国である日本は、じつに危うい国であるといわなければなるまい。

 わが国は、「農滅べば、民滅び、国亡ぶ」への途を歩んでいる。  

 食糧危機ともなれば、わが国の納税者は危うい。納税者の税金で運営されている政府が、納税者を餓死させる危機にさらしかねないとは、なんたることか。  

 


わが国民の多くは、己の生命を大切にしないのでは?

2007-09-21 12:08:26 | Weblog

 

  今年、このブログの筆者は、支援者とともに、再度、農作物栽培を手がけている。

 佐々木健人先生の創始された「有氣農業」で、2反ほどの耕作をしている(なお、「有氣農業」については、前回、前々回を参照のこと)。

 ところで、なぜ、農作物栽培にかかわっているのだろうか。 さきに結論をいえば、「イノチ根性」が汚いからである。食物を自らの手で確保して、不測の食糧危機が来ても、安全・安心な状況にわが身をおきたいからである。

 わが国民の過半数は、「輸入食糧に頼って生きている」。
 つまり、「おのれの命」を食糧輸出国に握られているということだ。「おのれの命」を外国に預けることは、「すべて」を外国の意のままに操られるということに他ならない。

 個人だけでなく、国もそうである。
 食糧輸入大国・日本は、その政治も経済も文化も、あらゆることが「食糧輸出国の意向」に従わざるを得ない国に成り果ててしまった。国として、これ以上の不名誉はなく、まさしく奴隷に等しい。

 ◆わが国政府の無能

 食糧自給ができないということは、わが国政府が、その「納税者の生命」を守ることを怠っていることに他ならない。

 政治の定義を、「福武国語辞典」(福武書店)にみてみよう。「国を治めること。主権者が立法・司法・行政などの諸機関を通じて、領土や国民の生活を守ること」

この「生活を守ること」には、当然のことながら、「生命を守ること」が含まれるはずである。生命を守れない政治は、もはや、政治の名に値しない。

  政府は、納税者の税金でまかなわれている。
 その政府が、納税者を守らないとは言語道断である.

 「納税者を裏切る政府」で運営される日本は、じつに「危うい国」といわなければなるまい。

 もっとも、そのような無能な政府を選んでいるのも、納税者であり選挙民でもあるのだが。 

 納税者の多くには、おそらく、このブログの筆者のいう「危うい日本」という認識がないのであろう。
 
 もしも、「食糧自給こそ生命の綱」という認識が、納税者にあれば、わが国は、食糧自給100%となっているはずだからである。そうした認識に欠けることが、食糧自給率40%という異常事態を招いているともいえよう。

 納税者(選挙民)が、「真剣に食糧自給」を求めるならば、国政選挙はもちろんのこと、地方議会選挙においても、「食糧自給」が最大の争点になるに違いない。この「食糧自給」という問題は、これまで選挙での争点になったためしがない。

 「食糧自給」を求める声が、国民的規模で起きてないということは、選挙民(=納税者)の多くが、「食糧自給を真剣に考えてない」ことを表しているといってよい。

 食糧自給を真剣に考えてない」ということは、「生命維持を真剣に考えていない」ということに他ならない。

 これは、いいかえると、食糧危機に見舞われたとき、飢餓で死んでも構わないということである。こうした生き方も、ひとつの選択肢であるから、別に非難されることはないが。

 だが、こうした覚悟の持ち主は、例外的少数であろう。
 餓死したくない。これが、大部分であろう。これが、生物としては当然ではある。生き抜くというのが、生物の掟であるのだから。

 食糧危機にあっても確実に生きたいのであれば、食糧自給に最大の関心を寄せなければならないはずだ。その関心がないとは、ウカツというしかない。
 
 もっとも、このような「ウカツさ」を導いた政府の責任は、いうまでもない。

 ◆作家・小桧山博氏の農政批判

 札幌市在住の作家、小桧山博氏は、北海道新聞のコラム「本」 (98・1・18)に、「農業の大切さを知らない怖さ」と題して、わが国の農政を批判している。

 「農地があり作る人も技術もあるのに輸入をつづけるのは、輸出入で巨大な利益を手にする人間がいるからだ」「中央官庁の農業をしたこともない、食べ物の何たるかを知らない役人や政治家が机の上で考えた農政の結果がこれだ」

