青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

お勤め

2016年07月25日 | 人生設計

お勤め

新聞第1面下段には、「なぜ生きる」という本が発売中という広告が、よく出ている。
「なぜ生きる」ということ、それは「何のために生きる」ということともいえ、命を授けられ生かされている身としては、避けて通れない命題といえる。
何となく生きるというのでは、空しい。自分本位になって身勝手になり我がままに生きるというのも、その生涯は実りのないものになってしまう。
富や金銭、名誉や地位を得ることに齷齪して生きてきても、それらが得られたのは1時的なものでしかなく、必ず崩れていって消えていく。
それが世の常であり、習いである。
「なぜ生きる」ということの解答を得たならば、それを全ての人々と分かち合い、より良い平和な社会作りに役立てていくとともに、子々孫々に伝えていくことができるなら、命あるものとして生を得た気が持てることとなる。
1度この本を読んでみたいものだが、もう図書館へ借りに行かれる身ではなくなったし、僅かばかりの年金では通院費などに消えてしまったりして余裕がなく、買って読むこともできない。
しかし自分なりに考えることはできる。思うこともできる。
その考えてみたことや思ってみたことを、述べてみたい。

まず初めに述べておかなければならないが、この「なぜ生きる、何のために生きる」ということと向かい合うためには、心掛けて心得ておかなければならないことがある。
それは「命を授けられ生かされている」ことへの有り難さを、感謝すべきことである。この有り難いと感謝する心とういう気持ちがないならば、より良い人生への道を開くものともなるこのことに向き合うことはできない。
「有り難いと感謝」する気持ちと心が持てるなら、自ずとこの「なぜ生きる」という命題の答えは、この有り難いと感謝する行為の中に見付けられるだろう。
私はそれを「お勤め」と考え思った。別の言い方をすれば、命を頂生かされていることへの「ご恩返し」のことである。
これを次の5つあると考えてみた。

○  親や年寄りを敬愛し、障碍者なども親切にしてあげて大事にしてあげる。
○  夫や妻は、自己本位になって我がままにならず、相手を理解することに努めて仲睦ましくしていき、より良い家庭を築くことに努めていく。
○  子供を慈しみ、しっかりと人としての務めが行えるように躾け育てていく。
○  隣近所の人と仲良くしていくように努め、より良い社会の一員となるように努めていく。
○  お勤めを行う対象は、人のみに限らないう。動植物のみならず、水や空気や鉱物なども命あるものであり、すべてのものを粗末にしてはならず大切にしていき大事にしていかなければならない。

これらのものは全て行わないことには、意味を持たない。自己本位になり身勝手になり、我がままを押し通すことになるからである。
そしてこのお勤めというこの行いの仕方は、誰も教えはくれない。教え導いてくれるものが、いないのである。
教育というような師がいない。というのは、我々が普通に思っている教育というものは、学校現場のみに限定してしまっていることにある。だが学業を終え卒業してもう終わりではなく、社会に出、世の中に出ていけば、そこにしっかりと生きていかなければならない世間教育、社会教育、家族間教育らを修めていかなければならない。その教え導いてくれる師が、いないのである。
恩師とか先輩などに頼ろうとしても、彼らの生き方は自分が持っている性格や性質や考え方に基づいたものであり、それをこちらの方に当てはめることはできない。
しかしたった一つの方法はある。どういう方法かというと、自分で自分を教え導くという方法である。それはまた、それを教え導いていける人間になっていかなければできないものであるから、自分自身をそのように鍛えていかなければならないことになる。
このように自分自身を鍛え、自陣で自分を教え導いていくということを、信仰ともいい宗教ともいう。そしてこの宗教は、人とも自然とも寄り添うことから自発的に行うことになり、そこにお勤めという「なぜ生きる」ということへの解答が得られてくる。

最後に。毎週土曜午後7時からの民放番組に、「天才志村の動物園」という番組が放送されている。そこにはペットの愛らしさに寄り添い「可愛い可愛い」と言っては歓声を上げている。しかし孤独なお年寄りや、貧困家庭の子供たちへの思いをかける姿は、皆目見られない。
更には毎日他のように「あれがうまい、これがうまい」とか、「どこそこの何がうまい」とか、その上さらに各地で行われる食のイベントの繁栄ぶりを見るにつけ、そうして頂く自分を省みる必要があると思わないでは刷られない。「果たして自分は、そうしたおいしいものを頂くな値する人間だろうか」とである。
人間というものは、欲情にまみれている。その上さらに金銭を追い地位を追い名誉を追っており、かてて加えて、怒りに狂い恨み嫉妬していくし、愚痴や文句や不平不満ばかり漏らすのが我々家の姿である。
子供たちは学校で給食を頂くとき、「いただきます、ご馳走さま」や、姿勢よくして行儀良くいただくように躾けられるが、家庭ではしなくなっている。それというのも親や大人達しないからである。もちろん年寄りたちはしているけれども、親や大人がしないため、それを手本にしてしまっている。
ここに今日の教育の仕方がある。ただ政府が、政権与党の議席を維持するためにのみの対策にしているためよに、子供たちの将来も失われていく。

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