仏教における「三帰依文」とは、次のようになっている。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
しかし我々は、この「三帰依文」の心を、心として抱かないでいる。
この「心として抱かない」というのは、我々が仏の存在を、存在として認めていない事にある。
それは何故か、どうしてかというと、この「三帰依文」に謳われている「仏、法、僧」というものが、自分とは異なったものとして扱っている事による。
即ち、「自分」と「仏、法、僧」が対立し、相対しているという事になっているからである。
「三帰依文」の真の心は、「私」という自分の中に「仏、法、僧」をしっかりと擁立し、その自分の中の「仏、法、僧」を輝かしく表顕していく事にある。
「仏俗一体」であらねばならない。
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