 さらに、同氏の批判は、国民にも及ぶ。
 「いま地球上の五分の一の人が食糧難に苦しみ、今後さらに地球の環境悪化と砂漠化で農地が減り、人口増で食糧難になる。それでもなお、わが国の一億二千万人は百年後、二百年後になっても、まだカネさえあれば世界中から食べ物を買いあさることができると思っているのだ。これは想像力がないというより、ほとんど狂喜に近い鈍感さといえる」

 そして、同氏は、日本国民のウカツさをも指摘する。
 「われわれ国民に、人間の命を維持するのは食べ物で、それを作っているのが農民だという認識がないことが恐ろしい。人間の命を支える食べ物を作る以上に重要な仕事が、ほかにあるか?と思うのだ」

 小桧山氏の憤りと嘆きは、もっともである。
 「農なくして民の栄え」はありえない。 

 先の敗戦で、日本は政治的・経済的・文化的に滅んだ。敗戦後しばらく、わが国の農業は滅ばずに健在であった。農業が健在であるかぎり、わが国民が「生理的・生物的に滅びる」危機はなかった。

 しかし、敗戦後、わが国の農業は、一時期を除けば、衰退の一途をたどってきた。そして、いまや食糧自給率39%ともなれば、日本農業は「事実上」崩壊したといってよい。

 こうした惨状にあって、日本の民の多くは、輸入農産物という「身土不二の原則」に反する食物によって、「生理的・生物的」に淘汰される危機にさらされている。

 


「有氣農法」作物には、糖尿病などを引き起こす硝酸態窒素がない

2007-09-19 09:17:10 | Weblog

 

「有農法」で農作物を育てると、多収穫となる。
 慣行農業(農薬・化学肥料)あるいは有機農業などよりも、「有農法」では,収量が3倍から5倍ほど多くなる。

 多収穫であるということは、農産物のコストが下がるということである。この多収穫という特徴でもって、輸入農産物の安さに対抗できる。

 しかも、「有農法」による作物は、美味しくて、安心・安全である。

 安心・安全といえば、例えば、最近、糖尿病の引き金となる「残留硝酸性窒息」(硝酸態窒素)が注目を浴びている。

 これは、慣行農業と有機農業ではなかなか減らせないが、「有農法」では、この硝酸態窒息がゼロ、ないし激減してごく微量になり、WHO安全基準以下となる。

 多収穫、安全、美味となれば、「有農法」は、輸入農産物対策への切り札になりうる。

  佐々木先生によれば、「有氣農法」は日本の農業を守るためにあるとおっしゃられる。そのノウハウは外国には教えないといわれる。

 同先生は、愛国者であり、かつ、人類を救済できる「有氣農法」を発明されたという意味で、国際人でもあられる。

  ◆佐々木先生の「土壌と生命哲学」
  佐々木先生は、学識・経験ともに豊かな在野の農学者であり、哲学者でもあられる。

「有氣農法」は、同先生の土壌・生命哲学で裏打ちされている。同先生は、つぎのようにおっしゃられる。

 「私たちは、先祖のお陰で生かされている。先祖といっても、人間のご先祖だけでなく、人類発生以来のすべてのイノチである。私たちは、すべて(先祖)のイノチの今日の姿である」

「先祖のイノチのスタートは、バクテリアから始まる。そして、先祖のイノチは、ミジンコ、ダニ、昆虫、植物、動物へ受け継がれ、最終的に人間の先祖へと連綿と保たれてきた」

