青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

青い鳥の世界観  (中)

2008年03月19日 | 人生設計
釈尊は、悟りを開かれた。かといって悟りを開かれたのは、釈尊が初めてではないと言っていられる。
ともあれ釈尊が「何を悟られたか」ということになるが、普通仏教の開祖とされているところから、精神的なこととか人生道とかと思われがちになる。それは後代の仏教宗派の教えとか教義とかを見れば、そうした感じを持ってしまう。
私も初めは、そんなふうに思っていた。しかし欲張りなものだから「何故そうなる?」と疑問が出てどうにもならなくなり、迷路に陥ってしまったものである。そして釈尊の教えの原点が、この世の成り立ちというか、仕組みというか、法則というか、そういうものを明らかにしたところから出発していると気が付いたものである。
それは釈尊が何を悟ったか、いわば釈尊の世界観でもある。
釈尊の悟ったもの、世界観は、これと固定化できるものはない。あいまいなものである。
あいまいといっても、あやふやとは言えず、四つのものによって関連つけられていて、どれが主体をなしているとはいえないだけである。だがこうした主体性のない中で唯一つ言えるのは、縁起しているというという事である。
後の三つについては別に述べるとして、縁起とは「因」となるものが「縁」によって「結果」となることである。
この縁起観は、物質においても、精神、心の分野においても通用する。
そしてこの縁起は、進歩的や発展的や前進的なだけでない。反対の退歩的な後退的な敗退的逆進的な縁起も存在する。
例えば私達が資源を利用して豊かで便利な生活が出来る訳だが、それは大気汚染や水質汚染や異常気象等を生み出す元ともなっている。すなわち「正」の縁起を生み出す一方。「負」の縁起をも生み出している。
「因果応報」という言葉があるように、縁起は必ず結果を生み出す。しかしそれは、「縁起を生じさせる」時のみとは限らない。「縁起が生じない」時にも、縁起は生ずる。
先の例で言えば、「豊かさや便利さを求めない」なければ、「大気汚染等は生じない」から、理解できるだろう。
縁起はこのように世界観の中心的役割をなしているように見えるが、しかし縁起自体が示すように、縁起もまた他の三つのものが存在する時存在し、存在しない時には存在しないというあいまい性がある。
次には他の三つのものと、縁起との関わりによる世界観を、述べることにする。

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