先に『幸せ談義』において、幸せに対して私達は「待ち」の姿勢でいるより他はないと述べた。いくら努力をしても「やってくるもの、訪れるもの」である。そしてこの「待ち受ける」姿勢も態度も、ただそれだけで良いというものではない。
それが「独立、自立、そして自主性」の中で述べた、「したいのにしてはならない」ことであり「したくないのにしなければならない」ことなのである。この事は、幸せというものが私達の我侭が通るだけのものではないことを意味している。
私達一人一人の我侭が通るような幸せなら、世の中がこのように乱れることはないだろう。
だが私達の我侭は、通ることはない。それは人もまた、自分の我侭を通したいからである。この我侭を通したいもの同士がぶつかり合って軋轢が生じていがみ合い、世の中が乱れている。その一方では、こうしたことを避けて「引きこもる」人もいる。
「したいのにしてはならない」「したくないのにしなければならない」という、それは人間らしさの独立心や自立心、自主性というべきものを持って我侭を捨てないことには、私達はいつまでも幸せを「待ち受ける」という姿勢でいなければならなくなる。
その点「したいのにしてはならない」「したくないのにしなければならない」という事は、積極性を持つ。忍耐心も持つ。我慢強さも要求される。人としての「生きる強さ」ともなる。
私がこのブログで公開しているものは、断言していながら結論としては断言していない尻すぼみなものになっている。いわば指標も志向性を示さないし方向性も示していないといえるだろう。志もビジョンも語っていない部分もある。
その理由は、時は刻一刻変化していることにある。指標や方向性やビジョンを示したとしても、刻一刻の変化には付いていけないからである。どうしても刻一刻の変化に合わせるより仕方がなく、いたずらに方向性やビジョンに縛られると、そのために身動きできなくなってしまうからである。
それは茶道の精神で言われる「一期一会」のように、「今を正しく生きる」ということが、私達人の幸せとなる生き方となるだろう。
最後に、私のこのブログに対して、「Hをしよう」というようなサイトからのコメントが寄せられる。そうしたコメントは公開せずにすぐに削除してしまうが、こういうコメントを寄せる人達に、「自分の行いの姿をよく見詰めてほしい」と申し上げたい。