「人間、死して土にかえること(土壌微生物群で分解される)からも明らかのように、生命エネルギーは循環している。土壌微生物群は、先祖のイノチの集積である」

「そのエネルギーを糧として、私たちは生きている。食事の時に「戴きまーす」というのは、この連綿とし続いてきたイノチを戴くのであるから、その縁に感謝すべきである」

 以上、佐々木先生の生命観・世界観をなどをかいつまんでご紹介した。同先生の世界観は、汎神論的「土壌・生命論」と言い換えてもよい。

「有農法」は、「天の気」と「地の気」を充分に作物にとり入れる画期的農法である。

「有氣農法」を、このブログの筆者は、別名、「健人農法」と呼びならわしている。 

  ◆終わりに
  佐々木健人先生とこのブログの筆者とのご縁は、10年前にさかのぼる。 

 当時、筆者は、月刊誌「マクロビオティック」(日本CI協会発行)に寄稿していた。たまたま、佐々木先生が拙稿をご覧になられて、お手紙をいただいた。

 それ以来今日まで、なにかとご指導をいただいている。
 8年前、このブログの筆者とその仲間達が、洞爺湖畔(北海道)で野菜を栽培していたところ、営農の費用に当てなさいと、佐々木先生から多額のご寄付をいただいたことがあった。まことに、有り難いことであった。

 さらに、本年、いろいろな事情で中止していた農業を再開した。  同先生に、改めて「有農法」を手ほどきしていただいた。不明の点は毎日のように、畑から携帯電話で問い合わせをした。さぞ、ご迷惑であったにちがいない。ご多忙にもかかわず、いつも、懇切丁寧にご指導いただいた。

「有農法」初年度にして、そこそこの成績を残せそうなのも、佐々木先生のご指導によるものである。まことに有難いことである。

 


「氣違い農法」で、「病を治す作物」がとれるのは、なぜか

2007-09-17 00:39:10 | Weblog

 

 「食べ処・身土不二」(札幌)でのケースとして、「気違い農法」で栽培された玄米でアトピーが劇的に治ったことを、前回、紹介した。

(同店HPへのアクセスは、このブログのBOOKMARKをクリックして下さい)

「気違い農法」とは、前回述べたように、佐々木健人先生の創始された「有農法」の別名である。

 この「有農法」で病が治った本州のケースを、いくつか紹介しよう。

 ◆ 「有氣農産物」の治病効果
 以下は、「有農法」の創始者・佐々木健人先生から、このブログの筆者宛ての手紙からの抜書きである。

「《生命エネルギー》の根幹であるイノチのご先祖「土壌微生物群」に愛情を持って育てられた作物は、イノチのエネルギーに溢れている。このようなイノチのエネルギーの充満した有氣栽培作物」を食べるだけで、種々の難病が緩解する事例があらわれてきた」

「たとえば、静岡県の川根でお茶を生産されている生産者Tさんである。Tさんは、「有氣農法」4年目の紅茶で、つぎのような疾病が完治した。花粉症・喘息・脳卒中・若年」 

「へルペスも治る。大阪の男女二人のヘルペスが 静岡県浜岡のSさんの「有氣農法」3年目のイチゴで、それぞれ数日で完治した」

「最後に、米の例を挙げておこう。栃木県で「有氣栽培米」つくり6年目のEさんのお米で、4歳と1歳半の二人の坊やは、そのアトピーが約2か月でよくなった。さらに、その母親は、かんばしくなかった産後の肥立ちが、やはり2か月で元気になった」

 病が治る「農法」とは、どのような農法なのであろうか。

  ◆「有農法」は、有機農法とどう違うのか 
 その最も大きな違いは、完熟堆肥を用いるか否かということにある。

有機農法」は完熟堆肥を用いるが、「有農法」では、完熟堆肥に限らず、堆肥というものを使わない。
 

有氣農法」では、生の有機質、あるいは半生の牛糞・豚糞など、さらには草・木の枝・ダンボールなど、つまり有機質のものなら何でもよい。これらをそのまま農地へバラマクのである。

