青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

続・座禅

2011年10月19日 | 人生設計

「座禅」とは、前述したように「気配り」の上に立つものだが、ところが普通の我々は、この「気配り」に感情を入れてしまう。
生活全般において何かがあると、すぐに「喜怒哀楽」で応じてしまうのである。何かがあったなら、何かが起こったなら、それをそのままに受け入れない。「あったこと、起こったこと」に対して、感情で応えてしまっている。
「座禅」は、こうした「あったこと、起こったことけ」をさらりと受け止めて動じない精神状態に、自分自身の精神の安定を図っていく必要がある。

「精神の安定」を図っていくということは、普通は「あったこと、起こったこと」などに対して「喜怒哀楽」ということにしか執着できないでいて、「有りのままを受け入れる、有りのままに見る」ということに心を閉ざしていた扉を、思い切って完開し、「全てのものを有りのままに受け入れ、全てのものを有りのままに見る」ということとなる。
これは「心の扉」を開かない限りできない。「あったこと、起こったこと」に対して「喜怒哀楽」むき出しにしてそのことに執着していたなら、「愚痴、怒り、貪り」の三界に陥る。
だが「心の扉」を開くとき、外界のもの全てを受け入れるだけではなしに、自分自身の内部のもの全てを惜しみなく晒すことともなる。
「自分自身の内部を晒す」ことによって、それは「外部の全てを受け入れる」要素とも要因ともなる。
この「心の扉」を開き、外部のものを受け入れ、自分自身の内部を惜しみなく晒す、そしてこの「内部を惜しみなく晒し」て「外部のものを受け入れる」ということは、「気配り」であり、これは「能動性と受動性」であることを示し、その根幹を意味する事となる。

弘法大師が立てられた「真言密教」には、「胎蔵」という教えがある。
これは概要で述べると、我々が苦しみや辛さ、悲しさから解放されないでいるのは、秘密の蔵の扉を閉ざしたままでいるから、この秘密の蔵の扉を開きなさいという教えである。
そしてこの秘密の蔵の扉は、どこかにあるのではなく、自分自身が「自我、欲望」によって隠され、かつ閉ざしてしまっているもので、この「自我と欲望」を修行によって消滅させていかせるというのが「胎蔵」という名の示す通り、自分自身が隠してしまっている秘密の蔵を開かせることなのである。

しかし「修行や座禅」は、「修行や座禅」ではない。
「参禅必ずしも山水を持ちえず、心頭を滅却すれば火もまた涼し」
「修行にも座禅にも」、拘りなきままが、「修行であり座禅」である。

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俳句 7.

2011年10月19日 | 俳句と川柳

★ 窓の辺に 色付く山が 長寿園                   2011/10/19

ディサービスでお風呂に浸かっていると、窓から小山が見えます。杉の木ばかりの小山のようですが、色付き始めました。

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