青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

愚かさの美学  (番外編 3)

2008年09月29日 | 人生設計

これまでの「愚かさの美学」連載シリーズにおいては、主に食品や食糧についての事を取り扱ってきた。だがこの「愚かさの美学」的なことは、こうした事に止まらない。他にも色んなことがある。

今回は「エネルギーに関する事を、取り上げてみたい。
私達にとってエネルギーは、「快適さと豊かさ」のために、無くてはならないものになっている。とはいえこのエネルギーは、元々補助的な役割のものであった。私達の持っていないもの、無いものを、伴うものだったものであった。
それを、必要不可欠なものにしてしまっている。そして、それを当てにし、寄りかかり、あって当然、受けて当然と思うようになり、浪費するようになっている。そしてそれが「美学として美徳として」受け止めている。

移動するにしても、歩行運動を主体としていたものが、機械に頼るようになり、更に燃料エネルギーによる移動が当たり前になってきた。それも「娯楽」に利用される事が、豊かさや快適さの象徴とされる事となっている。
健康な立派な肉体を持ちながら、鍬を持つよりマイクを、櫓を漕ぐよりバットを、鎌を振るうよりゴルフクラブを、乳幼児や老人の世話をするより観客席で声援をと、与えられた本来のエネルギーを有効に使いこなさずして、化石燃料や電力に頼っている。そこに現代社会の「愚かさの美学」がある。

美学は美学でも、「愚かさの美学」はもろい。
先日なども停電トラブルで何本もの新幹線が止まり、乗客は線路上を歩かされるやら、五万人近い人に影響が出るやら、文明の利器は、とんでもない廃物みたいになっている。
そこには、楽をして快適や豊かさを求めようとする「愚かさの美学」がある。

ここで述べている「愚かさの美学」は、ひょっとすると「孤立性」を思わせる考え方と思われるかもしれない。「自立性、自主性、独立性」というところから見ても、そういう感じを持たれることだろう。
だが「美学」の「美」として認めてもらうには、相対する「他との関わり」が無い事には、「美」を認めてもらう事はできない。
だとしたら、「他との関わり」の中にあってこそ、「自立性、自主性、独立性」は「美学」的な「美」となる事ができる。
即ち、「他との関わり」との「共存」による。

私達は、豊かさとか快適さを追い求める「自存的」生き方をするのではなく、「愚かさの美学」は、「他との共存」する事によって、本当の正しい「美学」となる。

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