 そのバラマイタところへ、佐々木先生ご考案の「土中微生物活性剤」(水で希釈)を散布する。その直後、種をまいてもいいし、あるいは苗を定植してもよい。

 これで、作物には、いかなる支障も起きない。
 その発根力は強く、成長は旺盛である。

  ふつう、牛糞・豚糞などの「生の有機質」を土壌へすきこみ種をまくと、種は肥料やけを起こして発芽しない。種子は腐ってしまう。

 だから、有機農法では、「生の有機質」をそのまま用いないで、それを堆肥にして用いるのである。だが「有農法」では、堆肥というものを一切使わず、「生の有機質」をそのまま使うのである。

 佐々木先生曰く「完熟堆肥は、肝心な肥料分が抜けてしまったエネルギーの燃えカスだ。だから、完熟堆肥では氣のエネルギーが強く、生命力のある作物はできない。氣の抜けた作物では、病を治すパワーに欠ける

 堆肥を使う有機農業では、絶対禁じられている「生の有機質のもの」を、有氣農業では使う。このことひとつにも、「有農業」の画期的なことがうかがえる。

 ところで、なぜ、「氣の抜けた作物」ではなく「パワーのある食物」を食べなければならないのだろうか。

「パワーのない食物」では、生命と健康が衰えるからである。生命と健康の衰えた民族には、滅亡の将来が待ち受けている。

    農は、生命と健康の源」

  「農滅べば、人滅び、国亡ぶ」

 「人が滅ぶ」のは、健康が滅びる
  からである。
 

 ◆健康と農業は切り離せない
 都市では、農業に関心をもつ人は、少ない。
 だが、健康に関心を寄せる人は、多い。

 不思議なことである。食物で、健康が得られて生命が保たれることは、都市に人々にとって常識なはずである。

 にもかかわらず、都市の人々の多くは、その食物を産みだす農業に関心を抱かないとは、じつに、不可解である。 

 健康に関心を持てば持つほど、「農産物の質」にも関心を持たなくてはならないはずなのに、そうでないとは、一体どうしたことであろうか。

 さて、「農産物の質」である。
 さきにみたとおり「有農法」と「有機農法」では「農産物の質」が異なる。

「作物の質」は「農法」と深い関係がある。また、「作物の質」は、健康と分かちがたく結びついている。 

 とすれば、健康に関心を持つ人々は、「作物の質」「農法の違い」に関心を持たざるを得ないはずだが・・・。

 ここで、佐々木健人先生が創始された「有氣農法」を紹介するのも、都市の人々に「農業」「農産物の質」「農法」に関心を持って貰いたいからである。 

  なお、「食べ処・身土不二」(札幌)のURLは、
  
次の通りである。

 http://shindofuji.info/contents/index.html

 

 


「氣違い農法」の玄米で、アトピー皮膚炎が、劇的に好転

2007-09-14 11:23:49 | Weblog

   

