青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

体罰の是非

2017年12月23日 | 短歌に政治や社会

貴乃花親方の「弁解書」を協会重視せず 出席者「非協力的だった責任重く」

世間を揺るがしている相撲界の暴力事件は、そもそも体罰の是非が絡んでいる。
いわゆる体罰は、イコール暴力とみなされていることにある。
しかし私からすれば、体罰は是でもなく否でもないと言わなければならない。

体罰的暴力が行われるのは、言動に対する戒めである。
しかしこの戒めを、他の者が行うという一般的なことが、体罰とか暴力とされて問題になっている。
これというのも、現今の教育の在り方とも関連している。

本来、人が行った言動の是非は、他の者によって制裁を科すべきことではない。
如何に他の者が体罰などの制裁を加えても、本人自身が自身の行いの是非を自覚しないなら、恨みなどを呼ぶことになる。
それ故に、自分で自分の是非に気付かせるようにしていかなければならない。
こうした事は、宗教の世界によって行われる。
即ち宗教では、自身の姿のありようを直視することが求められるからだ。
その上で、体罰の是否はは自身の手で決定される。

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