信仰や宗教というと、偶像を尊崇する。
「神や仏」である。
だが真の信仰であり宗教であるならば、こうした神や仏を存在させない。
何故かみや仏の存在を否定するかというと、「個が無い」からなのだ。「個」の存在そのものが、無い事による。
「個」の存在が無ければ、何も成り立たないということになるが、しかしこの「個」というものは、「あって無き」ものでもある。
すなわち「個」としては無いけれども、「個」として存在させるものがあると「個」は存在することになることを意味している。
我々は「A」があるとするけれども、それは単に「A」のみが存在しているとはいえない。他の「B,C,D・・・・・・・」などが存在することにより「A」が存在すると言えるし、存在できる事になる。それは「A」が能動性を持つことを意味しているし、また他のものとからの受動性を持つことを意味している。
という事は、我々と神や仏の間にも、神や仏の能動性と受動性関係があり、神や仏を存在させるという事は、我々そのものを存在させる事でもある事になる。
しかしながら、神や仏を存在させうる我々となると、一様にはいかない。
何故なら、我々一人一人には個性があり性質や性格、生きている環境とかによって、神や仏を受け入れる、即ち能動性と受動性の保持の仕方が異なってくる事にある。
それは例えば、一つの卵子に対して一億もの精子が受精しようとしていながら、たった一つの精子としか受精できない。それは卵子と精子との能動性と受動性の釣り合いからだともいえる事になる。
仏教ではこういうことを、縁起といい、因縁ともいう。
縁起や因縁は、お互いの相手との能動性と受動性との一致によって、この世が築かれていく。こういう築かせる働きを、一般的に「神や仏」と言っている。
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