 前回、長ネギの話をした。
 
 痕跡 だけを残して姿かたちが、溶けてなくなるネギ。
 干からびているが、姿かたちの残るネギ。

  姿かたちが溶けてしまったネギを、「水ぶくれ」といい、干からびているが形の残るネギを、「生命力」があると述べた。

 「生命力のない」「水ぶくれの野菜」を食べていると、食べた人も、「水ぶくれとなって生命力を弱める」ことになる、とも述べた。

 「生命力」とは、「氣」というエネルギーが満ちたパワーのことと、このブログの筆者は考えている。

 さて、「食べ処・身土不二」(札幌)では、この「氣」というエネルギーの満ちた玄米食をお出ししている。

 その玄米食で、劇的にアトピー皮膚炎が治った、当店のお客さまのケースを紹介したい。

  その方は、中年の女性で医療関係の仕事をされている。 アトピーがひどいので何とかならないか、と相談を受けた。

 なるほど、顔がひどい状態になっている。
 そこで、毎日(当店は年中無休)、「食べ処・身土不二」に通って、夕食は、当店の玄米定食を食べていただくことになった。

  一週間ほどすると、少しよくなった。二週間すると、だいぶよくなり、三週間を過ぎるころには、見違えるほどになった。一月もすると、ほぼ正常になった。

 当店の関係者も、改めて当店の玄米による「治病効果」を再確認したのであった。
 

  これまでも、当店の玄米でアトピーがよくなったという、うれしい知らせが届くことは珍しくない。
 
 だが、先に紹介したケースは、あまりにも劇的なので、当店の従業員一同、目を見張ったのである。

  さて、当店の玄米は、「有栽培」のものである。
  「有栽培」とは、前々回(9月10日)で紹介した、佐々木健人先生が創始された農法である。

 「有氣栽培」のものは、米に限らず、野菜も果実も、多収穫、美味、安心・安全、しかも「治病効果」がある。

 「有氣栽培米」の「治病効果」について、佐々木健人先生は、このブログの筆者への手紙で、こう述べておられる。

 「医食同源は、これまで、観念として受け止めていたが、   
 『有氣農法農産物』で病が治る実例に接すると、医食同源を実現できる理想の作物が、農業にかかわって28年目にして、実現できたことが嬉しい」。

 ______________________________

 ちなみに、このブログの筆者は、仲間らと、いま、ある農地を借りて、「有氣栽培」を実験的に行っている。

 「有氣」と書くと、「有機」の間違いではないかといわれるが、間違いではない。「氣」の満ちた農産物をつくるのが、「有氣農法」である。

 この「有氣農法」は、そのやり方が、従来の有機農法とはあまりにもかけ離れているので、この農法のことを、佐々木健人先生ご自身、「気違い農法」とも呼び習わしておられる。

     この続きは、次回(9月17日)に。

 


トケテ、姿かたちが消えたネギ

2007-09-12 09:05:16 | Weblog

 

 「生命力のない野菜」が、市場に出まわっている。
 
 市場で売られている野菜には、少数の例外を除いて、そのほとんどに、「生命力がない」といってよいかもしれない。

 「生命力のない野菜」とは、どのような野菜なのか。
 
 その実例を挙げておこう。もうかれこれ、10年以上も前のことである。ある知人から、長ネギをもらったことがあった。
 
 貰ったネギを、冷蔵庫に入れておいたまま、旅行にでかけ、およそ一月の長期旅行から戻ってきた。

 調理しているうちに、ネギが必要になった。
 「ああ、そうだ」と、冷蔵庫を探してみた。


 あのネギが、見つからない。 
 おかしいなと思って、よく調べてみた。あのネギの置いてあったところに、かすかなシミみたいな跡だけが残っていた。あのネギは、トケテ無くなってしまったのである。 

 かって、有機栽培のネギを冷蔵庫に入れ忘れて、2ヶ月くらい海外旅行で留守をしたことがあった。
 

 そのときのことを思い出した。あの有氣栽培のネギは、ヒカラビテはいたが、形は残っていた。 

  

  痕跡だけを残して、トケテなくなるネギ。

 ヒカラビテてはいるが、姿かたちの残るネギ。

 この違いは、いったい何んなのであろうか。
 おそらく、トケテなくなったネギは、ネギとしての実質がない、いわゆる「水ぶくれ」であったに違いない。

 冒頭で、「生命力のい野菜」の話しをした。まさに、このようなネギが、「水ぶくれの野菜」の例である。

 「生命力のない」「水ぶくれの野菜」を食べていると、食べた人も、水ぶくれとなって生命力を弱めることになる。
 

 (今回のブログは、佐々木健人先生の「有氣農法」と、前回に予告した。さきのネギの話は、次回に紹介する「有氣農法」への導入部をお考えいただきたい)

 


日本人の3人中2人が、生命を外国に預けているとは、いったいドウシタことか

2007-09-10 15:27:36 | Weblog

 

