青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

となれば・・・・・・・・・・・・・

2012年10月16日 | 短歌に政治や社会

復興予算「必要事業に厳しく絞る」 首相が明言(朝日新聞) - goo ニュース

となると「赤字国債発行のための特例公債法案」は、減額するか必要が無くなる。

今度は、ちゃんとやれよ・・・・・・・・・・・

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命の心

2012年10月16日 | 人生設計

我々が出生した、即ち産まれた世界、また生きていて生かされている世界というこの世は、生命を持っている。生命を持っていて、生き通しに生きているのが、この世という世界である。

例え「無機質」と言われる「金属、岩石、鉱物、ガラスなど、生命活動がかかわっていない物質」にしても、そこには必ず「生成、形成、結合、離散、分離」などの過程がある。こうした過程を持つ以上、それは「生命を持つもの」と位置付けなければならない。

それはそうと、この生命体は、無機質であれ有機質であれ、そこに「心、精神」が宿るかどうか見てみる必要がある。哲学でいう「心身一元論」か、あるいは「二元論」かに分かれてくるものだが、その前に我々の世界、自然界を構成する原物質、「素粒子」に標準を当ててみることにする。
即ち「素粒子」は、「心、精神」を持っているかどうかという事である。

素粒子は、知っての通り静止していない。動き回っている。
動き回っているという事は、目的を持っているといえる。
目的を持っているならば、その目的とは「生成、形成、結合、離散、分離」などといえる事ができ、それは意図を持っていることを意味する。闇雲な目的ではないことである。
闇雲な目的が無い意図ならば、自ずからして「心、精神」を持つものと言わなければならなくなる。
整ってい
ただここでいう「素粒子の心、精神」は、我々人間の「心、精神とは異なる。
我々人間の「心、精神」は、主に「善と悪、正義と不正義」に分別するという事に重きを置いている。言い換えてみると、我々が「善、正義」と言い募っているものは、「自分可愛さ」に従うものか、あるいは「身勝手をさせてくれるものか」がこの「善、正義」になっている。
それに引き換え素粒子の「心、精神」とは、「素粒子としての自分可愛さ、身勝手さ」ではない。

言い換えてみると、素粒子の「心、精神」は、「善と悪」「正義と不正義」何れにも偏らないものである。偏らないという中立性を持つ。
中立性を持つが故に素粒子は、素粒子としての運動、生命を持った働きを行う。それは「素粒子としての生命の心、精神」に従って行動する。
この中立性的「心、精神」というものは、先にも言ったように「自分可愛さ、身勝手さ」からの闇雲な行為としての「心、精神」ではなく、「生成、形成、結合、離散、分離」などの行いを相対するものに対してどのようにしていくかということとなり、それはただ一つ「相手に良かれ」というものしかない。
そしてこの「相手に良かれ」という思いの中には、「相手が良かれという思いを受け入れ」てもらえることへの感謝が無ければ、「命の心、精神」とはなり得ない。

「相手に良かれ」とすることは、ソモソモが「自分にも良かれ」となるものとなり、「生成、形成、結合、離散、分離」などの行為が正しく整っていく。
この「正しく整った心と精神」は、人間社会をも正しく整えられていく。

しかし我々人間は、「自分可愛さ、身勝手さ」の呪縛という執着に捉えられているため、中々救われない。
これを救い取るのが「信仰と宗教」となる。

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