 食料自給率が1%下がって、わが国の食料自給率はカロリー換算で、いまや、39%となった。

 つまり、わが国の人口の過半数(61%)は、その生命と健康を外国の農民に依存していることになる。

 日本農民に頼るのならまだしも、己の「生命の糧」を外国農民に依存するとは、何と危ういことであろうか。

 ◆お金と農畜産物
  人々は、万一の事態に備えて、疾病保険、生命保険、自動車保険、火災保険などをかけて、己の財産と生命を守ろうとする。

 だが、いっぽう、保険などで生命を守ろうとする都市の人々が、「わが国の農業の衰退」(食糧自給率39%)に深刻さを感じないとは、いったいどうしたことであろうか。「うかつ」といえば、これ以上の「うかつ」はない。

 「わが国の農業の衰退」とは、わが国の都市の人々にとって、潜在的な「生命の危機」に他ならない。

 輸入農産物が何らかの事情で途絶えたとき、いまのような「衰退した農業」は、最悪、迫り来る餓死という危機から、わが国の民を救えない。

 生命を保つには、究極的には、保険(金)ではなく、食物が必要である。

 保険には関心をいだくが、生命の源ともいえる食糧を産みだす「わが国の農業」に、都市の人々がこうも無関心であるとは、不可解である。

 各種保険で生命を守るとはいっても、それは、「お金で守る」ことに過ぎない。いかに大金があろうとも、非常時、食糧・食料がまったくなくなれば、買うことすらできない。

 しかも、お金は食べられない。お金では生命を保てない。

  生命を保つには、お金ではなく、「食糧という現物」、そしてその食糧を産みだす「農業」がなければならない。

 しかも、この「食糧という現物」は、「身土不二の原則」からも、わが国の農業で産みだされたものでなければならない。  

 ◆農業問題とは、優れて都市問題
 「生命の安否」は、食物にかかっている。 

 この厳然たる事実を踏まえるとき、食糧・食料をつくらない都市の人々こそ、農民に以上に、わが国農業の惨状とその行方に最大の関心を寄せなければならない筈だが・・・。 

 だが、現実は、農業というものに自らの生存がかかっているという切実な思いに欠ける都市の人々が多すぎる。

 「農滅べば、民滅び、国亡ぶ」といわれる。

 「農は国の基」である。
  
政治も、経済も、文化も、防衛も、その他、すべては農業にかかっている。

 いま一度云っておこう。 
 健康と生命が大切ならば、保険もさることながら、わが国農業の振興を願わなければならない。
 

 ◆画期的農法を実践中
 「民の生命と一国の命運」がかかっている農業は、わが国では、食料自給率39%に示されるように、衰退の極にある。

 その衰退を、微力ながら、いささかなりともくい止める可能性を求めて、いま、このブログの筆者らは、ある農地を借りて、病を治す効能もある農産物を実験的に栽培している。

 この栽培方法は、佐々木健人先生(在東京)によって創始された「有氣農業」(有機農業に非ず)といわれるものである。

 この農法による作物は、生命力にあふれ、多収穫で、しかも美味しい。この農法こそ、安い輸入農畜産物への防波堤となる可能性を秘めている。

 次回、この「有氣農業」のあらまし、そして、このブログの筆者らの実践についてお知らせする。


続々「身土不二」には競争がない:「身土不二」はWTOへの対抗原理 

2007-09-07 07:56:28 | Weblog

 

             (前回、前々回の続き)

 「身土不二の原則」は、言うまでもなく、日本だけでなく、世界各国にかかわるものである。つまり、この「原則」は、世界性というか国際性をもつものである。

 
ここでは、この「原則」とWTO(世界貿易機構)との関係を考えてみる。

 先に結論をいえば、「身土不二の原則」は、WTOの行きかたと、全面的に衝突する。

 いまや、グローバル化が、時代の潮流といわれている。WTOとは、そのグローバル化を取り仕切る国際的な組織である。

 その農業政策のねらいは、農畜産物自由貿易化(以下、WTO路線という)である。つまり、農畜産物の価格競争を通して「安さ」の追及ということになる。

 「WTO路線」とは、いってみれば、大農業国における「環境収奪型の営農形態」そして「政府の農業補助金」でもって農産物の「安さ」を志向する。

 その結果、一握りの農業大国の農業は別として、「WTO路線」によって、「各国の農業」が淘汰されてしまうと危惧されてならない。

 ちなみに、ここでいう「各国の農業」とは、輸出向けのモノカルチャー的な換金作物(例えばコーヒ単作)農業ではない。

 「各国の農業」のあるべき姿とは、自給自足農業、すなわち、それぞれの国民の生命を支える農畜産物を100%自給することである。

 「WTO路線」は、この「各国の農業」と真っ向からぶつかる。だが、「各国の農業」こそ、各国の人々が健康で天寿を全うするために欠かせない。

「WTO」がねらう農畜産物自由貿易化は、「各国の農業」そして「身土不二の原則」の否定に他ならない。

 「食は命なり」といわれる。
 「食物イコ-ル生命」である。
 「食物という生命体」が、「人間という生命体」に変わること、これが、「食物イコ-ル生命」の意味である。

 「WTO路線」の「安さ」を武器にする世界規模での商業活動は、「食物イコール生命」であらわされる「食物の本質」とは鋭く対立する。つまり、「WTO路線」は、「安さ」を売り物にする輸入農畜産物で、「食物イコ-ル生命」を否定する。

 このような「WTO路線」は、安さでもって「各国の農業」を破壊してしまう。「各国の農業」の崩壊で、人々は、必然的に「身土不二に原則」に反する輸入農産物に頼らざるを得なくなる。その結果、生命の強靭さが損なわれ、疾病と犯罪が増える。

 
土壌を疲弊させる過剰生産で環境を破壊し、疾病と犯罪を増加させる「農畜産物の安さ」とは、いったい何か。この「安さ」は、人類を滅ぼす劇薬とでもいうべきである。 

  「安さ」は、「食物の本質的な要素」ではない。
  
   
「安い」輸入農産物ではなく、「各国の農業」が産みだした農畜産物(「身土不二の原則」に適う)でもって、健康で天寿を全うすることが、人類の願いであろう。 

  
この人類の願いが、最も「安い」。 

  


続・「身土不二」には、競争というものがない

2007-09-05 14:55:54 | Weblog

 

  前回(9月3日)、「身土不二」には、「原理的」に競争というものがないと書いた。

 この「原理的に競争がない」ということを、もう少しくわしくみてみよう。

 たとえば、熊である。白熊は、寒帯という環境が産んだもの。ヒグマは、亜寒帯の産物。それぞれの「環境の独自性」が、その「独自性」に適った生物を産みだす.

 ところで、「環境の独自性」とは、何だろうか。
 生理的・生物的・生態的な「独占性・排他性・自立性」のことである。例えば、寒帯に住む白熊は、亜寒帯では生存できない。それは、白熊は、亜寒帯という環境から排除されるからである。リンゴの育つ環境には、バナナは育たない。

 白熊、ヒグマ、リンゴ、バナナは、それぞれに「適した環境」の下でしか生き残れない。他の環境では、その環境から排除れて淘汰されてしまう。このことを「環境の排他性」という。この「性質」は、「自然の掟」であるから、侵すことができない。

 私たちの社会は、この「環境的独自性・排他性」を土台にしている。この「環境の不可侵性」の政治・経済・社会的なあらわれが、「地域主権」である。

「地域主権」は、「地域の独自性」ゆえに、不可侵である。  
 だが、この「地域主権」の「不可侵性」に挑んでいるのが、グローバリゼイションである。

 いまや、世界はグローバリゼイションが進行中である。
 市場経済システムの下で、世界を巻き込んでの経済競争が行われている。

 だが、「身土不二」には、原理的に競争というものがない。「ある地域という環境」が「別の地域の環境」と、競争・競合することはあり得ないからである。地域と地域は「相互不可侵」の関係にある。

「身土不二という自然の摂理・秩序」の物質化である食物も、当然のことながら、この「地域的排他性・不可侵性」をもつのである。

 例えば、日本産リンゴとミカンは、日本では「適食」であるが、熱帯地域へ持っていくと、そこでは「不適食」となる。

   「環境との親和性」のあるものが「適食」
   「環境の排他性」のあらわれが「不適食」

「適食」と「不適食」では、競争というものはあり得ない。   
 競争のしようもないのが、「身土不二」というものである。これが「自然の摂理」である。 

 だが、この「自然の摂理」を人為的に侵して、世界規模で「あってはならない競争」を繰り広げているのが、グローバリゼイションである。

 グローバリゼイションとは、この「自然の摂理・秩序」である「地域的独自性・排他性・自立性・不可侵性」への挑戦に他ならない。

「地域的排他性・不可侵性」の視点からは、こと食物にあっても、競争というものがあってはならない。だが、残念ながら、グローバリゼイションによって、食物がその競争に巻き込まれている。その競争のシンボルが、輸入農産畜産物である。

  グローバリゼイションによって、輸入農産畜産物が世界中に売られている。これは、人類を不幸にすると思われてならない。 

 輸入農産畜産物というものは、「食物が生産される環境とその食物を食べる人が住む環境が異なるので、不適食」なのである。

 輸入農産畜産物は、「環境の排他性・不可侵性」が作用するので、食べる人の体内で円滑に代謝できない。これが、「身土不二」の生理的・生物的・環境的反応である。 

 したがって、こうした食物を食べさせられると、人類は、健康障害という不幸に見舞われる。

 しかも、競争であるから、このシステムの下では、必然的に優勝劣敗が生じる。少数の勝者と多数の敗者が生まれる。こうしたことも、人類の不幸に加えられてよい。


「身土不二」には、競争というものがない

2007-09-03 10:14:18 | Weblog

 

 昔から、「ところ違えば、品違う」といわれてきた。
 まさに、この言い伝えをあらわすものが「身土不二の原則」である。

 いかなる農産物も、その原産国では「適食」であるが、外国へ輸出されると、それは「身土不二の原則」に反する「不適食」となる。

 例えば、熱帯の産物であるバナナは、その原産国では「適食」であるが、温帯の日本へ輸出されると「不適食」となる。

 日本産リンゴとミカンは、日本では「適食」であるが、熱帯地域では「不適食」となる。これが、「身土不二の原則」というものである。まさしく「甲の薬は乙の毒」(諺)である。

 ◆「食は命なり」
 食物という生命体が、人間という生命体へ変化する。 

 この転換は、「生命の鉄則」というべきもの、あるいは「宇宙の法則」といってもよい。

 それが、今日では、蹂躙されている。
 例えば、農産物貿易である。
 これは、別名、「食物を用いた、生命に対する蹂躙と冒涜の経済行為」とでもいうべきものである。

 ◆農産物貿易は戦争である
 農産物貿易は、武器によらない戦争である。
 農産物貿易は、血を見ない戦争である。
 
農産物貿易とは、人間による「環境への反逆」である。
  
「環境と食物と人間」の関係をいまいちど述べておこう。
 ある環境(例えばアメリカ大陸)では「薬ともいうべき食物」が、別な環境(例えば日本列島)へ移動(輸出)されると、「毒」へと変化する。当然のことながら、この逆も成り立つ。

 「生命と健康」へと変わるべき食物が、その産地から他へ移動されると、その正反対のもの(病気)へと変化する。

 農産物貿易とは、「食物の移動」による経済競争である。       
 この経済競争は、「身土不二の原則」から云えば、生命を害するものとならざるを得ない。

 「身土不二の原則」は、原理的に競争と云うものを否定している。

 したがって、食糧危機のときは別として、食物の移動は、とりわけ国外へはすべきでないことになる。